信濃国(しなののくに)/ 信州(しんしゅう) 現在の 長野県、岐阜県中津川市の一部。
東山道の一国。
国力区分は
上国、
遠近区分は
中国。
『
万葉集』での枕詞は「水薦苅(みこもかる)」。
古くは「しなぬ」と呼ばれ、
継体天皇条には「斯那奴阿比多」、
欽明天皇条には「斯那奴次酒」と「斯那奴」(しなぬ)の字が充てられている。
「科野」の語源については諸説あるが、
江戸時代の国学者である谷川士清は『日本書紀通證』に「科の木この国に出ず」と記し、
賀茂真淵の『冠辞考』にも「(一説では)ここ科野という国の名も、この木より出たるなり。」と記しており、
「科の木」に由来する説が古くから唱えられている。
また賀茂真淵は「名義は山国にて級坂(しなさか)のある故の名なり」とも記しており、
山国の地形から「段差」を意味する古語である「科」や「級」に由来する説を残している。
他に「シナとは鉄に関連する言葉」とする説もある。
また級長戸辺命(しなとべのみこと、風神)説もある。
小林敏男は、「シナ(段差)」に由来する説を取った上で、
シナノという地名の発生地を埴科・更科エリアであるとした。
7世紀代の信濃を記すものとして知られる唯一の木簡は、
7世紀末の藤原宮跡から出土した「科野国伊奈評鹿□大贄」と見えるもので、
『
古事記』にある「科野国造」の表記と一致する。
当時は科野国と書いたようである。
これが
西暦704年(
大宝4年)の諸国印鋳造時に信濃国に改められた。
「科野」は
西暦713年(
和銅6年)の『風土記』を境に、
「信野」を経て「信濃」へと移り変わっていく。
長野県で最も古い「信濃国」の文字は、
西暦1994年(平成6年)に千曲市屋代遺跡群から発見され、
現在は長野県立歴史館に所蔵されている
8世紀前半(
西暦715年~
西暦740年)の木簡となる。
『
日本書紀』には信濃国について、
「是の国は、山高く谷幽し。翠き嶺万重れり。人杖倚ひて升り難し。巌嶮しく磴紆りて、長き峯数千、馬頓轡みて進かず。」とある。
平安時代末期から
鎌倉時代初期にかけて、
南宋から帰朝した禅宗の留学僧によって「信州」と称されるようになった。
西暦1179年(
治承3年)に仁科盛家が覚薗寺に寄進した千手観音像の木札に「信州安曇郡御厨藤尾郷」とあるのが初出である。