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聖武天皇(しょうむてんのう、しゃうむてんのう)

作成日:2020/6/6

聖武天皇は、日本の第45代天皇。
文武天皇の第一皇子。母は藤原不比等の娘・宮子。

は首(おびと)であるが、 これは伊勢大鹿首が養育したことに由来するとする説が存在する。

尊号(諡号)を天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)、 勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)、 沙弥勝満(しゃみしょうまん)とも言う。

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第45代天皇 聖武天皇(しょうむてんのう、しゃうむてんのう)

[在位] 西暦724年3月3日(神亀元年2月4日)- 西暦749年8月19日(天平勝宝元年7月2日)《紀》
[生没] 西暦701年大宝元年) - 西暦756年6月4日(天平勝宝8年5月2日)56歳没《紀》
[時代] 奈良時代
[先代] 元正天皇   [次代] 孝謙天皇
[陵所] 佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)
[漢風諡号] 勝宝感神聖武皇帝(しょうほうかんじんしょうむこうてい)。聖武天皇
[和風諡号] 天璽国押開豊桜彦天皇(あめしるしくにおしはらきとよさくらひこのすめらみこと)
[] 首(おびと)
[父親] 文武天皇   [母親] 藤原宮子(ふじわら の みやこ)
[皇后] 藤原光明子(ふじわらのこうみょうし)
[皇居] 難波宮平城宮
[別称] 沙弥勝満(しゃみしょうまん)
[夫人] 県犬養広刀自(あがたのいぬかい の ひろとじ)
[子女] 孝謙天皇
    基王(もといおう)神亀4年閏9月29日(西暦727年11月16日) - 神亀5年9月13日(西暦728年10月20日)
    安積親王(あさかしんのう)
    井上内親王(いのえないしんのう/いがみないしんのう)
    不破内親王(ふわないしんのう)

略歴

天皇の系譜(第38代から第50代)

文武天皇の第一皇子として生まれたが、 慶雲4年6月15日(707年7月18日)に7歳で父と死別、 母の宮子も心的障害に陥ったため、 その後は長く会うことはなかった。
物心がついて以後の天皇が病気の平癒した母との対面を果たしたのは齢37のときであった。
このため、同年7月17日(707年8月18日)、 文武天皇の母である元明天皇(天智天皇皇女)が中継ぎの天皇として即位した。 和銅7年6月25日(714年8月9日)には首皇子の元服が行われて同日正式に立太子されるも、 病弱であったこと、 皇親勢力と外戚である藤原氏との対立もあり、 即位は先延ばしにされ、 翌霊亀元年9月2日(715年10月3日)に文武天皇の姉である元正天皇が「中継ぎの中継ぎ」として皇位を継ぐことになった。
24歳のときに元正天皇より皇位を譲られて即位することになる。

聖武天皇の治世の初期は、皇親勢力を代表する長屋王が政権を担当していた。 この当時、藤原氏は自家出身の光明子(父:藤原不比等、母:県犬養三千代)の立后を願っていた。 しかし、皇后は夫の天皇亡き後に中継ぎの天皇として即位する可能性があるため皇族しか立后されないのが当時の慣習であったことから、 長屋王は光明子の立后に反対していた。 ところが神亀6年(729年)に「長屋王の変」が起き、 長屋王は自害、反対勢力がなくなったため、 光明子は非皇族として初めて立后された。 「長屋王の変」は、長屋王を取り除き光明子を皇后にするために、 不比等の息子で光明子の異母兄である藤原四兄弟が仕組んだものといわれている。 なお、最終的に聖武天皇の後宮には他に4人の夫人が入ったが、 光明皇后を含めた5人全員が藤原不比等・県犬養三千代のいずれか、 または両人の血縁の者である。

天平9年(737年)に天然痘の大流行が起こり、 藤原四兄弟を始めとする政府高官のほとんどが病死するという惨事に見舞われ、 急遽、長屋王の実弟である鈴鹿王を知太政官事に任じて辛うじて政府の体裁を整える。
さらに、天平12年(740年)には藤原広嗣の乱が起こっている。
乱の最中に、突然関東(伊勢国、美濃国)への行幸を始め、 平城京に戻らないまま恭仁京遷都を行う。
その後、 約10年間の間に目まぐるしく行われた遷都平城京から恭仁京難波京、紫香楽京を経て平城京に戻る)の経過は、 『続日本紀』で多くが触れられている。
詳しい動機付けは定かではないが、 遷都を頻繁に行った期間中には、 前述の藤原広嗣の乱を始め、 先々で火災や大地震など社会不安をもたらす要因に遭遇している。

