越後国(えちごのくに)/ 越州(えっしゅう) 現在の新潟県本州部分および粟島。
北陸道の一国。
国力区分は
上国、
遠近区分は
遠国。
別称「越州」は、越前国・越後国とあわせて、または単独での呼称。
前身は4世紀代に設置された久比岐国造や高志深江国造、
その他豪族の領域で、
律令制の施行に伴ってそれら各領域が統合された。
西暦697年(
文武天皇元年)以前のいずれかの年になされた
越国の
磐船・
渟足の二郡の分割によって成立した。
当初の領域は、
現在の新潟県本州部分の北部(阿賀野川以北か)から山形県庄内、
秋田県方面で、
日本海側で
蝦夷の領域に接する辺境国であった。
蝦夷政策の拠点国として
西暦702年(
大宝2年3月)に、
越中国から親不知以東、
すなわち頸城郡、古志郡、魚沼郡、蒲原郡の四郡を譲り受けた。
西暦708年(
和銅元年)に、
北に領域を伸ばして出羽郡を新しく設置し七郡体制となった。
出羽郡を建てるのと前後して出羽柵の築造と柵戸の移住が行われた。
さらに、
西暦712年(
和銅5年9月23日)に、
出羽郡が
出羽国として分離したことで、
後々まで続く越後の形ができあがった。
西暦743年???(
天平16年2月11日)に
佐渡国を合わせたが、
西暦752年(
天平勝宝4年11月3日)に元に復した。
その後、沼垂郡が蒲原郡に統合されたり、
古志郡から
三嶋郡、
ついで
三島郡が分立するなど郡に変動があった。
大和政権は
蝦夷地における版図拡大に城柵を設けて、
南の地域の人民を移民し、開発と村づくりに当たらせ公民とし、
郡を設置した。
越後に設置された城柵は、
西暦647年(
大化3年)渟足柵(新潟市か)、
西暦648年(
大化4年)磐舟柵(新潟県村上市か)である。