小窓
紀伊国(きいのくに)

作成日:2023/3/11

紀伊国(きいのくに)/ 紀州(きしゅう) 現在の和歌山県、三重県西部。

南海道の一国。 国力区分は上国、 遠近区分は近国

7世紀に成立した当初は、 木国(現代の標準語・共通語表記:きのくに)であった。 名称の由来として、 雨が多く森林が生い茂っている様相から「木国」と命名された、 という説がある。 また、今の和歌山県北部が、 有力豪族である紀国造が支配していた地域であるから「紀の国」というようになった、 という説もある。 実際に、律令制以前の紀伊国は紀国造の領土のみであり、 熊野国造の領土(牟婁郡)を含まなかった。

西暦713年和銅6年)に「雅字(良い文字の意)二文字で国名を表すように」との勅令が出された時、 紀伊国と表記するようになった。 現代の近畿方言では「木」(きい)、 「目」(めえ)、 「手」(てえ)のように、 1拍語を2拍で発音する傾向があるが、 木国も同様、 もともと当地(または都である奈良)の発音で「きいのくに」だったため当て字して「紀伊国」とした、 とする説がある。 逆に、「紀伊国」と書きながら「伊」は黙字で、 後に「きいのくに」と読まれるようになった、 とする説もある。 ただし、奈良時代の日本語の発音は不明の点も多く、はっきりしない。

赤:紀伊国 緑:。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
沿革

7世紀に成立した。

紀伊国は歴史が古く、 『古事記』には神武天皇が大和に入る時に紀伊熊野を通ったとされるなど、 事実はともかく、 奈良盆地を地盤とするヤマト王権から知られた国であった。 王権は、海人集団を部民に編成する海部の設定を進めた。 また、忌部の設定は「紀氏集団」の在地の祭祀権を揺るがした。 しかし、部民の設定は充分に展開しなかった。 王権はつぎに国造制の導入と屯倉の設定という方策をとった。

天皇や皇后の紀伊行幸で史料に現れた確実な例は、 斉明天皇西暦658年(斉明天皇4年)紀温湯(牟呂温湯)行幸である。 この11月に有馬皇子の事件が起きた。

奈良時代の官衙遺跡の確実な例として、 御坊市の堅田遺跡が挙げられる。 この遺跡では、周りに柵か塀をめぐらしており、 その内区には庇のついた掘立柱建物を中心に建物が全体として「コ」の字状に建てられており、 外区には倉庫群が二組建てられていたようである。 この堅田遺跡は8世紀前半から後半にかけての遺跡で、 付近に「西郡」の名の字が残っているところから考えて、 日高郡衙跡に比定されている。

平安時代後期に熊野三山(熊野本宮、熊野新宮、熊野那智の連合体)が成立し、 太上天皇(上皇)による熊野御幸がおこなわれるようになると、 熊野古道が整備され熊野詣が流行った。 その他、紀州の三井寺とされた紀三井寺、空海の高野山金剛峯寺、 道成寺、根来寺など大寺大社が紀州の地に建てられた。

平安時代末期には、 特に有田郡の湯浅地方を中心に湯浅党の武士団、 口熊野の田辺・奥熊野の新宮付近に熊野別当家を総帥とする熊野水軍が発達し勢力を伸ばした。 この湯浅党の武士団は平氏方、 熊野水軍は源氏方として源平合戦(治承・寿永の乱)にも関与した。

南北朝時代は湯浅党を中心に南朝勢力が強い国の一つだった。 南北朝合一後は畠山氏が守護であったが、 寺社勢力が強力なために、その支配力は限定的なものにとどまった。

戦国時代には、 ルイス・フロイスが「紀州の地には四つ五つの共和国的な存在があり、いかなる権力者もそれを滅ぼすことができなかった」と述べている通り、 雑賀衆に代表される国人衆や寺社勢力が割拠する状態が続いた。 紀伊の割拠状態は西暦1585年天正13年)の羽柴秀吉による紀州征伐によって終焉した。 紀伊の最有力勢力である雑賀衆と根来寺は、 小牧・長久手の戦いの際、 秀吉の留守に乗じ岸和田城や大坂に侵攻していたが撃退され、 秀吉の信雄・家康らとの和睦後、 雑賀攻めを招いた。 秀吉方は3月20日に出兵し、 和泉の諸城を落として紀州に攻め入り、 23日に根来寺を焼き討ちした。 紀州の国人や各地の戦闘で敗れた残党なども加わって小さな太田城で抵抗したが、 秀吉は水攻めで約一ヶ月後に降伏させた。 平定後は刀狩りを命じ、跡を秀長に任せ、和歌山城を築造した。

現在の奈良県上北山村と下北山村は、 元は牟婁郡の一部であったが、後に大和国吉野郡に編入された。

現在の三重県の尾鷲市、紀北町、大紀町南部の錦地区は、 元は志摩国英虞郡の一部であったが、西暦1582年天正10年)に新宮城主の堀内氏善により紀伊国牟婁郡に編入された。

関ヶ原の戦いの後は浅野幸長が入封した(紀州藩)。 西暦1619年に浅野氏が安芸広島へ転封されると、 徳川家康の十男徳川頼宣が和歌山に入封し、 幕末まで紀州徳川家が統治した。