古くから出雲の語源を解明しようとする試みがなされている。代表的な解釈として以下のような説がある。
古代出雲は、 青銅器を主とする西部出雲(現在の島根県出雲市付近)と鉄器を主とする東部出雲(現在の島根県安来市、鳥取県米子市、大山町)との二大勢力から出発し、 以後統一王朝が作られ、 日本海を中心とした宗教国家を形成したと考えられている。 特に東部出雲は律令下のいう伯耆国まで連続的な文化的つながりがあったため、 特に弥生期では出雲と伯耆(鳥取県西部)を出雲文化圏とする向きもある。 考古学的見地からは、 古墳が発達する以前の特徴的埋葬様式四隅突出墳丘墓の分布状況からすると、 北陸地方なども上古出雲とすべきとの説もある。 これらの環日本海への版図拡大の逸話は国引き神話として『出雲国風土記』に記されているとの見方も有力である。
日本神話によれば、 神逐された須佐之男命が(日本書紀では息子五十猛神とともに)出雲に降りたって八俣遠呂智を退治し、 櫛名田比売命との間に八島士奴美神を生んだ。 その5世孫にあたる大国主神が少名毘古那神や大物主神と共に出雲国を開拓した。 (『古事記』の大国主神、 『日本書紀』の大已貴命(おおあなむちのみこと)、 『出雲国風土記』の所造天下大神(あめのしたつくらししおおかみ)・大穴持命(おおなもち)は同じ人物である。) 『出雲国風土記』に須佐社として掲載されている須佐神社が建立され、 大国主神を祭神とする出雲大社も建立された。
この律令以前の出雲国の影響力は日本神話の各所に見られ、 日本創生の神話の大半が出雲やその周辺の話になることから、 その精神的影響力は絶大であったとの見解が主流である。 しかし、やがてはヤマト王権に下ることとなり、それが有名な国譲り神話として『日本書紀』などに記されたと考えられる。 国譲りの交換条件として建立された出雲大社は、 いまだに全国から参拝が絶えない。 更には、出雲大社の祭祀を執り行う出雲国造(北島氏、千家氏)は、天照大御神の第二子天穂日命の裔孫として、 皇室と同等の血統の長さを誇り、 この「国造」と言う呼び名も古代律令に用いられていた官職名であることからその歴史の長さを読み取ることが出来る。
崇神天皇60年7月には、 天皇が「武日照命(日本書紀)(建比良鳥命(古事記))(天穂日命の子)が天から持って来た神宝が出雲大社に納められているから、 それを見たい」と言って献上を命じ、武諸隅(タケモロスミ)を遣わしたところ、 飯入根(いいいりね)が、 当時の当主で兄の出雲振根に無断で出雲の神宝を献上。 出雲振根は飯入根を謀殺するが、朝廷に誅殺されている。『日本書紀』
その後律令制の下では出雲国造の領域を元に、7世紀に設置された。
7世紀末の藤原宮跡や出雲国庁跡出土の木簡から、 出雲国では、出雲評・楯縫評・大原評などの存在が知られ、 『日本書紀』斉明5年(659年)には「於友郡」がみえるが、 編者の潤色で、意宇郡の前身として意宇評がこの時期にはすでに置かれていたことが分かる。
平安期には東部出雲(意宇郡)を朝廷に没収された出雲国造家は今の出雲大社がある西部出雲に中心を確定する。
鎌倉時代には、 西暦1221年(承久3年6月)の承久の乱以降、 宇多源氏佐々木氏支流塩冶氏が代々守護を務めた。 出雲守護の武将塩冶高貞は、 元弘の乱で後醍醐天皇を助け鎌倉幕府を打倒することに功績があった。
南北朝時代/室町時代初頭には、 出雲守護の塩冶高貞は北朝・室町幕府についたが、 興国2年/暦応4年(西暦1341年)に初代将軍足利尊氏の弟足利直義から謀反の疑いをかけられて誅殺され、 塩冶氏は没落した。 しかし、代わりに同族佐々木氏でもより嫡流に近い京極氏が出雲守護として入り、 室町時代も引き続き宇多源氏佐々木氏による支配が続いた。
東部出雲は荘園守護の管轄下となり、戦国時代には、 月山富田城(現:安来市広瀬町富田)を中心とし製鉄を支配し雲伯地方を押さえた戦国大名尼子氏を生み出すこととなる。
江戸期に入ると、松江藩が設置され東部出雲は松江、西部出雲は出雲国造の影響下に入ることとなる。 更には、松江藩傘下の東部では明治期に見られた廃仏毀釈の逆の影響が認められたりもする。 つまり上古より同じ出雲でも、東西の主権が別々の歴史的見解を残すため、 出雲の歴史はわかりづらいものとなっているとの指摘がある。
伝統産業であった製鉄で財を成した出雲三名家(田部家、桜井家、絲原家)は、 現在も島根県下の実力者である。