美作国(みまさかのくに)/ 作州(さくしゅう) 現在の岡山県北東部。
山陽道の一国。
国力区分は
上国、
遠近区分は
近国。
古くは備前国の一部であったが、
『
続日本紀』によれば、
和銅6年(西暦713年)6郡をさいて一国とした。
ここには国造(くにのみやつこ)、県主としての記録はない。
『
延喜式(神名帳)』には 11座(10社)の神社が載せられ、
中山神社は名神大社に列し、
のちに当国の一宮であった。
同書には英多(あいた)、
勝田、
苫東(とまひがし)など 7郡があり、
『和名抄』(→倭名類聚抄)には郷 65、
田 1万1021町を載せている。
国府は津山市総社。国分寺は津山市国分寺。
鎌倉時代には初め梶原氏、
和田氏が守護に任じられたが、
まもなく北条氏の支配となり、
得宗領となった。
南北朝時代には佐々木氏、
山名氏が守護となったが、
元中8=明徳2年(西暦1391年)年の明徳の乱の結果、
赤松氏の領となった。
嘉吉の乱で山名氏の手に帰したが、
応仁の乱の結果、
再び赤松氏が支配。
戦国時代、
赤松氏の衰微により、
備前からは浦上氏が、山陰からは尼子氏が侵入、
さらに西方からは毛利氏の勢力が伸び、
その力が錯綜した。
戦国時代末期には備前の宇喜多氏の領国となったが、
関ヶ原の戦いで宇喜多氏は滅び、
慶長5年(西暦1600年)小早川秀秋が岡山城に入って当国を支配。
江戸時代には津山に初め森忠政が、
のちには松平氏が、
勝山には三浦氏が封じられ幕末にいたった。
明治4年(西暦1871年)の廃藩置県後、
各藩は県となり、
一時統合されて北条県となったが、西暦1876年岡山県に併合された。