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三河国(みかわのくに)

作成日:2023/3/11

三河国・参河国・參河國(みかわのくに) / 三州・参州 (さんしゅう) 現在の愛知県中・東部。

東海道の一国。 国力区分は上国、 遠近区分は近国

古事記』には「三川」と表記され、 7世紀の出土木簡にもみな「三川国」と記されている。 律令制-平城京までは「参河」と表記。 長岡京以後は、 「三河」と表記したことが、木簡から判明している。 また、『万葉集』には三河は水河とも当て替えられている。

「三河」の国号の由来は、元来不明である。 山崎闇斎は、再遊紀行の中で、参河風土記逸文と称して、三大河説を唱える。 さらに、江戸中期の三河国二葉松で、 序文の著者である小笠原基長と太田白雪がこの三大河説を補強する。 古事記伝や東海道名所図絵にも引用されていく。 諸国名義考;斎藤彦麻呂にも引用されているが、三大河説に疑義を唱え、 大川を称え御川という自説を載せている。 尾張藩士の岡田啓による三河国号起源;参河国全図;天保8年や渡辺政香;参河志にも引用される。

(江戸時代末期まで、『先代旧事記(国造本紀)』が一般に広く知られていなかった。 そのため、西三河=三河国造、東三河=穂国造という概念もないため、 三河の国号が西三河から発祥しているという認識はなかった。)

他にも、江戸末期に豊橋の羽田野敬雄が、加茂の神の御川という説を唱えたが、 支持されるに至っていない。矢作川は古代から矢作川と呼ばれており、 御川と呼ばれていた事実はない。 加茂は、加茂郡(豊田市)のことで、矢作川の上流に当たり、 加茂の神(加茂神社)に絡めたものである。

赤:三河国 緑:東海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
沿革(古代)

「国造本紀」によると、 成務天皇の御代に物部氏族の知波夜命が参河国造(三河、三川)に、 雄略天皇の御代に菟上足尼が穂国造に定められたとされるが、 「天孫本紀」では成務天皇に仕えた物部氏族の胆咋宿禰が三川穂国造の美己止直の妹・伊佐姫を妻としている。 また、『古事記』にも丹波道主命の子・朝廷別王が穂別君の祖と見え、 宝飯郡には朝廷別王を祀る神社が二社存在する。

西暦645年前期難波宮で行われた大化の改新後に穂国造と参河国造の支配領域を合わせて成立したと考えられている。 参河国が確実に存在したのは律令制の成立以後である。 これに対し穂国に関しては7世紀後半に石神遺跡から、 三川国穂評と記載された木簡が出土しており、 「穂」が三河の一集落であると読み取れることから存在を否定する説もある。 しかし、国造国が評制に移行した例は阿蘇国造(阿蘇評)、 宇佐国造(宇佐評)、 吉備下道国造(吉備評)、風速国造(風早評)、小市国造(小市評)、 久味国造(久米評)、都佐国造(都佐評)、笠国造(加佐評)、 賀陽国造(加夜評)、針間鴨国造(加毛評)、凡河内国造(川内評)、 葛城国造(葛城評)、洲羽国造(諏訪評)、馬来田国造(馬来田評)、 阿波国造(阿波評)、印波国造(印波評)など数多く存在する。 また穂国造は、 偽書説のある『先代旧事本紀』にしか登場しないとする意見もあるが、 そもそも大半の国造は『旧事本紀』にしか名称が見られず、 近年は『旧事本紀』の史料性を認める意見も数多くあり、 また東三河地域に古墳時代前期から後期にかけての大型古墳が造営されたこと、 国造奉斎社が存在することから、穂国造の実在を訴える説もある。 なお穂国造の本拠は宝飯郡である。

西三河に該当する三河国造の本拠は、 二子古墳のある鹿乗川流域遺跡群(安城市桜井町地域)と推定されている。 石神遺跡から出土した木簡に、 桜井君、長浴部直と記載された地方国主を想定するものがある。 また、三河国内では、古代の木簡は、 安城市の下懸遺跡(小川町)・上橋下遺跡(古井町)・惣作遺跡(木戸町)など、 いわゆる鹿乗川流域遺跡群にのみ出土しており、 天平護田呉部足国(惣作遺跡)、算米物受被賜(下懸遺跡)など、 天平という年号、 呉部足国という古代豪族の人名、米の受取に関する文書、など、 文字文明の早くからの普及が確認できるなど、 何らかの古代の官衙があった可能性が高い。

西三河を南流する矢作川中流右岸に立地する北野廃寺跡は、 飛鳥時代の創建と考えられる三河最古の寺院跡であり、 南大門、中門、塔、金堂、講堂が一直線に並ぶい、 わゆる四天王寺式伽藍配置で造営された。 陶塔・土器類のほか塼仏・磬形垂飾といった優品が出土しており、 伽藍規模の面から見ても、 三河国造のような当地方の有力な豪族による造営が想定される。

また、市の付く地名が、その国の中心地と想定され、 大市郷(安城市上条町)、古市(安城市古井町)と、 「市人」と記載された墨書土器出土(二子古墳南の桜林遺跡;安城市桜井町桜林)など、 安城市の鹿乗川流域にある。

地方の行政区画である郡は、 豪族の支配領域が踏襲されて碧海、賀茂、額田、幡豆(はず)、 宝飫(ほい)、八名、渥美の七郡であった(律令の施行規則『延喜式』民部式)が、 後に設楽郡が宝飫郡から分立して八郡となった。 各地に盤踞する豪族の内でも古墳時代を通じてヤマト政権と強い関係を持った国造から優先的に郡司に任命された。

沿革(中世)

承久の乱の戦功で足利義氏が守護職となり、 三河に土着した足利氏の分家は吉良、仁木、細川、今川、一色といった西三河の地名を苗字とした。 室町時代には仁木氏、一色氏、細川氏などが守護職を勤めたが、 戦国時代になると松平氏、戸田氏などの国人が台頭し、 松平から徳川に改姓した徳川家康が三河を統一した。

三河国から信濃国へ移された根羽・月瀬の両村の変遷

古代・中世の根羽・月瀬村の両村(現在の長野県下伊那郡根羽村)は三河国に属していた。 平安時代の後半、 高橋新荘により現在の愛知県東加茂郡全域と豊田市・西加茂郡・北設楽郡及び長野県の旧根羽村・月瀬両村を含む広大な区域が成立した。 鎌倉時代は、 三河国加茂郡名倉郷に属し、 鎌倉御家人の荘官足助氏の支配下に入ったと伝えられている。

南北朝時代は、加茂郡足助荘に属したとされている。 西暦1571年元亀2年4月)、 武田信玄の西上作戦の一環として足助松山城が攻略され、 根羽・月瀬両村はこの時以降武田領となり信濃国に編入された。

三河国から美濃国へ移された野原村の変遷

室町時代まで、 現在の豊田市の一色町、上切町、上中町、下中町、下切町、島崎町は、 三河国加茂郡足助庄仁木郷であったが、 この地域を支配する領主が、 隣接する美濃国恵那郡の領主であった遠山氏へ娘を嫁がせる際に、 これらの村を美濃国恵那郡に化粧料として割き与えたと伝えられている。

江戸時代。 この地域は美濃国恵那郡であり、 旗本の明知遠山氏の領地であった。