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摂津国(せっつのくに)

作成日:2023/3/11

摂津国(せっつのくに、旧字体:攝津國)/ 摂州(せっしゅう) かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

畿内の一国。 国力区分は上国、 遠近区分は畿内。 現在の大阪府北中部の大半と兵庫県南東部にあたる。

赤:摂津国 緑:畿内。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
地域

摂津国の範囲は、 概ね現在の大阪府淀川以北および大阪市域と尼崎市から神戸市・三田市に至る兵庫県南東部に当る。 南に和泉国、東に河内国山城国、北に丹波国、西に播磨国とそれぞれ接する。
摂津・河内・和泉三国の国境は、 現在の堺市の方違神社(三国山・三国丘)にあったが、 西暦1871年(明治4年)に和泉との国境は堺大小路から大和川に改められ、 一部が和泉に編入された。

易林本の『節用集』に摂津は「南暖北寒、故五穀先熟、魚鹽繁、大上國也」と記されており、農漁業が盛んで豊かな地勢であったことが分かる。

古代

瀬戸内海航路の起点で、淀川・大和川水系との結節点でもある住吉津や難波津、 中世には渡辺津があり津国(つのくに)と呼ばれ、港湾都市であり、 国内流通の中心であった。

初代天皇である神武天皇即位前、 上町台地の先端、難波埼 (なにわさき) に生国魂神社を創建。 第14代仲哀天皇9年(西暦200年)、 神功皇后三韓征伐より七道の浜(現在の大阪府堺市堺区七道、南海本線七道駅一帯) (当時は住吉郡) に帰還した時、 神功皇后への神託により天火明命の流れを汲む一族で摂津国住吉郡の豪族の田裳見宿禰が、 住吉三神を祀る(住吉大社の始まり)。

弥生時代後期~古墳時代応神天皇行宮として難波大隅宮 (なにわのおおすみのみや) 、 大王(オオキミ)と呼称された倭国の首長であり河内王朝の始祖である仁徳天皇は難波に都を定め皇居を難波高津宮とした。 欽明天皇の難波祝津宮 (なにわのはふりつのみや) も営まれ、 当時における国内流通の中心であり港湾都市である住吉津や難波津が開港される。 西暦593年推古天皇元年)、 推古天皇摂政で日本の仏教の祖である聖徳太子が難波の荒陵(あらはか)に日本最古の官寺四天王寺を造立した。

西暦645年大化元年)に都は難波に戻り、 孝徳天皇は再び難波に遷都し、 大化の改新と呼ばれる新政はこの地で行なわれた。 以後、日本という国号の使用と共に元号の使用が始まったとされる。 西暦652年白雉3年)に日本で最初の首都となる難波宮(前期難波宮=難波長柄豊崎宮)が完成した。 大王と呼称された仁徳天皇難波高津宮も難波宮が作られた周辺にあったとする説が最も有力な説とみなされている。 孝徳天皇の後、 都は飛鳥に戻ったが、壬申の乱に勝利した天武天皇は、 畿内の外港を抱える要地難波宮を副都とし、 国司を置く代わりに、 津国を摂(管掌)する機関として特に摂津職(せっつしき)を置いた。 摂津職は京官とされ、大夫・亮・進・属の四等官で構成された。

前期難波宮天武期に焼失したが、 西暦726年神亀3年)、 聖武天皇難波宮(後期難波宮)の造営に着手し、 平城京の副都とした。 西暦744年天平16年)には恭仁京から難波宮への遷都が実施された。 聖武天皇遷都の翌年再び平城京に遷ったが、 その後も難波は副都として維持された。 しかし、桓武朝の長岡京への遷都に伴って難波宮が解体され、 副都の実は失われたため、 西暦793年延暦12年3月9日)に摂津職を廃し、 新たに摂津国を置いた。 前身の摂津職から引き継いで「摂」の字を冠して「せっつのくに」となったが、 元の津国の訓みそのままに「つのくに」とも呼ばれた(西暦713年和銅6年)の諸国郡郷名著好字令(好字二字令)により摂津国と改称されたという説もある[要出典])。 後世において、別称が「摂」の字を取って摂州となる一方、 摂津国町(つのくにまち。現在の大阪市北区天神橋3丁目の一部)、 摂津国屋(つのくにや)のように「つのくに」呼称も長く用いられた。

難波津も土砂の堆積が進み、 その機能は淀川分流にある神崎や江口などに移っていった。

清和源氏の祖・源経基の子・満仲は摂津守に任ぜられて河辺郡多田荘に館を構え、 またその長子・頼光も摂津守に就き、 子孫が所領を継承して摂津源氏と称した。 頼光四天王の筆頭に挙げられる嵯峨源氏の源綱は、 源満仲の娘婿・源敦(仁明源氏)の養子となり、 母方の里である渡辺に居住し、 渡辺氏の祖となった。

中世

平安時代末期、 日宋貿易を重視した平清盛は大輪田泊(神戸市兵庫区)に着目し、 湊の前面に人工島(経が島)を築いて安全な碇泊地を設けようと、 私費を投じて修築工事を行なった。 西暦1168年仁安3年)、 清盛は出家して福原(神戸市中央区から兵庫区)に別荘をかまえ、 以来ここに住んで周辺一帯を経営した。 西暦1180年治承4年)、 清盛は大輪田泊を見下ろす山麓に福原京を築き、 平安京からの遷都を強行した。 しかし、11月には京に還都となった。

鎌倉時代に入ると、 東大寺の重源が中絶していた大輪田泊の修築事業に乗り出し、 やがて兵庫津(ひょうごのつ)と呼ばれて国内第一の港として発展し、 室町時代には日明貿易の拠点となった。

室町時代、摂津の守護職は管領細川氏が世襲した。 ただし、細川氏を牽制する意図から室町幕府は国内各地に分郡守護を設置した。 このため、室町時代初期(南北朝合一を果たした明徳年間前後)に細川氏の安定した支配が確立していた今日の千里丘陵より東側の地域(島上郡・島下郡のほぼ全域)を上郡(かみのこおり)と総称された。 その後、応永年間までに千里丘陵以西の摂津平野部を掌握した細川氏は豊島郡・川辺郡南部・武庫郡・菟原郡・八部郡を下郡(しものこおり)と称した。 ただし、上郡・下郡は本来の郡境と全く合致したものではなく、 有馬郡においては播磨守護赤松氏が分郡守護となって一族の有馬氏が支配しており、 川辺郡北部や能勢郡は清和源氏ゆかりの多田院に与えられていた(多田院御家人)が後に同地の国人・奉公衆であった能勢氏は細川氏の傘下に加わっている。 そして、神崎川以南の西成・東成・住吉の3郡(ほぼ現在の大阪市域)別に分郡守護が置かれて細川氏の支配から欠けていたため、 欠郡(かけのこおり)と総称された。 欠郡は嘉吉の乱後に細川氏の支配下に入るが守護家である宗家(京兆家)ではなく、 庶流である典厩家が支配するなど異なる支配体制が取られた。 なお、有馬郡も天文年間に赤松氏宗家が衰退すると、 有馬氏が細川氏(実質は下郡の守護代であった三好氏)の傘下に入ることになる。