天平年間は災害や疫病(天然痘)が多発したため、 聖武天皇は仏教に深く帰依し、 天平13年(741年)には国分寺建立の詔を、 天平15年(743年)には東大寺盧舎那仏像の造立の詔を出している。
これに加えてたびたび遷都を行って災いから脱却しようとしたものの、 官民の反発が強く、最終的には平城京に復帰した。
また、藤原氏の重鎮が相次いで亡くなったため、 国政は橘諸兄(光明皇后の異父兄にあたる)が執り仕切った。
天平15年(743年)には、 耕されない荒れ地が多いため、 新たに墾田永年私財法を制定した。
しかし、 これによって律令制の根幹の一部が崩れることとなった。
天平16年閏1月13日(744年3月7日)には安積親王が脚気のため急死した。
これは藤原仲麻呂による毒殺と見る説がある。

天平勝宝元年7月2日(749年8月19日)、 娘の阿倍内親王(孝謙天皇)に譲位した(一説には自らを「三宝の奴」と称した天皇が独断で出家してしまい、それを受けた朝廷が慌てて手続を執ったともいわれる)。
譲位して太上天皇となった初の男性天皇となる。

天平勝宝4年4月9日(752年5月30日)、 東大寺大仏の開眼法要を行う。
天平勝宝6年(754年)には唐僧・鑑真が来日し、 皇后や天皇とともに会ったが、 同時期に長く病気を患っていた母の宮子と死別する。
天平勝宝8歳(756年)に天武天皇の2世王・道祖王を皇太子にする遺言を残して崩御した。
宝算56。戒名は、勝満。

聖武の七七忌に際し、 光明皇后は東大寺盧舎那仏(大仏)に聖武遺愛の品を追善供養のため奉献した。 その一部は正倉院に伝存している。
なお、明治40年(1907年)から明治41年(1908年)の東大寺大仏殿改修の際に、 須弥壇周辺から出土した鎮壇具のうち金銀装大刀2口が、 奉献後まもない天平宝字3年(759年)12月に正倉院から持ち出され、 奉献品の目録である東大寺献物帳(国家珍宝帳)に「除物」という付箋を付けられていた「陽寶劔(ようのほうけん)」と「陰寶劔(いんのほうけん)」であることが平成22年(2010年)にエックス線調査で判明した。

この2口の大刀は聖武天皇の遺愛品であり、 正倉院に一旦納めた後、光明皇后に返還されたと考えられる。

后妃・皇子女

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市法蓮町にある佐保山南陵(さほやまのみなみのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。遺跡名は「法蓮北畑古墳」。 なお、光明皇后は佐保山東陵に埋葬されている。また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

備考

仏教政策について
飯沼賢司は聖武天皇およびそれ以降の仏教政策について以下のように解説している。
聖武天皇の治世の前期、行基を中心とする集団が弾圧されたが、 当時の朝廷は仏教は天皇やその周辺の支配層のためのものだという考え方があり、 その政策の基調を作ったが天皇の外祖父で光明皇后の実父でもある藤原不比等であった。 ところが、聖武天皇は次第に行基や知識の活動に関心を抱き始め、 河内の知識寺訪問や行基との対面を得て、 紫香楽京での大仏造立を決意した。 しかし、 行基集団や知識の力を借りて民衆を巻き込んだ大仏造立を進める天皇と、 国分寺や国分尼寺建立政策などを通じて父・不比等の路線を継承した皇后の間に、 次第に仏教観を巡る対立が生まれ、 最終的に国分寺の総本山である奈良の東大寺で大仏が造立された(飯沼は、光明皇后の念頭にあったのは唐の則天武后が国家主導で造立した奉先寺の大仏であったとする)。
天皇と皇后の仏教観の対立は、 行基亡き後に僧綱の中心にあった行信の配流事件や朝廷の政治的対立にも影響を与え、 やがて皇后の甥にあたる藤原仲麻呂が政権を取ったことで皇后側の優位に終わったかと思われた。 だが、天皇と皇后の娘であった孝謙天皇(後に称徳天皇)は両親の死後に弓削道鏡の補佐を受けて父・聖武の路線を継ぐことを明確にし、 窮地に立った仲麻呂は藤原仲麻呂の乱で滅亡する。 そして、優れた仏教者・菩薩であれば、 身分を越えて国王になれるという国家観に辿り着いた称徳天皇は、 道鏡を皇位につけるべく宇佐八幡宮神託事件を引き起こしてしまう。 その後、 桓武天皇が平安遷都による仏教勢力の影響力排除や最澄・空海の庇護、一連の対立に関わった八幡神の神仏習合の推進(八幡大菩薩の誕生)を行うことで、 聖武天皇の鎮魂と共に事態の収拾にあたったとする。
奈良国立博物館
奈良国立博物館新館の入り口には聖武天皇筆「雑集」から集字した題字が掲げられている。
命日の西暦換算
2012年(平成24年)9月、 宮内庁は1873年(明治5年)の改暦の際に命日の換算を間違えていたため、 2012年春から正しい日に直したことを『書陵部紀要』に発表した。 聖武天皇の崩御日の旧暦はユリウス暦では6月4日、 グレゴリオ暦では6月8日となるが、 約140年間にわたり1日前の6月7日に祭祀を行っていたことになる。 後嵯峨天皇も同様に計算違いで1日命日が異なっていたという。

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