奈良時代(ならじだい)
作成日:2019/10/8
奈良時代。
西暦710年-
西暦794年(84年間) あるいは
西暦710年-
西暦784年(74年間)
奈良時代は、
都が
平城京 (奈良) に定められた
和銅3年(
西暦710年)に始まり、
広義では、
延暦13年(
西暦794年)に
桓武天皇によって
平安京に都が遷されるまでの84年間をいい、
狭義では
延暦3年(
西暦784年)に
桓武天皇によって
長岡京に都が移されるまでの74年間をいう。
「奈良の都」の異名を持つ
平城京に都が置かれたことから、
「奈良時代」や「平城時代」という。
しかし、その間には、
恭仁京、
紫香楽京、
難波京が、
また
延暦3年から
延暦13年の10年間は
長岡京が都であったが、一般には奈良時代として取扱う。
日本
仏教による鎮護国家を目指して、
天平文化が花開いた時代である。
奈良時代は政治史からみれば、
- 前期は皇族を中心とした皇親政治の時期で「長屋王の変」まで
- 中期は藤原不比等の4子による藤原氏台頭の時期で藤原仲麻呂の失脚まで
- 後期は称徳天皇、僧道鏡による僧侶政治の時期
をいう。
政治の面ではクーデターや内乱が頻発した時期であり、
経済の面では公地公民制に基づく班田制が維持できず、
墾田の永世私有が許可された時期であった。
...
文化面では、
仏教と美術との点からは、
いわゆる天平時代であり、
聖武天皇、
光明皇后を中心とする崇仏が盛んとなり、
東大寺に大仏が造立されたり、
全国に国分寺が建立され、
また多数の優秀な彫刻が現代まで残されている (→天平彫刻 ) 。
さらに皇后が天皇の遺品を東大寺に納めた正倉院には、
国際的にもすぐれた品々が現存している。
文学の面では、
『万葉集』が民族の歌として今日に共感を伝え、
『古事記』『日本書紀』「風土記」が編纂された時代でもある。
年表
- 西暦661年(斉明天皇7年)
-
- 西暦680年(天武天皇9年)
-
- 西暦701年(大宝元年)
-
- 首皇子(のちの聖武天皇)降誕。
-
文武天皇の命によって編纂が進められていた「大宝律令」が完成した。
-
日本ではじめての体系的な法律である。
大宝律令の完成は、
天皇を中心とした中央集権的な国家体制が出来上がったことを意味する。
-
中央の政治は、「二官八省」という制度の下で行われた。
祭祀を司る「神祇官」と、
それ以外の仕事を取り仕切る「太政官」という二つの役所が設けられ、
太政官の下の8つの省がそれぞれの政務を担当した。
-
地方の行政区分は、
都とその周辺の5つの国を「畿内(きない)」とし、
それ以外の国は7つの地域に分けた。
都と地方を結ぶ道路の建設も進み、
情報の伝達や軍隊の移動などもスムーズになっていった。
-
その他、裁判の制度なども整えられた。
この時作られた政治の仕組みは、
基本的には江戸時代が終わるまで続いた。
- 西暦707年(慶雲4年)
-
- 西暦708年(慶雲5年)
-
- 正月。武蔵国が自然銅(銅)を献上したのを機に「和銅」と改元された。
- 2月。貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。
- 2月11日。鋳銭をつかさどる催鋳銭司がおかれた。
-
2月15日、「平城遷都の詔」が出された。
-
9月。元明天皇はみずから平城の地を視察し、造平城京司の長官ら17名を任命、
10月。伊勢神宮に勅使を派遣して新都造営を告げ。
11月。平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、布を支給、
12月には地鎮祭を行い、造営工事を開始した。
- 西暦708年(和銅元年)
-
-
遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、
不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。
地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、
彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって橘氏の実質上の祖となった。
なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、
のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、
