平城を「へいじょう」と読むか、「へいぜい」と読むかについては議論がある。
戦後の学校の教科書において、 平城京には「へいじょうきょう」と振り仮名が振られていた。 その後、 少なくとも西暦1980年代には「へいじょうきょう」とともに「へいぜいきょう」の併記が、 一部の出版社に見られるようになる。 これは平城天皇が「へいぜい」と読むことや、 漢字音で「平」が漢音の“へい”と呉音の“ひょう”、 「城」が漢音の“せい”と呉音の“じょう”があり、 この音を漢音に統一すると“へいぜい”になることによるものと見られている。 ただし「京」を“きょう”と読むのは呉音である。
研究者を中心に「へいぜい」の読みが見受けられ、 『国史大辞典』の見出しも「へいぜいきょう」であるが、 一般には「へいじょう」が普及しており、 奈良県の進める平城遷都1300年記念事業も「へいじょう」と発音されている。
このように、 平城京は現代においては音読みで「へいじょうきょう」または「へいぜいきょう」と読むが、 かつては奈良京(寧楽京、ならのみやこ)と呼ばれた。 西暦762年の正倉院文書の記述に加え、 平城京への遷都当時の造成土から「奈良京」と書かれた木簡が発掘されている。
藤原京から平城京への遷都は、
文武天皇在世中の西暦707年(慶雲4年)に審議が始まり、
西暦708年(和銅元年)には元明天皇により「平城遷都の詔」が出された。
「平城遷都の詔」によれば、
新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、
「四神相応の地」が選ばれた。
藤原京は、
南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、
藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、
臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、
また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。
しかしそれだけではなく、
藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、
古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、
当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。
実際に、30数年ぶりに帰国した遣唐使の粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、 また唐の文化や国力、 首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、 藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、 遷都を決めた要因となったと考えられる。 その根底には、壮麗な都を建設することが、 外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、 そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、 国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、 東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった。
西暦710年(和銅3年3月10日)に遷都された時には、 内裏と大極殿、 その他の官舎が整備された程度と考えられており、 寺院や邸宅は、 山城国の長岡京に遷都するまでの間に、 段階的に造営されていったと考えられている。 恭仁京や難波京への遷都によって平城京は一時的に放棄されるが、 西暦745年(天平17年)には、 再び平城京に遷都され、 その後西暦784年(延暦3年)、 長岡京に遷都されるまで政治の中心地であった。 山城国に遷都したのちは南都(なんと)とも呼ばれた。
西暦810年(弘仁元年9月6日)、 平城上皇によって平安京を廃し平城京へ再び遷都する詔が出された。 これに対し嵯峨天皇が迅速に兵を動かし、 9月12日、平城上皇は剃髪した(「薬子の変」)。 これによって平城京への再遷都は実現することはなかった。
「薬子の変」以後平城京跡地は往時の姿を維持することは出来ず、 9世紀末に宇多上皇の南都逍遥の際には旧京域はすでに農村と化していたとされるが、 大和国は江戸時代まで存続している。