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陸奥国(むつのくに)

作成日:2023/3/11

陸奥国(むつのくに)/ 奥州(おうしゅう)、陸州(りくしゅう、ろくしゅう) 現在の福島県、宮城県、岩手県、青森県。

東山道の一国。 国力区分は大国、 遠近区分は遠国

「みちのく」と称され、 蝦夷の地であったところへヤマト王権が次第に支配を拡大し、 大化改新の詔(西暦646年)で一国となったが、 時代によりその領域は北上していった。 記録に残るところでは西暦712年和銅5年)年に出羽国(山形県内陸部)がおかれ、 西暦718年養老2年)石城国(福島県東海岸)、 石背国がおかれたが、 まもなく陸奥国に再編入された。

「陸奥」の名称と由来
古事記』には「道奥」とあり、 『日本書紀』は「陸奥」が多いが古い時代に「道奥」もみられ、 ともに「道奥」を「みちのおく」と訓じる。 『和名抄』は「陸奥」を「みちのおく」とする。 「道」は古い時代には「国」と同義に使われており、 「道奥」の語源は「都からみて遠い奥」にある国の意である。 「道」を「陸」にかえた積極的理由はわからないが、 常陸国の場合と同じく、 「陸道」の意であてたものであろう。 平安時代の和歌で「陸奥」は「みちのく」として詠まれていた。 「みちのく」は「みちのおく」が訛って縮まったものである。
「みちのく」が「むつ」に変わった事情には、江戸時代から二説ある。 一つは陸が六の大字として用いられることをふまえて、 陸を六と書き、それに訓読みをあてて「むつ」にしたというもので、 本居宣長が『古事記伝』で唱えた。 陸州は古代・中世によく使われた略し方で、 「六奥国」「六奥守」「六国」という書き方も平安時代にはあった。
もう一つは「みちのく」が「みちのくに」になり、 「むつのくに」に転訛したという説で、 保田光則『新撰陸奥風土記』にある。 「みちのくに」は『伊勢物語』などに見える。

赤:陸奥国 緑:東山道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)

沿革

「道奥国」設置と当時の領域

初め道奥(みちのおく)といい、 『常陸国風土記』には孝徳天皇在位の末年(西暦654年)に、 足柄峠の東方に常陸国を始め8国を置いたとの記述があり、 この8国の中に道奥が含まれると解されている。 現在の東北地方のうち徐々に律令国家日本に編入された地域、 すなわち宮城県松島以南までの広大な領域を暫定的に含む辺境の大国であった。

常陸国から分離される形で成立し、 以後、平安時代まで陸奥(みちのく)と呼ばれた。 7世紀の設置時の範囲は、 およそ現在の宮城県の中南部、 山形県の内陸部、 福島県のほぼ全域、 茨城県の北西部に相当し、 内陸盆地のみならず、 阿武隈高地以東に位置する太平洋沿岸である福島県浜通り(旧磐前県)や宮城県沿岸部も含まれていた。

6世紀までに存在した陸奥の国造は、 道奥菊多国造(のちの菊多郡に相当)、 石城国造(磐城郡)、 染羽国造(締葉郡)、 浮田国造(宇多郡)、 思国造(思太の誤りか)、 白河国造(白河郡)石背国造(磐瀬郡)、 阿尺国造(安積郡)、 信夫国造(信夫郡)、伊久国造(伊具郡)の10国造であり、 いずれも成務朝から応神朝に神別氏族が派遣されて設置されたと見える(「国造本紀」)。
孝徳朝の後半に第二次の使者が派遣されて、 国造制が制へと変わり、 道奥国(みちのおくくに)が設けられた

律令制下の陸奥国

西暦712年和銅5年)に、 最上川流域の最上郡(最上地方および村山地方)と置賜郡(置賜地方)を越後国から分割されて新たに成立した出羽国(現在の庄内地方)に譲ったため、 陸奥国は上述の宮城県域と福島県域と茨城県域になった。