三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。
- 西暦709年(和銅2年)
-
- 西暦710年(和銅3年)
-
-
4月13日(3月10日)。元明天皇が藤原京から唐の長安に倣った平城京へ遷都する。奈良時代の始まりである。
-
工事着工後から1年4か月後の西暦710年(和銅3年)3月には平城遷都が決行されたが、
このように急ピッチでの遷都が可能であったのは、
寺院も含めて建物の多くが藤原京からの移築だったことによる。
-
近年の知見では新都平城京の規模は旧都藤原京とほぼ変わらず、
むしろ藤原京のほうが広いぐらいであり、
長安城に比較すれば4分の1程度にすぎなかった。
-
平城京の特色としては「外京」という左京からの張り出し部分を設けたことで、
完全な矩形ではないことである。
-
「外京」は今日の奈良市の中心街となっている。
-
平城京に所在する建物は、唐風建築のみならず、
掘立柱で板敷の高床建築で屋根は檜皮葺という前代からの伝統的な日本風建築も多かった。
- 西暦711年(和銅4年)
-
-
(10月)。貨幣流通を図るため、蓄銭叙位令が出される。
- 西暦712年(和銅5年)
-
- 西暦714年(和銅7年)
-
-
8月9日(6月25日)。首皇子(のちの聖武天皇)が、数え14歳で元服。立太子した。
- 西暦715年(和銅8年、霊亀元年)
-
-
10月3日(和銅8年9月2日)。元明天皇が譲位し、氷高皇女(自身の娘であり文武天皇の妹でもある)に譲位し、第44代・元正天皇が即位した。
- 改元を行い、霊亀元年とした。
- 大赦(殺人・私鋳銭・強盗・窃盗を除く)を詔した。
- 全国に当年の租を免除した。
- 西暦718年(養老2年)
-
- 阿倍内親王(のちの孝謙天皇)降誕。
-
藤原不比等らが「養老律令」を編纂する。
-
根本は大宝律令を基本とし、
字句の修正などが主であった。
-
その施行は遅れ、
西暦757年(天平宝字9年)、 藤原仲麻呂主導の下においてであった。
- 西暦720年(養老4年)
-
-
『日本書紀』舎人親王らの撰で完成し、元正天皇に奏上される。
-
九州南部に住む隼人がヤマト王権に対して反乱を起こした。
1年半近くに及ぶ戦いは隼人側の敗北で終結し、
ヤマト王権の九州南部における支配が確立した。
-
西暦720年(養老4年2月29日)、
大宰府から朝廷へ「大隅国国司の陽侯史麻呂が殺害された」との報告が伝えられた。
朝廷は3月4日、大伴旅人を征隼人持節大将軍に、
笠御室と巨勢真人を副将軍に任命し隼人の征討にあたらせた。
-
隼人側は数千人の兵が集まり7ヶ所の城に立て籠もった。
これに対して朝廷側は九州各地から1万人以上の兵を集め九州の東側および西側からの二手に分かれて進軍し、
6月17日には5ヶ所の城を陥落させたと報告している。
-
しかしながら残る曽於乃石城(そおのいわき)と比売之城(ひめのき)の2城の攻略に手間取り長期戦となった。
-
大伴旅人は戦列を離れ8月12日に都に戻りその後の攻略を副将軍らに任せている。
-
1年半近くにわたった戦いは隼人側の敗北で終結し、
西暦721年(養老5年7月7日)、
副将軍らは隼人の捕虜を連れて都に戻った。
隼人側の戦死者と捕虜は合わせて1400人であったと伝えられている。
-
反乱のため班田収授法の適用は延期されることになり、
戦乱から80年近く経過した西暦800年(延暦19年)になってようやく適用されている。
- 西暦721年(養老5年)
-
- 12月29日(12月7日)。元明上皇61歳で崩御。
- 西暦722年(養老6年)
-
- 西暦723年(養老7年)
-
-
三世一身法を施行。
日本の律令に規定された班田収受の法には、
開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった。
そのため、
長屋王を中心とする朝廷は西暦722年(養老6年)に良田百万町歩開墾計画を立て、
計画遂行を期して西暦723年(養老7年)には田地開墾を促進する三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行した。
この法では、
新しく灌漑施設をつくって開墾した者は三代のあいだ、
もとからある池溝を利用した者は本人一代にかぎり、
墾田の保有を認めた。
- 西暦724年(養老8年、神亀元年)
-
- 西暦725年(神亀2年)
-
- 西暦726年(神亀3年)
-
- 西暦727年(神亀4年)
-
- 西暦728年(神亀5年)
