古くは稲葉国造の領域であったとされる。 令制国としての因幡国は7世紀に成立した。
室町時代は因幡山名氏の一族が因幡国の守護を務めたが、 周辺の但馬や伯耆の山名家と比べて、 守護家の支配基盤は脆弱であった。 そのため、 但馬惣領家が家督争いに介入するなど政情が不安定な部分もあった。 また、八上・八東といった因幡南部には独立性の高い奉公衆系の国人が多数存在しており、 これらの国人の一部は文明年間~長享年間にかけて2回に亘る反乱を起こしている。(毛利次郎の乱)
戦国時代も因幡山名氏の支配が続くが、 因幡山名氏の勢力が内紛などで衰えたため、 因幡は織田・毛利の争乱の地となる。 また、毛利氏と手を結んだ武田高信が勢力を拡大したが、 一国を支配する大名までには成長しきれなかった。 羽柴秀吉により鳥取城が陥落してからは因幡一国は織田氏の支配下に置かれた。
江戸時代初期は複数の大名に分割されたが、 その後は明治維新まで池田氏が鳥取藩32万石の大名として因幡を支配した。