西暦718年養老2年)に、 陸奥国は、陸奥国・石城国・石背国の三つに分割された。 この分割により、 阿武隈川下流の北岸から宮城県中部まで(伊具郡・刈田郡・岩沼以北)の狭い範囲だけが陸奥国となった。 阿武隈川下流の南岸以南の太平洋沿岸(菊多から亘理まで)は石城国、 伊達郡以南の阿武隈川流域盆地群(現在の福島県中通り)と会津盆地群で石背国とした。 石城国は、分立する際に常陸国から菊多郡を編入した。

しかし、西暦720年養老4年)以降、 西暦724年神亀元年)以前のいつかの時点で、 これら3国は陸奥国に再編入された。 菊多郡はそのまま陸奥に属した。

蝦夷(えみし)の領域に接する陸奥国には、 陸奥・出羽両国を統括する陸奥按察使(むつあぜち、みちのくのあぜち。東北地方に置かれた官職。)が置かれた。 陸奥国府には鎮守府が置かれ、 他国から送られた鎮兵の統括を任務とし、 鎮守将軍(後に鎮守府将軍)が両国を軍事的に統括した。 西暦808年大同3年)以前には、 陸奥・出羽按察使、鎮守将軍とも、陸奥守が兼任することが多かった。 西暦802年延暦21年)に胆沢城が造営されると、 鎮守府はここに移された。 この後、鎮官(ちんかん。鎮守府の鎮守将軍・副将軍・軍監・軍曹などの官職)が国司と別に任じられるようになり、 胆沢城の城司に鎮官を充てた。 国府多賀城は胆沢城鎮守府を後方から守る役割になった。

陸奥国は、 蝦夷との戦争をへてしだいに領域を北に拡大し、 最終的に突出して面積の大きな国になった。 版図の拡大には城柵を設置する政策がとられた。

遺跡として7世紀中頃の仙台郡山遺跡(宮城県仙台市)、 8世紀前半の城生柵(宮城県加美町)の15柵がつくられた。

『和名類聚抄』による田の面積は、 5万1440町3反99歩。 『延喜式』による租稲(租の税収)は158万2715束。 都への貢進物は昆布・縒昆布・策昆布・細昆布・広昆布、薬草として甘草・秦膠・大黄・石斛・人参・附子・猪脂、筆、零羊の角。 交易雑物には鹿の革、独犴(ラッコまたは犬)の皮、砂金、昆布・策昆布・細昆布があった。 また、特産物の金、名馬、毛皮、羽根は都の貴族に珍重された。

平安時代

陸奥国南西部(後の岩代国)の会津地方では、 西暦807年大同2年)創建の伝承を持つ恵日寺が強大な勢力を持ち、 11世紀から12世紀に最盛期を迎えて陸奥国から北陸地方北部まで影響力を持った。

平安時代後期になって中央からの統制が弛緩すると、 俘囚の長安倍氏が陸奥の北部(現在の岩手県・青森県)、 奥六郡から下北半島、 さらに十三湊からの大陸交易に至る多大な権益に力を持つようになった。 安倍氏は国司に従わず、 前九年の役で戦って滅亡した。 このとき出羽国から参戦した清原氏が陸奥・出羽両国で勢威を持ったが、 後三年の役で滅亡した。

これに代わって平泉を本拠地とする奥州藤原氏が陸奥・出羽の支配者になった。 彼らはいずれも陸奥・出羽の地元で力を伸ばした一族で、 都から派遣された国司が統治するという律令制の大原則を侵食し、 奥州藤原氏にいたって自治的領域を築くようになった。 奥州藤原氏の勢力圏は陸奥国全域におよび、 現在の福島県中通りでは、 信夫佐藤氏が信夫郡(現在の福島市)を本拠地として宮城県南西部、 山形県南部、中通り中部、後に恵日寺衰退後の会津を支配した。 中通り南部は、前九年の役に従軍した後に石川郡に定住した清和源氏の石川氏が統治した。 又、浜通り南部は桓武平氏の岩城氏が統治していた。 しかし、信夫佐藤氏、石川氏、岩城氏のいずれも、平泉藤原氏に服属していた。

奥州藤原氏は後の陸中国域(岩手県)にあたる平泉を本拠に、 平氏政権のもとでも半独立の状態を維持した。 しかし西暦1189年に源頼朝の攻撃を受けて滅亡した。

なお、平安時代の陸奥国および出羽国は、 北東北領域で境界不明瞭なことが多く、 平安末期には、 奥州藤原氏の勢力範囲の秋田県領域(仙北三郡など)も陸奥国と見なされていたようである。