-
- 西暦729年(神亀6年、天平元年)
-
- 西暦730年(天平2年)
-
- 5月8日(4月17日)。光明皇后の発意により施薬院を設置。
- 西暦731年(天平3年)
-
- 西暦732年(天平4年)
-
- 西暦733年(天平5年)
-
- 西暦734年(天平6年)
-
- 西暦735年(天平7年)
-
- 西暦736年(天平8年)
-
- 西暦737年(天平9年)
-
- 山部皇子(のちの桓武天皇)降誕。
-
天然痘の流行により、官員でも死去するものが相次いだ。
- 議政官では藤原氏の武智麻呂・房前・宇合・豊成の四兄弟と多治比県守が相次いで死去した。
- この5人の穴埋めのために、存命者の大幅な官位上昇が行われた。
- 6月21日。天然痘の流行に鑑み、天下に大赦を行った。
- 8月23日。天然痘の流行および右大臣藤原武智麻呂の発病に鑑み、天下に大赦を行った。
- 9月11日。天然痘の流行に鑑み、当年の祖を免除した。
- 西暦738年(天平10年)
-
-
2月6日(1月13日)。阿倍内親王(後の孝謙天皇)が父聖武天皇の皇太子となる。橘諸兄が右大臣となる。
-
阿倍内親王(聖武天皇の皇女、
のちの孝謙天皇)が、
史上初の女性皇族の皇太子として、立太子された。
当時の皇室の嫡流(天武天皇・持統天皇の系統)の男子には安積親王がいたが、
親王は生母が傍流の県犬養氏であったため、
光明皇后(藤原氏)嫡出の内親王がこれに優先して皇太子となった。
- 西暦739年(天平11年)
-
- 西暦740年(天平12年)
-
- 9月28日(9月3日)- 広嗣が挙兵したとの報を受け、天皇は大野東人を大将軍とし広嗣征討を命じる(藤原広嗣の乱)
- 西暦741年(天平13年)
-
- 西暦742年(天平14年)
-
- 西暦743年(天平15年)
-
- (12月)筑紫に鎮西府を置いた。
-
墾田永年私財法を施行した。
農民の墾田意欲は必ずしも向上せず、
墾田も思いのほか進まなかったため、
西暦743年(天平15年)、
橘諸兄政権はさらなる墾田促進を目的とした墾田永年私財法を施行した。
これは、国司に申請して開墾の許可を得て、
一定期間内に開墾すれば、
一定限度内で田地の永久私有をみとめるものであった。
- 11月5日(10月15日)。聖武天皇は、近江国紫香楽京にて盧舎那仏金銅像の造立を発願する(大仏造立の詔)。
- 西暦745年(天平17年)
-
- 西暦748年(天平20年)
-
- 西暦749年(天平21年、天平感宝元年、天平勝宝元年)
-
- 5月4日(天平21年4月14日)。天平感宝に改元。
-
8月19日(天平感宝元年7月2日)。
- 西暦752年(天平勝宝4年)
-
- 5月26日(天平勝宝4年4月9日)。東大寺盧舎那仏の開眼法要が行われた。
- 西暦753年(天平勝宝5年)
-
- 西暦754年(天平勝宝6年)
-
- 2月26日(1月)。遣唐使・大伴宿禰古麻呂、唐僧鑑真・法進ら8人を伴い、帰国する。
- 8月11日。太皇太后藤原宮子崩御。
- 日本にはじめて唐から砂糖(赤糖)が伝来する。
- 西暦755年(天平勝宝7年)
-
-
紀年の数え方を、「年」から改めて「歳」とした。
- 唐における先例に倣ったもの。
- いつ「年」に戻ったのか不明だが、この稿では全て「年」に統一する。
- 西暦756年(天平勝宝8年)
-
- (2月)。左大臣橘諸兄が失脚。
- 6月2日 - 聖武上皇 崩御。
- 西暦757年(天平勝宝9年、天平宝字元年)
-
- 4月26日(天平勝宝9年4月4日)。大炊王(のちの淳仁天皇)が立太子
- 藤原仲麻呂主導の下において「養老律令」を施行。
- 西暦758年(天平宝字2年)
-
- 西暦759年(天平宝字3年)
-
- 西暦760年(天平宝字4年)
-
- 西暦761年(天平宝字5年)
-
- 西暦762年(天平宝字6年)
-
-
この頃、 淡海三船は歴代天皇の漢風諡号を撰進した。
これによって、
天智天皇もしくは天武天皇の時代(7世紀)に創始されたと考えられる「天皇」号は、
それ以前に遡って追号された。
- 西暦763年(天平宝字7年)
-
- 西暦764年(天平宝字8年)
-
- 藤原仲麻呂の乱。
- 11月6日(10月9日)。淳仁天皇を廃して淡路に配流する。孝謙上皇が重祚し、第48代天皇・称徳天皇となる。
- 西暦765年(天平宝字9年、天平神護元年)
-
- 西暦766年(天平神護2年)
-
- 西暦767年(天平神護3年、神護景雲元年)
-
- 西暦768年(神護景雲2年)
-
