小窓
上総国(かずさのくに)

作成日:2023/3/11

上総国(かずさのくに)/ 総州(そうしゅう)/ 南総(なんそう) 現在の千葉県中部。

東海道の一国。 国力区分は大国、 遠近区分は遠国

『古語拾遺』によると、 よき麻の生きたる土地というところより称したとされる捄国(ふさのくに)から分立したという。
分立の時期については、 『帝王編年記』では上総国の成立を西暦534年(安閑天皇元年)としており、 毛野国から分かれた上野国と同じく「上」を冠する形式をとることから6世紀中葉とみる説もある。

6世紀から7世紀にかけ多くの国造が置かれ、 後の安房国も併せ8つの国造の領域が存在しているが、 ヤマト王権からはこれらの国造の領域を合わせ捄国(もしくは上捄国)として把握されていたものと考えられ、 ヤマト王権と緊密なつながりを有していたともされている。

藤原京出土木簡に「己亥年(699年)十月上捄国阿波評松里□」とあり、 7世紀末には「上捄」の表記であったと推測されるが、 西暦704年大宝4年)の諸国印鋳造時には「上総」に改められた。 読みは、古くは「かみつふさ」であったが、「かづさ」に訛化した。 「かみつふさ」の転であり、歴史的仮名遣では「かづさ」と表記されるが、 現代仮名遣いでは「かずさ」とするため、 「つ」に由来することが見えない状況となっている。

赤:上総国 緑:東海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
沿革

律令制以前は、 須恵、馬来田、上海上、伊甚、武社、菊麻、阿波、長狭の8つの国造が置かれていた。 律令制において、 市原郡、海上郡、畔蒜郡、望陀郡、周淮郡、埴生郡、長柄郡、山辺郡、武射郡、天羽郡、夷?郡、平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の15の郡(評)をもって令制国としての上総国が成立し、 東海道に属する一国となった。 元々東海道は海つ道(海路)であり、 房総半島の畿内に近い南部が上総国、遠い北部が下総国とされた。

西暦718年6月4日(養老2年5月2日)、 阿波および長狭国造の領域だった平群郡、安房郡、朝夷郡、長狭郡の4郡を割いて安房国とした。 西暦742年1月20日(天平14年12月10日)、 安房国を併合したが、 西暦757年天平宝字元年)に再び安房国を分けた。 この時から長く領域は変わらなかった。
そして、西暦826年10月10日(天長3年9月6日)、 上総国と常陸国、上野国の3国は、 国守に必ず親王が補任される親王任国となり、 国級は大国にランクされた。 親王任国の国守となった親王は「太守」と称し、 官位は必然的に他の国守(通常は従六位下から従五位上)より高く、 親王太守は正四位以上とされた。 親王太守は現地へ赴任しない遙任だったため平高望、 良兼や菅原孝標がそうであったように、 国司の実質的長官は上総介であった。

古代末期から中世にかけて上総氏が活動し、 鎌倉期には上総広常、その亡き後は足利氏となる。 室町時代の守護には、高氏、佐々木氏、千葉氏、新田氏、上杉氏、宇都宮氏の各氏が就いた。 15世紀半ばごろより、 原氏、武田氏、酒井氏、土岐氏、正木氏らの各氏が割拠。 16世紀前半には、下総生実に拠った小弓御所足利義明の影響が強まった。 足利義明が西暦1538年天文7年)の国府台合戦で敗死した後は、 小田原の後北条氏、安房の里見氏の抗争の地となり、 在地の諸豪の動きはきわめて流動的であった。

豊臣秀吉の小田原征伐後、 関東に徳川家康が転封されると、 大多喜の本多氏を筆頭に万石5氏が置かれ、 江戸時代には久留里藩、飯野藩、佐貫藩、鶴牧藩、一宮藩、大多喜藩、請西藩の7藩と幕府領・旗本領が展開し、 村数は約1,200ヵ村(天保期)を数えた。

幕末から明治政府成立の過程で、 請西藩は、 朝命に抗したという理由で西暦1868年(明治元年12月)に領地没収となる。 また、徳川家達を駿河静岡藩70万石に封じたことによって、 西暦1869年(明治2年)までに、 菊間藩、金ヶ崎藩(のちに桜井藩)、小久保藩、鶴舞藩、柴山藩(のちに松尾藩)、大網藩の6藩が新たに置かれた一方、 幕府領・旗本領は安房上総権事・柴山典の管轄下に置かれた。

西暦1869年(明治2年)の版籍奉還で藩主は知藩事に、 旧幕府領・旗本領は安房上総知県事となり、 安房上総知県事の管轄地には宮谷県が置かれて柴山典が権知事となり、 管轄地は上総において約8万7,800石。 安房を加えると計37万1,700石であった。 西暦1872年(明治4年)、廃藩置県が行われると、 旧藩領と宮谷県は大きく木更津県に統合された。 西暦1874年(明治6年)には木更津県と下総を管轄していた印旛県が統合して千葉県が成立し、 管轄が移行した。