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加賀国(かがのくに)
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作成日:2023/3/11
加賀国(かがのくに)/ 加州(かしゅう)/ 現在の石川県南部。
北陸道
の一国。 国力区分は
上国
、 遠近区分は
中国
。
越国
が689年-692年(持統天皇3-6年)越前国、越中国、越後国の三国に分立し、718年養老律令制定により能登国が越前国から分離し、その後823年、さらに越前国から江沼郡と加賀郡を割いて加賀国が設置された。
同823年6月4日に、江沼郡の北部から能美郡、加賀郡の南部から石川郡が分けられた。加賀郡は後に河北郡と呼ばれ、大海川は現在も加賀と能登の両地方の大まかな境界となっている。
大化の改新の頃までは加賀郡は賀我、加宜、香我、賀加とも言われたとされる [1]。
加賀国は、
令制国
の中で最後に建てられた国である。 その建国への提案は越前守の紀末成による。 末成は、加賀郡が国府から遠く往還に不便で、 郡司や郷長が不法を働いても民が訴えることができずに逃散し、 国司の巡検も難しいといったことを理由にあげた。
太政官
はこれを受けて弘仁14年 (823年) 2月に、 越前の二郡を割いて加賀国を建て、 中国にすることを奏した。 3月1日に太政官は符を下して加賀国を作り、中国と定めた。 同年6月4日に、江沼郡の北部を能美郡とし、 加賀郡の南部を石川郡とすることを、 加賀守を兼任した紀末成が言上し、 これによって四郡になった。 天長2年(825年)1月10日に、課丁と田の数が多いという理由で、 加賀国は上国に変更になった。
中世には熊坂荘などの荘園が置かれていたが、
戦国時代
初頭に一向一揆が守護富樫氏を滅ぼして以後100年近くにわたって一揆による支配が続く(加賀一向一揆)。
江戸時代には、加賀藩(金沢藩)、大聖寺藩(加賀藩支藩)、大聖寺新田藩(大聖寺藩支藩) が置かれた。
赤:加賀国 緑:加賀国。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)