- 西暦769年(神護景雲3年)
-
- 西暦770年(神護景雲4年、宝亀元年)
-
- 西暦771年(宝亀2年)
-
- 西暦772年(宝亀3年)
-
- 西暦773年(宝亀4年)
-
- 1月29日(1月2日)。山部王(後の第50代天皇・桓武天皇)が立太子
- 西暦774年(宝亀5年)
-
- 西暦775年(宝亀6年)
-
- 西暦776年(宝亀7年)
-
- 西暦777年(宝亀8年)
-
- 西暦778年(宝亀9年)
-
- 西暦779年(宝亀10年)
-
- 西暦780年(宝亀11年)
-
- 西暦781年(宝亀12年、天応元年)
-
- 4月30日(天応元年4月3日)。光仁天皇が譲位。山部親王が践祚し、第50代天皇・桓武天皇となる。
- 5月12日(天応元年4月15日)。桓武天皇が即位。
- 7月6日(天応元年7月6日)。富士山が噴火する。
- 西暦782年(天応2年、延暦元年)
-
- 西暦783年(延暦2年)
-
- 西暦784年(延暦3年)
-
- 西暦785年(延暦4年)
-
- 12月31日(11月25日)。桓武天皇の皇子・安殿親王(後の第51代天皇・平城天皇)が立太子する。
- 西暦786年(延暦5年)
-
- 西暦787年(延暦6年)
-
- 西暦788年(延暦7年)
-
- 西暦789年(延暦8年)
-
- 西暦790年(延暦9年)
-
- 西暦791年(延暦10年)
-
- 西暦792年(延暦11年)
-
- 西暦793年(延暦12年)
-
- 西暦794年(延暦13年)
-
- 7月14日(6月13日)- 桓武天皇の命を受けた坂上田村麻呂が蝦夷征討に出発。
- 11月18日(10月22日)- 桓武天皇が長岡京から平安京へ遷都。
- 12月4日(11月8日)- 平安京が新都となり、同時に山背国を山城国に、近江国の古津を旧名の大津に、それぞれ改称。
- 西暦806年(延暦25年)
-
奈良時代の天皇
概説
- 範囲
-
広義では、
西暦710年(和銅3年)に元明天皇によって平城京に遷都してから、
西暦794年(延暦13年)に桓武天皇によって平安京に都が遷されるまでの84年間。
狭義では、同じく西暦710年から、西暦784年(延暦3年)に桓武天皇によって長岡京に都が移されるまでの74年間を指す。
「奈良の都」の異名を持つ平城京に都が置かれたことから、
「奈良時代」や「平城時代」という。
西暦740年から西暦745年にかけて、
聖武天皇は
恭仁京(京都府木津川市)、
難波京(大阪府大阪市)、
紫香楽京(滋賀県甲賀市信楽)に、
それぞれ短期間であるが宮都を遷したことがある。
- 特徴
-
平城京遷都には藤原不比等が重要な役割を果たした。
平城京は、
中国の都長安に倣った都を造営したとされる。
政治家や官僚が住民の大半を占める政治都市であった。
平城京への遷都に先立って撰定・施行された大宝律令が、
日本国内の実情に合うように多方面から変更されるなど、
試行錯誤を行ない、
律令国家・天皇中心の専制国家・中央集権を目指した時代であった。
また、天平文化が華開いた時代でもあった。
西暦710年に都は平城京に遷った。
この時期の律令国家は、
戸籍と計帳で人民を把握すると、
租・庸・調と軍役を課した。
遣唐使を度々送り、
唐をはじめとする大陸の文物を導入した。
全国に国分寺を建て、
仏教的な天平文化が栄えた。
『古事記』『日本書紀』『万葉集』など現存最古の史書・文学が登場した。
この時代、中央では政争が多く起こり、東北では蝦夷との戦争が絶えなかった。
皇位は、
天武天皇と持統天皇の直系子孫によって継承されることが理想とされ、
天皇の神聖さを保つ観点から、
近親婚が繰り返された。
その結果として、
天武天皇と持統天皇の直系の皇子の多くは、
病弱であり、
相次いで早死にした。
そのような天武・持統の直系子孫による皇位継承の不安定さが、
8世紀におけるさまざまな政争を呼び起こし、
結果として、
天武・持統の直系の断絶・自壊へとつながった。
政治的には、
西暦710年の平城京遷都から西暦729年の「長屋王の変」までを前期。
藤原四兄弟の専権から西暦764年(天平宝字8年)の藤原仲麻呂の乱までを中期。
称徳天皇および道鏡の執政以降を後期に細分できる。
律令国家の完成とその転換
奈良時代の前半は、
刑部親王らが
撰述し、
西暦701年(
大宝元年)に完成・施行された
大宝律令が基本法であった。
西暦718年(養老2年)藤原不比等らに命じて、「
養老律令」を新たに選定した。
字句の修正などが主であり、
根本は
大宝律令を基本としていたが、