鎌倉時代

頼朝は、陸奥国に関東の武士を地頭として配置した。 奥州土着の武士は衰退し、鎌倉以来の武士が戦国時代まで陸奥国に割拠した。 その中で、 葛西清重ら葛西氏が下総国葛西郡(現在の東京都葛飾区)から石巻へ転入し、 平泉の統治を任され、「奥州惣奉行」職に就任した。 守護は置かれなかった。 この他にも、蘆名氏、安藤氏、石川氏、工藤氏、熊谷氏、相馬氏、戸沢氏、南部氏、和賀氏、などがあった。

鎌倉時代後期には安藤氏の乱が起きた。

南北朝・室町時代

後醍醐天皇の建武の新政期には一時期、 親王任国(しんのうにんごく。嫡出の皇子(親王)が国守に任じられた国及びその制度)とされ、 義良親王が陸奥太守として赴任した。 南北朝の争乱期においては、 多賀城は南朝と北朝の係争地として北畠顕信や吉良貞家・畠山国氏らが争った。 南朝勢力の駆逐後奥州管領が4人並立する事態となるが、 斯波氏がこの争いに勝利して大崎地方に勢力を扶植し大崎氏を名乗るようになる。 その後鎌倉公方足利氏満の支配下となるが、 子の足利満兼の代となると篠川御所・稲村御所を設置するも伊達政宗の反乱を招く。 また、奥州の在地領主が幕府と直接主従関係を結び、 京都扶持衆と呼ばれる関係を築いた。

鎌倉公方と室町幕府の関係悪化によって、幕府は奥州探題を置いた。 当初、大崎氏が奥州探題を世襲していたが、 南北朝の争乱以降在地領主の権限が強く、 その権威は名目的なもので、権威が及ぶ範囲も限られていた。 戦国時代になると陸奥国南部(現在の福島県北部)の伊達氏が台頭し、 伊達稙宗が陸奥国守護を任ぜられ、 大崎氏が伊達氏の勢力下に組み込まれるに至って、 奥州探題の地位も伊達氏に奪われた。

又、松島から気仙郡にかけての三陸沿岸は、 石巻を本拠地とする葛西氏が統治していた。 しかし、天正時代の奥州仕置きにより、葛西氏は領土を没収され、 旧葛西氏領は伊達氏の領土に編入された。

さらに、現在の茨城県域は近代初めに実施された太閤検地により、 常陸国に編入した。

江戸時代

代表的な藩として弘前藩、盛岡藩、仙台藩、中村藩、磐城平藩、福島藩、二本松藩、白河藩、米沢藩、会津藩など。 これらのうち、高地以東(北上高地以東、阿武隈高地以東)の太平洋沿岸のみを領した藩は、中村藩と磐城平藩のみである。
内陸盆地のみの藩は会津藩、福島藩、白河藩や二本松藩などである。

明治期の陸奥国

西暦1869年1月19日(明治元年12月7日)、 戊辰戦争に敗けた奥羽越列藩同盟諸藩に対する処分が行われた。 同日、陸奥国と出羽国は分割され、 陸奥国(むつ)は、陸奥国(りくおう)・陸中国(りくちゅう)・陸前国(りくぜん)・岩代国・磐城国の5国に分割された。 陸奥国(りくおう)は、現在の青森県に岩手県西北の二戸郡を加えた範囲となり、 結果的に初期の陸奥国(みちのく)から300kmも離れた土地を指すことになった。
陸奥国(りくおう)の領域にあった藩は下記のとおりである。

明治政府の地方支配体制は、 その後の廃藩置県や鎮台などによって実現されたため、 明治元年の陸奥国分割は、 政治的にも地域圏・文化圏成立にもほとんど意味を成さなかった。 ただし、分割後の国名は、鉄道の駅名や陸前高田市などの地名に利用されている。 また、陸奥・陸中・陸前の三国を総称した「三陸」の呼称は三陸海岸を始め現在も定着している。