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越前国(えちぜんのくに)
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作成日:2023/3/11
越前国(えちぜんのくに)/ 越州(えっしゅう) 現在の福井県嶺北地方・岐阜県北西部・敦賀市。
北陸道
の一国。 国力区分は
大国
、 遠近区分は
中国
。
別称「越州」は、越前国・越後国とあわせて、または単独での呼称。
創設時には石川県全域をも含んだ。
赤:越前国 緑:北陸道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
沿革
北陸道
が
ヤマト王権
の支配下となった
4世紀
以降、 角鹿
国造
、 高志
国造
、 三国
国造
、 江沼
国造
、 加我
国造
、 羽咋
国造
、 能等
国造
が設置された。
7世紀
末の
西暦689年
-
西暦692年
(
持統
3年-6年)頃、 高志国(こしのくに)が高志道前・高志道中・高志道後の3国に分割されたと想像されている。
その後、高志前・高志中・高志後の表記を経て、
大宝律令
制定後の国印製作時に越前・越中・越後の表記に定まったと推定されている。
3国に分割された時の「越前国」の領域は、 現在の石川県と、福井県の北部を含み、 後の敦賀郡(旧角鹿国)、丹生郡(旧高志国)、足羽郡、大野郡、坂井郡(旧三国国)、江沼郡(旧江沼国)、加賀郡(旧加我国)、羽咋郡(旧羽咋国)、能登郡(旧能等国)、鳳至郡、珠洲郡の十一郡にわたる広大な面積であった。
西暦718年
(
養老
2年5月2日)に、 現在の石川県北部にあたる羽咋郡、能登郡、鳳至郡、珠洲郡の四郡を
能登国
として分立させた。
西暦823年
(
弘仁
14年3月1日)に、 現在の石川県南部にあたる加賀郡と江沼郡を割いて
加賀国
を建てた。 これ以後は郡単位の移管はなく、 主に現在の福井県のうち南部 (
若狭国
)を除く部分が領域となった。
7世紀
末の
越国
からは五分割、
8世紀
初頭の越前国からは三分割されたことになるが、 それでも残った越前国は
延喜式
による等級で北陸道唯一の大国に区分された。
なお、白山の西麓にあたる現在の石川県の一部(白山市の旧白峰村地域、同市旧尾口村地域の一部および同県小松市旧新丸村地域)は白山麓十八ヶ村とも呼ばれ、 信仰登山をめぐる利権を巡って加賀側と越前側で中世以来帰属争いが絶えない地域であり、 加越両国の間を揺れ動いた。
最終的に越前国でありながら明治初期に石川県に加えられた地域となる。
美濃国との境にあった現岐阜県郡上市の旧石徹白村地域も、 越前国の領域で一時は福井県だったが、 昭和の大合併で岐阜県側に越境合併した。
京都や奈良をうかがうのに近すぎず遠すぎずの大国でもあり、 古来、この地に拠って天下を争い、滅んだ武将が少なくない。
新田義貞、朝倉義景、柴田勝家が挙げられ(特に義貞の籠城は、のちに即位無効とされたものの新天皇を推戴してのものである)、 主将としてではないが大谷吉継、 この地を再起の拠点として逃れる途上で殺された藤原仲麻呂などもこれに準じる。
明智光秀も、一時期同国の住人であった。
継体天皇
は、 越前国から大和へ迎えられたとされ、 万葉歌人としてよく知られる志貴皇子(
天智天皇
皇子)の母「越道君伊羅都売」もこの国の出自と考えられている。
他に、直接天下取りに動いたわけではないが、 徳川家康の次男であり英邁をうたわれながら弟の徳川秀忠に後継を譲らざるを得なかった結城秀康も、 この地の領主として後半生を送った。
米の産地として播磨国と「一播二越」(いちばんにえち)と称された。