その施行は遅れ、
西暦757年(天平宝字9年)、
藤原仲麻呂主導の下においてであった。
- 律令制下の天皇権力
-
律令制下の天皇には、以下のような権力があった。
- 貴族や官人の官職及び位階を改廃する権限
- 令外官(りょうげのかん)の設置権
- 官人の叙位および任用権限
- 五衛府(ごえふ)や軍団兵士に対するすべての指揮命令権
- 罪刑法定主義を原則とする律の刑罰に対して勅断権と大赦権
- 外国の使者や外国へ派遣する使者に対する詔勅の使用などの外交権
- 皇位継承の決定権
西暦762年(天平宝字6年)頃、
淡海三船は歴代天皇の漢風諡号を撰進した。
これによって、
天智天皇もしくは天武天皇の時代(7世紀)に創始されたと考えられる「天皇」号は、
それ以前に遡って追号された。
- 中央官制、税制と地方行政組織
-
大宝律令の制定によって、律令制国家ができあがった。
中央官制は、二官八省と弾正台と五衛府から構成されていた。
地方の行政組織は、国・郡・里で統一された。
里はのちに郷とされた。
さらに道制として、
畿内と東海道・東山道・北陸道・山陰道・山陽道・南海道・西海道の七道に区分され、
その内部は66国と壱岐嶋・対馬嶋の2嶋が配分された(令制国一覧参照)。
軍団は各国に配置され、国司の管轄下におかれた。
また田と民は国家のものとされる公地公民制を取り入れ、戸籍により班田が支給された。
税は、租庸調と雑役から構成されていた。
西暦742年(天平14年)大宰府を廃止。
翌年、筑紫に鎮西府を置いたが、西暦745年(天平17年)には太宰府が復された。
東北地方では多賀城、出羽柵等が設置され、蝦夷征討と開発、入植が進められた。
- 農地拡大政策と律令国家
-
律令国家は、高度に体系化された官僚組織を維持するため、安定した税収を必要とした。
いっぽう、日本の律令に規定された班田収受の法には、開墾田のあつかいについての明確な規定がなかった。
そのため、
長屋王を中心とする朝廷は西暦722年(養老6年)に良田百万町歩開墾計画を立て、
計画遂行を期して西暦723年(養老7年)には田地開墾を促進する三世一身法(さんぜいっしんのほう)を施行した。
この法では、新しく灌漑施設をつくって開墾した者は三代のあいだ、もとからある池溝を利用した者は本人一代にかぎり、墾田の保有を認めた。
農民の墾田意欲は必ずしも向上せず、
墾田も思いのほか進まなかったため、西暦743年(天平15年)、橘諸兄政権はさらなる墾田促進を目的とした墾田永年私財法を施行した。
これは、国司に申請して開墾の許可を得て、一定期間内に開墾すれば、一定限度内で田地の永久私有をみとめるものであった。
両法令は公地公民制の基盤を覆す性格をもったことは確かだが、
動機としては班田(口分田)を確保することによって律令体制の立て直しを図ったものであったことも事実である。
開墾をおこなう資力にめぐまれた貴族や豪族、寺社の土地所有は以後増加の一途をたどった。
とくに大貴族や大寺院は、広大な土地を囲い込み、一般の農民や浮浪人を使役して私有地を広げた。
これが荘園の起こりであるが、租税義務のともなう輸租田を主とするものであり、初期荘園(墾田地系荘園)と呼ばれる。
平城京の造営と和同開珎
詳細は「平城京」、「和同開珎」、および「蓄銭叙位令」を参照
元明天皇即位の翌年にあたる西暦708年(慶雲5年)正月、
武蔵国が自然銅を献上したのを機に「
和銅」と改元され、
翌2月には、
貨幣の鋳造と都城の建設が開始された。
2月11日、鋳銭をつかさどる催鋳銭司がおかれ、2月15日、平城
遷都の詔が出された。
- 平城遷都と橘賜姓
-
「平城遷都の詔」によれば、
新都は「方今、平城之地、四禽叶図…」とあり、
「四神相応の地」が選ばれた。
藤原京は、
南から北にかけて傾斜する地形の上に立地し、
藤原宮のある地点が群臣の居住する地より低く、
臣下に見下ろされる場所にあったのが忌避されたとみなされることもあり、
また現実問題として排水が悪いなどの難点ともなった。
しかしそれだけではなく、
藤原京は唐との交流が途絶えた時期に造られたため、
古い書物(『周礼』)に基づいた設計を行ったと考えられ、
当時の中国の都城と比しても類例のないものとなっていた。
実際には、
30数年ぶりに帰国した遣唐使の粟田真人が朝政にくわわってこれらの問題が明らかになり、
また唐の文化や国力、
首都長安の偉容や繁栄などを報告したことが、
藤原京と長安との差がかけ離れていることを自覚することとなって、
遷都を決めた要因となったと考えられる。
その根底には、
