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丹後国()

作成日:2023/3/19

丹後国(きいのくに)/ 丹州(たんしゅう)。かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

山陰道の一国。 国力区分は中国、 遠近区分は近国。 現在の京都府北部。
別称「丹州」は、丹波国とあわせて、または単独での呼称。

西暦713年和銅6年)に、 丹波国の北部(現在の丹後半島)が分国して作られた。

赤:丹後国 緑:山陰道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)

歴史

律令制以前

丹後地方は、丹波地方の中心として、 古墳時代には竹野川流域(京丹後市)を中心に繁栄し、 大前方後円墳が作られた。

京丹後市久美浜の函石浜遺跡からは新朝の王莽の貨幣が出土していることから、 古くから大陸との関係も深かったと推測されている。 また『日本書紀』に、 四道将軍が派遣された北陸、東海、西道、丹波の四方のうち丹波のみが具体的な地域名で記されていることから、 ヤマト王権(大和朝廷)からの主要交通路の行き先にあたる重要な地域であったと推定される。

奈良時代・平安時代

和銅6年(713年)4月3日に丹波国の北部、加佐郡、与謝郡、丹波郡(後の中郡)、竹野郡、熊野郡の5郡を割いて、「丹後国」として設置された。『続日本紀』には「丹波国の五郡を割きて始めて丹後国を置く」と記され[1]、『和名類聚抄』には35郷が記されている[2]。大浦半島の付け根に位置する志楽谷(現在の舞鶴市志楽)は、遅くとも分国前の和銅2年(709年)には丹波国に属していたが、北東部の田結(同・田井)など半島の大部分は奈良時代(710年 - 794年)前期まで若狭国に属していたことが分かっている[1]。 分国以前から、丹波国では丹波直(たんばのあたい)一族が国造や郡司など支配的地位を有していた。『先代旧事本紀』天孫本紀によれば、丹波直は天火明命を祖としている。分国後の丹後国では延暦2年(783年)に丹波直真養が丹波郡国造に、貞観8年(866年)に丹波直副茂が近衛府の下級将官に任じられた

分国の背景

丹波国は、現在の南丹市や亀岡市に国府が置かれていたと推定され、また南部の桑田郡には国分寺・国分尼寺が建立されており、奈良時代には丹波国の中心地となった。これに対して、古くからの重要地である丹後は、これより北に離れた地であることが、丹後国の分国の理由と考えられている[1]。 また、分国後の丹波国が丹後国に対して「丹前国」[注釈 3]とされなかったのは、分国当時(和銅6年)の分国の原則が、それ以前の同等な国の分割(吉備国を備前、備中、備後とするような分割)[注釈 4]とは異なり、母国から一部を割いて、分割された側に別の新国名を付ける形(備前から美作が分国するような形)がとられていた為であると考えられる。そして分割された側でありながら、丹後(二字で「タニハノミチノシリ」と訓じられた)とされて新たな国名が与えられなかったのは、ここが元々の丹波の地であるので、タニハノミチノシリとして「タニハ」の名を残した為とみられる[3][注釈 5]。 なお分国後の国名については、『大日本古文書』で丹波国を「丹波前国」、『日本霊異記』で丹後国を「丹波後国」と記した例があり、前者は「タニハノミチノクチ」、後者は「タニハノミチノシリ」(和名類聚抄)に対応したものと考えられる(いずれも「ミチ(道)」が省略されている)[1]。

戦国時代まで

室町時代は山名氏のちに一色氏が守護となるが、戦国時代の天正7年(1579年)に織田信長軍の明智光秀や細川幽斎(長岡藤孝)とその子忠興らの丹後平定で一色氏は降伏。豊臣秀吉の時代は長岡氏を経て細川父子が支配した[4]。水本邦彦は、江戸時代後期に宮津藩士の小林玄章とその子・孫によって編纂された丹後地誌『丹哥府志(たんかふし)』に一色氏に関する城跡の記事が多いことから、江戸時代の人々にとって中世丹後国のイメージは一色領国であったと分析している[4]。

