豊後国(ぶんごのくに) 現在の大分県の大部分。
西海道の一国。
国力区分は
上国、
遠近区分は
遠国。
古くは豊前国(現在の福岡県東部と大分県北部)と合せて「豊国 (とよのくに) 」と称したことが『豊後国風土記』『古事記』にみえる。
『豊後国風土記』には8郡、40郷とある。
国府は大分市古国府。国分寺は大分市国分。
『
延喜式』には日田、
大分、
国崎などの8郡、
『和名抄』には 42郷、田 7500町を載せている。
弘安8年(西暦1285年)の『豊後国図田帳』には田 6873町を載せている。
鎌倉時代の初め中原親能が守護となったが、
その子孫大友氏は鎌倉、
室町時代を通じて守護を世襲し、
室町時代後期には豊前国、
筑後国にも勢力を伸ばした。
特に
戦国時代の大友宗麟のときは最盛期で、
一時は北九州6国を支配したが、
天正6年(西暦1578年)島津氏に敗れて衰えた。
江戸時代には臼杵(うすき。大分県東部の市。)に稲葉氏、
日出 (ひじ) に木下氏、
佐伯に毛利氏、
森に久留島氏、
府内に松平氏、
岡に中川氏と数藩に分れた。
明治4年(西暦1871年)の廃藩置県後、
各藩は県となり、
西暦1876年大分県に統合された。