壮麗な都を建設することが、
外国使節や蝦夷・隼人などの辺境民、
そして地方豪族や民衆に対して天皇の徳を示すことに他ならず、
国内的には中央集権的な支配を確立するとともに、
東夷の小「中華帝国」を目指したものに他ならなかった。
9月、
元明天皇はみずから平城の地を視察し、
造平城京司の長官ら17名を任命、
10月には伊勢神宮に勅使を派遣して新都造営を告げ、
11月、平城宮予定地のため移転させられる民家に穀物、
布を支給、
12月には地鎮祭を行い、
造営工事を開始した。
この年(和銅元年)、
遷都を主導した藤原不比等は正二位、右大臣に進み、
不比等の後妻、県犬養三千代は女帝の大嘗祭において杯に浮かぶタチバナとともに「橘宿禰」の姓を賜った。
地名や職掌にかかわる名が一般的ななかで植物の名を氏名とするのは稀有なことであり、
彼女の生んだ皇子たちは橘を名のって橘氏の実質上の祖となった。
なお、これにより橘諸兄と改名した葛城王と、のちに皇后となる光明子(光明皇后)とは、三千代を母とする異父同母の兄妹にあたる。
平城京の造営工事はきわめて短期間のうちに遂行された。
工事着工後の1年4か月後の和銅3年(710年)3月には平城遷都が決行されたが、
このように急ピッチでの遷都が可能であったのは、
寺院も含めて建物の多くが藤原京からの移築だったことによる。
近年の知見では新都平城京の規模は旧都藤原京とほぼ変わらず、
むしろ藤原京のほうが広いぐらいであり、
長安城に比較すれば4分の1程度にすぎなかった。
平城京の特色としては「外京」という左京からの張り出し部分を設けたことで、
完全な矩形ではないことである。
「外京」はむしろ今日の奈良市の中心街となっている。
平城京に所在する建物は、
唐風建築のみならず、
掘立柱で板敷の高床建築で屋根は檜皮葺という前代よりの伝統的な日本風建築も多かった。
- 和同開珎と蓄銭叙位令
-
都城の造営は短期間にすすめられたが、
貨幣の鋳造のスピードもはやかった。
西暦708年2月に催鋳銭司がおかれ、
同年5月にははやくも和同開珎の銀銭、
同じく8月には銅銭が発行されている。
銀銭の発行が早かったのは、
秤量貨幣としての銀の通用の伝統があったためとみられる。
平城京が持統天皇期の藤原京の発展形であったのと同様、
和同開珎もまた富本銭の発展形であり、
また唐の銭貨にならったものであった。
銭貨は新都の造営にやとわれた人びとへの支給銭など宮都造営費用の支払いに利用され、
政府はさらにその流通をめざして和銅4年(711年)10月に一定量の銭を蓄えた者に位階を与えるとする蓄銭叙位令を発したものの、
京・畿内を中心とした地域の外では、
稲や布などを物品貨幣とする交易が広くおこなわれていた。
蓄銭叙位令は一種の売官制であり、
かえって貨幣の死蔵がすすみ、
円滑な貨幣交換がさまたげられることがあった。
政府は、
こののちも銅銭の鋳造をつづけ、
10世紀の乾元大宝まで12回にわたり国家的に銭貨の鋳造はおこなわれた。
これを、皇朝十二銭という。
一方で、私鋳銭禁止令が和同開珎鋳造と同じ和銅元年(708年)に出されている。
役人が位階獲得を目的に私鋳銭を製造しないよう、
私鋳銭製造に対しては官位剥奪、
「斬」(首を切る極刑)の罰が加えられた。
政争と皇権の動揺
- 長屋王の変と光明子立后
-
この時代の初め、
中臣鎌足の息子藤原不比等があらわれて政権をにぎり、
律令制度の確立に力を尽くすとともに、
皇室に接近して藤原氏発展の基礎をかためた。
不比等死後に政権を担当したのは、
高市皇子の子で天武天皇の孫にあたる長屋王であった。
彼は右大臣に昇って権勢を誇ったが、
その前後から負担に苦しむ農民の浮浪や逃亡がふえ、
社会不安が表面化したため、
政府は財源確保のため西暦723年(養老7年)には、
三世一身法を施行して開墾を奨励した。
不比等の娘藤原宮子を母とする聖武天皇が西暦724年(神亀元年)ころから、
不比等の子武智麻呂、房前、宇合、麻呂の藤原四兄弟が政界に進出した。
西暦729年(神亀6年)、
左大臣にのぼった長屋王に対し藤原四兄弟は「左道によって国政を傾ける」と讒訴して、
自殺に追いこみ(「長屋王の変」)、
政権を手にした。
変の直後、藤原氏は不比等の娘光明子を、臣下で最初の皇后(光明皇后)に立てることに成功した。
- 橘諸兄政権と聖武天皇
-
その藤原四兄弟が西暦737年(天平9年)に天然痘の流行で相次いで死亡すると、
皇族出身の橘諸兄が下道真備(のちの吉備真備)や僧玄昉を参画させて政権を担った。
これを不満とした宇合の長男藤原広嗣は、