江戸時代

江戸時代に入り慶長5年(1600年)に細川氏が九州移封となった後は12万3千石を与えられた京極高知が治める。元和8年(1622年)に高知が没した後に丹後国は宮津藩・田辺藩・峰山藩の三藩に分立し、二男高広、三男高三、養子の高通がそれぞれ相続した[2][4]。 宮津藩では寛文6年(1666年)に京極高国が改易で陸奥国に流され[2]一時的に幕府直轄領となった後、寛文9年に山城国淀藩の永井尚征が入封。延宝8年(1680年)にその子永井尚長が志摩国鳥羽藩主の内藤忠勝に刺殺され、嫡子がいないため改易となり翌9年に武蔵国岩槻藩の阿部正邦が入封した[4]。元禄10年(1697年)に下野国宇都宮藩から二才の奥平昌成、享保2年(1717年)に信濃国飯山藩の青山幸秀、宝暦8年(1758年)に遠江国浜松藩から本庄資昌が入封して以降は、明治維新を経て明治4年(1871年)7月の廃藩置県で三藩が県となるまで本庄氏が藩主を務めた[4]。 田辺藩は京極高盛が寛文8年(1668年)に但馬国豊岡藩に移封し、京都所司代等を務めた牧野親成が入封。峰山藩は京極氏が廃藩置県まで治めた。熊野郡の幕府直轄領は上方代官が分割して支配していたが、享保20年(1735年)同郡久美浜村に久美浜代官所が設置された[4]。明治4年11月に三県は豊岡県に併合され、明治9年(1876年)8月京都府に編入された[2]。江戸時代には宮津、田辺(舞鶴)、峰山に藩庁が置かれた。 江戸時代享保年間に峰山の絹屋佐平次や加悦の手米屋小右衛門らが西陣からちりめんの技法を持ち帰る。丹後ちりめんは藩に保護され、販売不振に陥っていた安政4年(1857年)には不況対策と保護育成のため宮津・峰山両藩と久美浜代官所が合同で丹後国産会所を設立している[4]。

徳川幕府との関係

三藩のうち宮津・田辺は譜代大名、峰山は譜代もしくは外様大名といわれ、久美浜代官所を加えた丹後国四領はそれぞれ分立していながらも一つのまとまりがあったと考えられている。これは峰山と久美浜代官所領の村が分散し入り混じっていながらも問題が起きていないことや、天明4年(1784年)に久美浜代官所領の佐野村で起きた一揆を豊岡・峰山・宮津三藩の加勢で沈静化できたことが理由にあげられ、藩主が移封を繰り返した丹後国を広い意味での幕府直轄領、徳川領国とする根拠にもなっている[4]。

近世以降の沿革

「旧高旧領取調帳」に記載されている明治初年時点での国内の支配は以下の通り(409村・146,724石2斗5升)。太字は当該郡内に藩庁が所在。幕府領は久美浜代官所が管轄。 熊野郡(53村・18,333石余) - 幕府領 中郡(35村・21,911石余) - 幕府領、峰山藩、宮津藩 竹野郡(76村・25,223石余) - 幕府領、宮津藩 与謝郡(94村・42,175石余) - 幕府領、宮津藩 加佐郡(151村・39,079石余) - 幕府領、田辺藩、宮津藩 慶応4年 4月19日(1868年5月21日) - 幕府領が府中裁判所の管轄となる。 閏4月28日(1868年6月18日) - 府中裁判所の管轄地域が久美浜県の管轄となる。 明治2年6月20日(1869年7月28日) - 任知藩事にともない田辺藩が改称して舞鶴藩となる。 明治4年 7月14日(1871年8月29日) - 廃藩置県により、藩領が舞鶴県、宮津県、峰山県の管轄となる。 11月2日(1871年12月13日) - 第1次府県統合により、全域が豊岡県の管轄となる。 明治9年(1876年)8月21日 - 第2次府県統合により京都府の管轄となる。