讃岐国(さぬきのくに)/ 讃州(さんしゅう) 現在の香川県。
南海道の一国。
国力区分は
上国、
遠近区分は
中国。
『
古事記』に見る神代の呼称は「飯依比古」と云い、
伊予之二名島の顔の一つとされた。
国名の表記として、
「讃岐」のほか「讃伎」「賛支」とも表記されたことが木簡から分かっている。
高松藩の藩儒、
中山城山によってまとめられた地誌である『全讃史』(
西暦1828年(
文政11年)に成立)には「四国内の他の国よりも緯(ぬき。東西の距離)が狭いために『狭緯(さぬき)』と称した」とされ、この名称と文字が時を経るに転じて『讃岐』となったと記されている。
現在でも香川県の地域区分として「東讃」「中讃」「西讃」という名称が使用されている。
律令制において、
讃岐国造の領域であった現在の香川県の四国部分と、
おそらく塩飽諸島を範囲として成立した。
江戸時代に小豆島と直島諸島が
備前国から譲られた。
平安時代初期には真言密教を興すことになる空海が讃岐国那珂郡に生まれた。
平安末期には瀬戸内海水運を握っていた平家が屋島を根拠地の一つとしていたが、
源義経の奇襲に敗れて滅んだ。
室町時代には細川氏が讃岐に根を張る南朝方を白峰合戦で破ると、
讃岐阿波を中心として細川一族が四国を管轄した。