西暦740年(天平12年)、
真備らを除くことを名目に、
九州で挙兵したが、
敗死した(藤原広嗣の乱)。
この反乱による中央の動揺ははなはだしく、
聖武天皇は、
山背の恭仁、
摂津の難波、
近江の紫香楽と転々と都をうつした。
相次ぐ遷都による造営工事もあって人心はさらに動揺し、
そのうえ疫病や天災もつづいたので社会不安はいっそう高まった。
かねてより厚く仏教を信仰していた聖武天皇は鎮護国家の思想により、
社会の動揺をしずめようと考え、
西暦741年(天平13年)に国分寺建立の詔、
西暦743年(天平15年)には盧舎那大仏造立の詔を発した。
これにより東大寺大仏がつくられ、
西暦752年(天平勝宝4年)に完成。
女帝孝謙天皇・聖武太上天皇臨席のもと、盛大な開眼供養がおこなわれた。
- 仲麻呂政権の消長
-
この間に光明皇后の信任を得た藤原南家の藤原仲麻呂(武智麻呂の子)が台頭、
紫微中台を組織して西暦755年(天平勝宝7歳)には橘諸兄から実権を奪い、
西暦757年(天平宝字元年)には諸兄の子橘奈良麻呂も排除した(橘奈良麻呂の乱)。
仲麻呂は独裁的な権力を手中に、
傀儡(かいらい)として淳仁天皇を擁立。
みずからを唐風に恵美押勝と改名すると、
儒教を基本とする中国風の政治を推進したが、
今度は孝謙上皇の寵愛を得た僧道鏡が頭角を現す。
押勝はこれを除くために西暦764年(天平宝字8年)に反乱を起こして敗死した(藤原仲麻呂の乱)。
これにより、淳仁天皇は廃され、淡路に流された。
- 宇佐八幡宮神託事件と光仁天皇
-
道鏡は、
やがて西暦765年(天平神護元年)には太政大臣禅師、
翌766年(天平神護2年)には法王となって、
一族や腹心の僧を高官に登用して権勢をふるい、
西大寺の造立や百万塔の造立など、
仏教による政権安定をはかろうとした。
称徳天皇(孝謙上皇が復位)と道鏡は宇佐八幡宮に神託がくだったとして、
道鏡を皇位継承者に擁立しようとしたが、
藤原百川や和気清麻呂に阻まれ、
西暦770年(宝亀元年)の称徳天皇の没後に失脚した(宇佐八幡宮神託事件)。
光仁天皇を擁立した藤原北家の藤原永手や藤原式家の藤原良継・百川らが躍進した。
光仁天皇はこれまでの天武天皇の血統ではなく、
天智天皇の子孫であった。
光仁天皇は、
官人の人員を削減するなど財政緊縮につとめ、
国司や郡司の監督をきびしくして、
地方政治の粛正をはかった。
しかし、西暦780年(宝亀11年)では陸奥国で伊治呰麻呂の反乱がおきるなど、東北地方では蝦夷の抵抗が強まった。
- 長岡京から平安京へ
-
西暦784年(延暦3年)強まってきた寺社勢力からの脱却のため、
桓武天皇が山背国長岡の地に新たな都(長岡京)を造成したが、
工事責任者の藤原種継が暗殺され、
桓武天皇の弟早良親王が捕まる事態となって、
西暦794年(延暦13年)新しい都城を造成し、
山背国を山城国と改め、
新京を平安京と名づけて遷都した。
この遷都をもって、
奈良時代と呼称される時代は完全に終焉を遂げ、
平安時代がはじまる。
天平文化
詳細は「天平文化」を参照
政府は、学生や僧を唐へ留学させ、さまざまな文物を取り入れた。
また、朝鮮半島との交流も盛んであった。
これらの交易物などは、正倉院宝物でも、その一端をうかがい知ることができる。
西暦716年(霊亀2)には阿倍仲麻呂(唐で客死)・吉備真備・僧玄昉ら唐に留学した。
彼らは、当時の列島にさまざまな文化をもちこんだ。
- 『記・紀』・風土記と万葉集の編纂
-
西暦712年(和銅5年)にできたとされる『古事記』は、
宮廷に伝わる「帝紀」「旧辞」をもとに天武天皇が稗田阿礼によみならわせた内容を、
元明天皇の時に太安万侶が筆録したものである。
神話・伝承から推古天皇にいたるまでの物語であり、
多くの歌謡を収載している。
口頭の日本語を漢字の音・訓を用いて表記されている。
それに対し、
西暦714年(和銅7年)に紀清人・三宅藤麻呂に国史を撰集させ、
舎人親王が中心となって神代から持統天皇までの歴史を編集、
西暦720年(養老4年)に撰上されたのが『日本紀(日本書紀)』30巻・系図1巻である。
これは、
中国の歴史書の体裁にならったもので、
漢文の編年体で記されている。
こののち、『日本三代実録』まで漢文正史が編まれて『六国史』と総称されるが、『日本書紀』はその嚆矢となったものである。
また、
政府は西暦713年(和銅3年)には諸国に「風土記」の編纂を命じた。
これは、
郷土の産物や山や川などの自然、
あるいはその由来、
古老の言い伝えなどを収めた地誌である。
