律令国の分類
作成日:2023/3/3
律令国の分類
分類一覧
律令国の分類
律令制確立直後の、
西暦704年(
大宝4年)に全国の国印が一斉に鋳造された。
それを機会に国名に用いる文字が改定され、現在までつづく表記となった。
奈良時代初期の
西暦713年(
和銅6年)に、
元明天皇は、
令制国毎に『風土記』という地誌の編纂を命じた。
現在、出雲国、常陸国、播磨国、肥前国、豊後国の物が、一部残存している。
同年5月に畿内と七道諸国の郡(こおり)・郷(さと)の名に好字を付けるように命じた。(
好字二字令)
上毛野国・下毛野国・木国・粟国の国名が漢字2文字に統一された。
西暦738年(
天平10年)諸国の国郡図を進上させる。
西暦739年(
天平11年)末頃から
西暦740年(
天平12年)初めの頃に郷里制を郷制に改める。
天平時代に
聖武天皇が政権に就いた時期には、
平城京では
疫病が蔓延し、社会不安が広がっていた。
これを払拭すべく、
光明皇后の意見も有って、
西暦741年(
天平13年)
令制国には国分寺(国分僧寺)・国分尼寺の建立の詔を出した。
平安時代の『
延喜式』には、各
令制国の郡の個数が記載された。
また、
律令国(令制国)は国力による分類(
大国・
上国・
中国・
下国)と、
都からの距離による分類(
畿内・
近国・
中国・
遠国)が行われた。
律令国の分類一覧
畿内
畿内(きない、きだい、うちつくに)とは、
律令国の等級区分の一つである。
大君(おおきみ)や天皇が住む都の周辺の地域を指す呼称として用いられている。
明治維新以降の東京周辺の地域を指す「首都圏」の概念に類似する。
律令時代には、
大和国・
山城国・
河内国・
和泉国・
摂津国の
令制5か国を指す呼称として用いられた。
現代の行政区分では奈良県の全域、京都府の南部、大阪府の大部分、兵庫県の南東部に当たる。
なお畿内という地域概念は現在でも存在し地方分権などの行政区分や観光などの産業分野でしばし取り上げられる。
五畿・五畿内とも呼ばれる。
ただし、
西暦716年に
和泉国が
河内国より分離される前は、四畿・四畿内といった。
中国とも称される。
西暦1869年(明治2年)の東京奠都まで、歴代の都(首都)は、
主にこの地方に置かれた。
近国
近国(きんごく)とは、
律令国の等級区分の一つである。
律令制のもとで国家体制を整えていた古代の日本において、
地方行政区画の一環として、
畿内からの距離によって国を分けた。
その結果、「近い位置にある国」が近国とされた(畿内の国は分類されない)。
中国
中国(ちゅうごく)とは、
律令国の等級区分の一つである。
国力(規模)による分類と、
畿内からの距離による分類の2種類の分け方が存在した。
朝廷は中央集権体制を確立することを目的とし、
地方行政区画の一環として国力により諸国を四等級に分けた。
中国は「大国」・「上国」に次ぐ3番目の位の国で、「中規模の国」の意。
それとは別に、畿内からの距離によって国を分ける方法も存在した。
その場合は、
畿内からの距離が近い「近国」と、
遠い「遠国」の中間に位置する「中距離にある国」を意味する。
それは現在の中国地方の語源であるという説も存在する。
遠国
遠国(おんごく、えんごく)とは、
律令国の等級区分の一つである。
地方行政区画の一環として、畿内からの距離によって国を分けた。
その結果、「遠い位置にある国」が遠国とされた。
「近国」「中国」「遠国」の3分類の中で最も数が多い。
大国
大国(たいこく、たいごく)とは、
律令国の等級区分の一つである。
朝廷は中央集権体制を確立することを目的とし、
地方行政区画の一環として国力(課丁、管田、貢賦等の規模)により諸国を四等級に分け、
行政上の決裁を行った。
上国
上国(じょうこく、じょうごく)とは、
律令国の等級区分の一つである。
中央集権的な統治制度である
律令制が布かれた時代にほぼ定められた。
朝廷は中央集権体制を確立するために地方行政区画を行い、
政治力・経済力や土地面積・人口などの国力により地方諸国を四等級に分けた。
上国は上から二番目の位の国である。
ただし、等級区分の基準はつまびらかではない。
なお、国の等級区分の違いによって国司の官位等級にも差がつけられた。
下国
下国(げこく)とは、
律令国の等級区分の一つである。
朝廷は中央集権体制を確立することを目的とし、
地方行政区画の一環として国力により諸国を四等級に分けた。
下国は一番下の位の国である。