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大隅国 / 大隅國(おおすみのくに)

作成日:2023/3/19

大隅国 / 大隅國(おおすみのくに)/ 隅州(ぐうしゅう)。かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

西海道の一国。 国力区分は中国、 遠近区分は遠国。 現在の鹿児島県東部・奄美群島。

令制国が成立する以前は襲国とも呼ばれた熊襲の本拠地であり、 後にも薩摩と並んで隼人の抵抗が最後まで根強く続いた地で、 日向からの分立及び隼人の根拠地であった囎唹郡の分割は、 隼人勢力の弱体化を意図して行われた。 薩摩国衙のある高城郡に肥前から移民が行われたのと同様に、 大隅国衙の置かれた桑原郡には豊前から移民が行われるなど対隼人政策が取られている。 当時はそのような隼人首長の大隅直曾君加士伎県主肝衝といった豪族が割拠した。
西暦720年養老4年)に隼人は大隅守陽侯史麻呂を殺害し律令国家の支配に対して反乱を起こした。 大和朝廷は大伴旅人を征隼人持節大将軍に任命し、 この抵抗を鎮圧する。 この反乱を受けて囎唹郡はさらに分割され隼人の管理は徹底された。 その結果、 奈良時代中期から後期には大隅の支配は安定し、 西暦800年延暦19年)には他地域同様に班田制も導入され、 律令制による支配が定着した。 しかし、隼人の同化が進んだ一方で、 平安中期には南島人が侵入してきたり、 一方で西暦1007年寛弘4年)大隅守菅野重忠が太宰府府官大蔵満高に射殺され、 西暦1029年長元2年)にはこれも太宰府大監で島津荘の開墾者であった平季基が大隅国衙を焼討し、 国衙支配が壊滅的打撃を受けるなど管轄内の諸国に対する介入の度合いを強める太宰府との激しい対立があり、 その背景には南島との交易利権の管掌が絡んでいた。
こうした情勢の中で、 それまで国の中心となる神社であった鹿児島神宮に八幡神を勧請して、 九州五所別宮となる正八幡宮が成立している。 平季基は賄賂を駆使し、 また藤原頼通に島津荘を寄進することで身の安泰を図り特段処罰を受けることもなく現地に住み着いたので、 さらなる領域拡張を続け国衙領を削り取る島津荘とそれに対抗して正八幡宮の権威を活用する大隅国衙との対立関係は続き、 国土は実質的に島津荘と正八幡宮領に二分されていった。

赤:大隅国 緑:西海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)

沿革

古事記』の国産み神話においては、 筑紫島(九州)の4面に筑紫国、豊国、肥国、熊曽国が見える。先頭に書いてある意味が不明。

古代の南九州は『古事記』『日本書紀』の「日向神話」と呼ばれる神話の舞台となった。
この中で、天照大御神の孫の瓊瓊杵尊が高千穂に降臨し(天孫降臨)、 子の火折尊が兄・火照命を懲らしめた旨とともに、 兄の子孫の隼人が今も天皇に仕える由来だと述べ(山幸彦と海幸彦)、 火折尊の子・鸕鶿草葺不合は初代天皇・カムヤマトイワレビコ(神武天皇)の父である旨を記している。
のち、神武天皇は日向から東征に赴くこととなる(神武東征)。

現在、これらの日向神話は歴史的事実そのままとは考えられておらず、 その由来には諸説がある。
特に『古事記』『日本書紀』が成立するまで、 すなわち7世紀後半から8世紀前半の南九州における対隼人の政治情勢との密接な関係が指摘される。
隼人が名を表すのは天武天皇の時代からで、 7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしている。
そして天皇家による南九州における統治を正当化し、 隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明するものと考えられている。

7世紀中期以降の律令制の成立に伴って、 現在の鹿児島県の本土部分と宮崎県を含む広域に、日向国が成立した。

西暦702年大宝2年8月1日)に起こった薩摩多褹の叛乱を契機に、 同年、日向国を割いて唱更国・多褹国が分立した。

その流れの中で西暦713年和銅6年4月3日)、 日向国の肝杯郡、囎唹郡、大隅郡、姶羅郡の四郡、 現在の鹿児島県本土の東部が大隅国として分立したのが、 大隅国の始まりとされる。

数年の内に、 囎唹郡(そおぐん。現在:曽於郡)を割いて桑原郡(姶良郡湧水町周辺)が、 西暦755年天平勝宝7年)にさらに囎唹郡を割いて菱苅郡(現在の伊佐市周辺)が設けられ、 六郡となる。

西暦824年天長元年10月1日)に、 現在の屋久島と種子島にあたる多禰国をあわせた。 この際、四郡あった多禰国の郡は二郡に統合され、 結果大隅国は八郡となる。

平安時代には荘園の進展で姶羅郡(現在の鹿屋市周辺。現在の姶良郡は別)がその実を失い、 肝属郡に編入されたとみられる。

西暦1879年明治12年)、 奄美群島(大島郡)を編入した。
西暦1897年明治30年)には、 現在の三島村、十島村地域が薩摩国川辺郡から大島郡に編入された。