小窓
美作国(みまさかのくに)

作成日:2023/3/11

美作国(みまさかのくに)/ 作州(さくしゅう) 現在の岡山県北東部。

山陽道の一国。 国力区分は上国、 遠近区分は近国
古くは備前国の一部であったが、 『続日本紀』によれば、和銅6年(西暦713年)6郡をさいて一国とした。
ここには国造(くにのみやつこ)、県主としての記録はない。

延喜式(神名帳)』には 11座(10社)の神社が載せられ、 中山神社は名神大社に列し、 のちに当国の一宮であった。
同書には英多(あいた)、 勝田、 苫東(とまひがし)など 7郡があり、 『和名抄』(→倭名類聚抄)には郷 65、 田 1万1021町を載せている。 国府は津山市総社。国分寺は津山市国分寺。

鎌倉時代には初め梶原氏、 和田氏が守護に任じられたが、 まもなく北条氏の支配となり、 得宗領となった。

南北朝時代には佐々木氏、 山名氏が守護となったが、 元中8=明徳2年(西暦1391年)年の明徳の乱の結果、 赤松氏の領となった。 嘉吉の乱で山名氏の手に帰したが、 応仁の乱の結果、 再び赤松氏が支配。

戦国時代、 赤松氏の衰微により、 備前からは浦上氏が、山陰からは尼子氏が侵入、 さらに西方からは毛利氏の勢力が伸び、 その力が錯綜した。 戦国時代末期には備前の宇喜多氏の領国となったが、 関ヶ原の戦いで宇喜多氏は滅び、 慶長5年(西暦1600年)小早川秀秋が岡山城に入って当国を支配。

江戸時代には津山に初め森忠政が、 のちには松平氏が、 勝山には三浦氏が封じられ幕末にいたった。 明治4年(西暦1871年)の廃藩置県後、 各藩は県となり、 一時統合されて北条県となったが、西暦1876年岡山県に併合された。

赤:美作国 緑:。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)