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相模国(さがみのくに)
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作成日:2023/3/14
相模国(さがみのくに)/ 相州 (そうしゅう) 現在の神奈川県の大部分(北東部を除く)。
東海道
の一国。 国力区分は
上国
、 遠近区分は
遠国
。
「相模」の模という文字について、 現存する
律令制
律令時代の公文書に捺されている国印では「莫」の下に「手」を配した文字「摹」が使用されており、 手へんの「摸」による相摸とするのが本来の表記である。
赤:相模国 緑:東海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
沿革
相模国は、
古墳時代
の
成務
朝に成立した、 相武(さがむ。山のない荒野の意。)国造の領域(相模川流域、県中央部)と、 師長(しなが)国造の領域(酒匂川流域と中村川流域、県西部)を合したとされる。
さらに、
日本武尊(ヤマトタケル)
の子孫である鎌倉別(かまくらわけ)の支配する鎌倉地域と三浦地域も加わる。
なお、もとは
武蔵国
と一つだったという説がある。 賀茂真淵や『倭訓栞』には、身狭(むさ)国があり、 のち身狭上・身狭下に分かれ、 語の欠落などでそれぞれ相模・武蔵となったとする。
本居宣長は『
古事記伝
』で、佐斯国(さし-)を仮定し、 佐斯上、身佐斯と分かれ、そののち相模・武蔵となったという。
近藤芳樹『陸路廼記』などによれば総国(ふさ-)の一部が総上・総下となり、 のち相模・武蔵となったとされる。
しかしこれらの説は、
武蔵国
が、 かつては毛野国(群馬県・栃木県)地域と一体であったとする考古学の成果と合わない[要出典]。
国名の語源は不明。
前身とされる身狭上(むさがみ)・佐斯上(さしがみ)が由来とする真淵や宣長の説もあれば、 古代この地域の産物であったカラムシ(苧・麻布などの種)が訛った「ムシ」に由来するという説や、 「坂見」の転訛(箱根の坂の上から見える地域)という説なども存在し、 定説が確定できなくなっている(『神奈川県史』通史編1)。
12世紀
末に、 源頼朝が鎌倉を本拠地とし、以来相模国は鎌倉幕府の本拠地となった。 頼朝が知行国主であった時代には、 政所が国役の賦課などを行っていた。
守護に関しては宝治合戦までは三浦氏が守護であったとする説(佐藤進一『鎌倉幕府守護制度の研究』)があるが、 三浦氏は元々在庁官人として相模国内の雑事を行っていたことから、 相模国は守護不設置で政所とその指示を受けた三浦氏を代表とする御家人化した在庁官人がその職務を行っていたとする説もある。
北条氏による鎌倉幕府の支配が確立して以降は、 執権が相模守となり、 副執権である連署が任官された武蔵守と共に「両国司」(『沙汰未練書』)と呼ばれた。
西暦1333年
に鎌倉幕府は滅亡したが、 その後も
建武政権
の時期には鎌倉将軍府が、
室町時代
には鎌倉府が置かれ関東の政治の中心であった。
西暦1428年
の永享の乱によって鎌倉府は下総国の古河へ移り、 関東の政治の中心の座から外れたが、
戦国時代
になると小田原城を本拠地とした後北条氏が関東地方に勢力を広げ、
西暦1590年
(
天正
18年)の小田原征伐で小田原城が落城するまで、 再び相模国が関東の政治の中心となった。
江戸時代
には小田原藩を初めとする譜代の諸藩や幕府領・旗本領となった。