小窓
元明天皇(げんめいてんのう)

作成日:2020/6/6

元明天皇は、日本の第43代天皇。
諱は阿閇(あへ)。阿部皇女とも。
天智天皇の皇女で、母は蘇我倉山田石川麻呂の娘・姪娘(めいのいらつめ)。
持統天皇は父方では異母姉、母方では従姉で、夫の母であるため姑にもあたる。
大友皇子(弘文天皇)は異母兄。
天武天皇と持統天皇の子・草壁皇子の正妃であり、文武天皇と元正天皇の母。
藤原京から平城京遷都、『風土記』編纂の詔勅、先帝から編纂が続いていた『古事記』を完成させ、和同開珎の鋳造等を行った。

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
女性天皇 日本の第43代天皇 元明天皇(げんめいてんのう)

[在位] 西暦707年8月18日(慶雲4年7月17日)- 西暦715年10月3日(和銅8年9月2日)
[生没] 西暦661年斉明天皇7年)- 西暦721年12月29日(養老5年12月7日) 61歳没《紀》
[時代] 奈良時代
[先代] 文武天皇   [次代] 元正天皇
[陵所] 奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)
[和風諡号] 日本根子天津御代豊國成姫天皇(やまとねこあまつみしろとよくになりひめ)
[] 阿閇(あへ)
[父親] 天智天皇   [母親] 蘇我姪娘(めいのいらつめ)
[皇配] 草壁皇子
[同母姉] 御名部皇女(夫:高市皇子
[子女] 元正天皇文武天皇、吉備内親王
[皇居] 藤原京平城京

系譜

天皇の系譜(第38代から第50代)

略歴

天武天皇4年(675年)に、 十市皇女と共に伊勢神宮に参拝したという記録がある。

天武天皇8年(679年)頃、 1歳年下である甥の草壁皇子と結婚した。 同9年(680年)に氷高皇女を、同12年(683年)に珂瑠皇子を産んだ。 同10年2月25日(681年3月19日)に草壁皇子が皇太子となるものの、 持統天皇3年4月13日(689年5月7日)に草壁皇子は即位することなく早世した。 姉で義母でもある?野讃良皇女(持統天皇)の即位を経て、 文武元年8月17日(697年9月7日)に息子の珂瑠皇子が文武天皇として即位し、 同日自身は皇太妃となった。

慶雲4年(707年)4月には夫・草壁皇子の命日(旧暦4月13日)のため国忌に入ったが、 直後の6月15日(707年7月18日)、 息子の文武天皇が病に倒れ、 25歳で崩御してしまった。 残された孫の首(おびと)皇子(後の聖武天皇)はまだ幼かったため、 中継ぎとして、初めて皇后を経ないで即位した。 ただし、義江明子説では持統上皇の崩御後、文武天皇の母である阿閇皇女が事実上の後見であり、 皇太妃の称号自体が太上天皇に代わるものであったとする[3]。

慶雲5年1月11日(708年2月7日)、 武蔵国秩父(黒谷)より「和銅」が献じられたので和銅に改元し、 和同開珎を鋳造させた。 この時期は大宝元年(701年)に作られた大宝律令を整備し、 運用していく時代であったため、 実務に長けていた藤原不比等を重用した。

和銅3年3月10日(710年4月13日)、 藤原京から平城京遷都した。 左大臣石上麻呂を藤原京の管理者として残したため、 右大臣藤原不比等が事実上の最高権力者になった。

同5年(712年)正月には、 諸国の国司に対し、 荷役に就く民を気遣う旨の詔を出した。 同年には天武天皇の代からの勅令であった『古事記』を献上させた。 翌同6年(713年)には『風土記』の編纂を詔勅した。

715年には郷里制が実施されたが、 同年9月2日、 自身の老いを理由に譲位することとなり、 孫の首皇子はまだ若かったため、 娘の氷高(ひたか)皇女(元正天皇)に皇位を譲って同日太上天皇となった。 女性天皇同士の皇位の継承は日本史上唯一の事例となっている。 養老5年(721年)5月に発病し、 娘婿の長屋王と藤原房前に後事を託し、 さらに遺詔として葬送の簡素化を命じて、 12月7日に崩御した。宝算61。

和銅発見の地、埼玉県秩父市黒谷に鎮座する聖神社には、 元明天皇下賜と伝えられる和銅製蜈蚣雌雄一対が神宝として納められている。 また、養老6年(722年)11月13日に元明金命(げんみょう こがねの みこと)として合祀され今日に至る。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県奈良市奈良阪町にある奈保山東陵(なほやまのひがしのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は山形。

崩御にさきだって、「朕崩ずるの後、大和国添上郡蔵宝山雍良岑に竈を造り火葬し、他処に改むるなかれ」、「乃ち丘体鑿る事なく、山に就いて竈を作り棘を芟り場を開き即ち喪処とせよ、又其地は皆常葉の樹を植ゑ即ち刻字之碑を立てよ」といういわゆる葬儀の簡素化の詔を出したので、崩御後の12月13日、喪儀を用いず、椎山陵に葬った。

陵号は『続日本紀』奉葬の条には「椎山陵」、天平勝宝4年閏3月の条には「直山陵」、遺詔に「蔵宝山雍良岑」とある。延喜諸陵式には「奈良山東陵」とあり、兆域は「東西三町南北五町」とし、守戸五烟を配し、遠陵に列した。

中世になると陵墓の正確な場所がわからなくなったが、 『前王廟陵記』は那富士墓の位置に、 『大和志』は大奈辺古墳に、 幕末の修陵の際に現在の陵墓に治定され、 修補を加え、慶応元年3月16日、広橋右衛門督を遣わして竣工の状況を視し、 奉幣した。

遺詔の「刻字之碑」は、中世、陵土の崩壊を見て田間に落ちていたのを発掘し、 奈良春日社に安置したのを、 明和年間に藤井貞幹が見て『東大寺要録』を参酌して元明天皇陵刻字之碑を考定した。 文久年間の修陵の際にこれを陵側に移し、 明治29年藤井の「奈保山御陵考」によって模造碑を作り、かたわらに建てた。

また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。


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