河内国の範囲は生駒山地・金剛山地の西側に沿った南北に細長い地域で、 現在の大阪府東部に該当するが、 奈良時代の初めまでは海側の和泉国の領域も含んでいた。
西の平野部は、 縄文海進によってできた河内湾に、 淀川・大和川から流入する土砂が堆積して広がっていったものである。 湾は、 古代に上町台地から北方へ伸びる砂州によって塞がれて潟湖(河内湖)となり、 やがて新開池(しんがいけ、大阪市鶴見区・東大阪市・大東市)・深野池(ふこのいけ、寝屋川市・門真市・大東市・東大阪市・四條畷市)の2つの広大な水域が残った。
江戸時代、 大坂から船で淀川・新開池・深野池と進んで飯盛山のふもとの野崎観音の近くまで遡航し、 「野崎参り」をすることが盛んになった。 西暦1704年(宝永元年)に堺に向けて西流する現在の流路に大和川を付け替える工事が行われると、 両大池の水量が減少し、鴻池新田などの新田開発が進められた。 新開池は姿を消し、深野池もわずかに一部が調整池として残るのみだが、 この地域にはかつての水郷の面影が今も見られる。
山城国八幡(京都府八幡市)を基点とする東高野街道は、 洞ヶ峠から入って河内国を南北に縦貫し、 長野(河内長野市)で西高野街道と合流してからは高野街道となり、 紀見峠・橋本(和歌山県橋本市)を経て高野山へ至る。 高野山参りが盛んになると京都から高野山への参詣道として賑わうようになった。
7世紀に成立した。 『古事記』には川内の表記も見え、 7世紀末・8世紀初めの木簡2例にも川内と書かれている。 河内の名が確定したのは、 おそらく西暦704年(大宝4年)の国印鋳造時である。
河内の名を持つ国造には凡河内国造がある。 また古代の大豪族の物部氏の勢力があり、 東大阪市衣摺は、その本拠地のひとつであった。
西暦716年(霊亀2年4月16日)に、 大鳥郡・和泉郡・日根郡を割いて和泉監を分立させた。 西暦740年(天平12年8月20日)に和泉監を併合するが、 西暦757年(天平宝字元年5月8日)に、 今度は和泉国として再び分立させた。
称徳朝の西暦769年(神護景雲3年)に由義宮(八尾市)が建設されるとこれを西京と称し、 それに伴って河内国が廃止され、 かわって特別行政組織河内職が設置されたが、 翌年元に戻された。
羽曳野市壺井は、武家の棟梁となった河内源氏が本拠地とした地で、 その祖・源頼信や子の頼義、孫の義家の三代の墓が、 河内源氏の菩提寺通法寺跡の近くに残っている。 鎌倉幕府を開いた源頼朝は、彼らの後裔である。
鎌倉時代末期、 南河内の豪族の楠木正成とその一族が、 後醍醐天皇に呼応して幕府打倒の兵を挙げ、 下赤坂城・上赤坂城・千早城に立て篭って幕府の大軍を苦しめた。 正成は建武政権で国司と守護の両方に任命されたが、 足利尊氏が反旗を翻して南北朝の内乱が始まると、 河内は主戦場となることが多くなり、 正成の長男・正行は高師直率いる室町幕府の軍勢と四條縄手(四條畷)で戦い戦死した。
室町時代、 河内守護は三管領の1つ畠山氏が世襲し、 畠山基国・満慶・満家・持国と続いた。 しかし、持国の跡目を巡って甥の畠山政長と息子の畠山義就が争いを続け、 これをきっかけの一つとし、 足利将軍家や守護の家督相続問題も絡んで、 日本の大半の地域を二分する応仁の乱が勃発した。
応仁の乱が終息しても、 両畠山氏の戦いは継続し、 河内は戦国時代に突入した。 政長は正覚寺(大阪市平野区)で管領細川政元と義就の息子義豊らに討たれたが(明応の政変)、 子の尚順は紀伊国にあって捲土重来をはかり、 河内・紀伊の守護として返り咲きに成功する。 そして稙長の時に義就系の義英を討滅し、河内は統一されたが、 長らく続いた戦乱によって荒廃し、 実権は守護代遊佐長教の手にわたり、 守護は傀儡化されていく。
細川政元が阿波から迎えた養子・澄元の子晴元の時代、 阿波国から上洛した三好長慶は遊佐長教の娘を妻に迎えて勢力を蓄えながら晴元に従い、 晴元の意に従わない木沢長政を高井田(大阪府柏原市高井田)で討つなど活躍した。 しかし、長慶は後には晴元と対立、 晴元方の三好政長を江口の戦いで殺害して晴元政権を打破すると、 将軍を傀儡化して幕府の実権を握り、 本拠地を摂津の芥川山城から河内の飯盛山城(大阪府大東市)に移し、 以後畿内において三好氏は強勢を誇った。
三好長慶の没後、三好三人衆と松永久秀が抗争し、 河内・大和が戦場になったが、織田信長が上洛すると、 河内の北半国を長慶の養子・三好義継、 南半国を畠山昭高(信長の妹婿)に安堵する。 しかし、まもなく義継・昭高は元亀兵乱に前後して没落し、 河内は信長の重臣佐久間信盛の支配に入った。 その信盛も後に信長に疎まれ追放される。
本能寺の変の後、羽柴秀吉が清洲会議の結果、河内を領国としておさえる。 秀吉が天下人となり、大坂城を築くと、 河内の重要拠点であった若江城は廃城となった。
秀吉の死後、関ヶ原の戦いを経て、徳川家康が江戸幕府を開くが、 河内は秀吉の子・秀頼の領国として幕藩体制には入らなかった。 大坂夏の陣では、大坂城は外堀を埋められ裸城となり、 篭城戦はできないと判断した大坂方は、 京都から大坂をめざす徳川方を野戦で迎え撃ち、 京坂間にある河内の各所で戦いが行われた。 主なものとして、 道明寺の戦い(後藤基次 vs 伊達政宗・松平忠輝・水野勝成、真田信繁・北川宣勝・薄田兼相 vs 伊達政宗・松平忠輝・水野勝成)、 八尾・若江の戦い(木村重成 vs 井伊直孝、長宗我部盛親 vs 藤堂高虎)などがあった。
江戸時代になると、 河内は幕府領および旗本領が点在し、 大名としては狭山藩の北条家、丹南藩の高木家のみが存在した。 また、小田原藩の大久保家の領地も多く存在した。