『古事記』の国産み神話においては、 筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。
古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。
この中で、天照大御神の孫の瓊瓊杵尊が高千穂に降臨し(天孫降臨)、
子の火折尊が兄・火照命を懲らしめた旨とともに、
兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、
火折尊の子・鸕鶿草葺不合は初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。
のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。
現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、
その由来には諸説がある。
特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、
すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。
隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、
7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。
そして天皇家による南九州における統治を正当化し、
隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。
5世紀の仁徳天皇の御代には隼人の長を改めて直(あたい)としたとされる(『国造本紀』)。
7世紀中期以降に律令制の成立に伴って、 現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した。
西暦702年(大宝2年8月1日)に起こった薩摩・多褹の叛乱を契機に、
現在の鹿児島県本土の西部が、
10月3日までに唱更国(唱更 = はやひと[6]/はやと[7]/しょうこう[8])に分立したのが、
薩摩国の始まりである。
(日向国から分離して設置される以前は、この地域は阿多(吾田) と呼ばれていた。)
唱更の更は、中国の漢代に兵役についている者を更卒と呼んだことに由来し、 唱更は辺境の守備にあたることをいう。
国名は、 西暦704年(大宝4年)に全国の国印を鋳造したときまでに薩麻国に改められた。 8世紀半ば以降の不明な時点に薩摩国に改称した。
7世紀末の段階で南九州に(全てではなく、飛び石的に)評が設置されていた。
それは、西暦699年(文武天皇3年)南九州や九州西部の島嶼部の人々が、
覓国使(べっこくし)を侮辱するという事件が起こった時、
衣評督である衣君県も加わっていた。