『出雲国風土記』がほぼ完全に伝存するほか、
常陸国、播磨国、豊後国、肥前国の風土記のそれぞれ一部が伝えられている。
これは、古代の地方の様相を示す貴重な文献資料になっている。
文芸の面では、
西暦751年(天平勝宝3年)に現存最古の漢詩集『懐風藻』が編集され、
大友皇子、大津皇子、文武天皇、長屋王などの作品を含む7世紀後半以降の漢詩をおさめている。
奈良時代中期を代表する漢詩文の文人としては淡海三船と石上宅嗣が著名であり、
いずれかが『懐風藻』の編集にたずさわったであろうと推定されるが、
確実な証拠はない。
和歌の世界でも、
和銅年間から天平年間にかけて山上憶良、山部赤人、大伴家持、大伴坂上郎女らの歌人があいついであらわれた。
『万葉集』は西暦759年(天平宝字3年)までの歌約4500首を収録した歌集で、
雄略天皇の歌が巻頭をかざっている。
舒明天皇・推古天皇以降の飛鳥時代、
奈良時代の和歌が収められ、
著名な歌人や宮廷人の作品ばかりではなく、
東歌や防人歌など、地方の農民の素朴な感情をあらわした作品も多く収められており、
このなかには心に訴える優れた歌が多くみられる。
漢字の音と訓をたくみに組み合わせて日本語を記す万葉仮名が用いられていることも大きな特徴である。
- 仏教の興隆
-
奈良時代の日本仏教は、
鎮護国家の思想とあいまって国家の保護下に置かれていよいよ発展し、
国を守るための法会や祈祷がさかんにおこなわれた。
政府は平城京内に大寺院をたて、
聖武天皇は、西暦741年(天平13年)に全国に詔して、
国分僧寺や尼寺を全国に建てさせ、
また良弁を開山の師として東大寺の造営をおこない、
西暦743年(天平15年)には、
廬舎那仏金銅像(大仏)の造立を発願し、
国家の安泰を願った。
大仏の造立は、紫香楽京で始まった。
西暦752年(天平勝宝4年)には出家し、
退位した聖武太上天皇・光明皇太后・聖武の娘である孝謙天皇らが、
東大寺に行幸し大仏の開眼供養を行った。
さらに孝謙天皇が重祚した称徳天皇は西大寺を建立した。
僧侶は南都七大寺(大安寺、
薬師寺、
元興寺、興福寺、東大寺、西大寺、
法隆寺)などの寺において仏教の教理を研究。
南都六宗(三論宗、成実宗、法相宗、倶舎宗、華厳宗、律宗)という学派が形成された。
大規模な写経もおこなわれており、
特に光明皇后発願の一切経の写経事業は、
大仏造立や国分寺造営とならぶ大事業であった。
仏教の発展は、
遣唐使にしたがって留学した道慈(三論宗)や玄昉(法相宗)ら学問僧たちの努力によるところが大きいが、
西暦754年(天平勝宝6年)1月に6度目の航海のすえに平城京に到着して、
戒律や多数の経典を伝えた唐出身の鑑真和上、
大仏開眼供養の導師となったインド出身の菩提僊那、
菩提僊那と同時に来日したチャンパ王国(林邑)出身の僧仏哲、
唐僧道璿、
また、多くの新羅僧ら外国出身の僧侶の活動に負うところも大きかった。
朝廷は国教として仏教を保護するいっぽう、
「僧尼令」などの法令によってきびしく統制し、
僧侶になる手続きや資格をさだめて仏教の民間布教に制限を加えた。
行基のように禁令にそむいて民間への布教をおこない、
弾圧されたものの灌漑設備や布施屋の設置、
道路建設などの社会事業に尽力すると、
民衆の支持を集める僧侶もあった。
行基は結局、
その人気に注目した政府によって登用され、
大仏建立に尽力したことで大僧正の僧位を得た。
他に社会事業をおこなった人物としては、
行基の師で宇治橋をつくったといわれる道昭(法相宗の開祖)、
貧窮した民衆を救済するための悲田院・施薬院を設けた光明皇后、多数の孤児を養育した和気広虫などがいる。
対外関係
西暦618年、隋に代わって中国を統一した唐は大帝国を築き、東アジアに広大な領域を支配して周辺諸地域に大きな影響をあたえた。
西アジアや中央アジアなどとの交流も活発であり、首都
長安は国際都市として繁栄した。
玄宗の治世前半は「開元の治」と称された。
周辺諸国も唐と通交して漢字・
儒教・漢訳
仏教などの諸文化を共有して、東アジア文化圏が形成された。
- 東夷の小帝国
-
その中にあって日本の律令国家では、
天皇は中国の皇帝と並ぶものであり、
唐と同様、
日本を中華とする帝国構造を有していた。
それは国家の統治権が及ぶ範囲を「化内」、
それが及ばない外部を「化外」と区別すると、
さらに化外を区分して唐を「隣国」、
朝鮮諸国(この時代には新羅と渤海)を「諸蕃」、
蝦夷・隼人・南島人を「夷狄」と規定する「東夷の小帝国」と呼ぶべきものであった。
律令に規定後、
それを自負したり目指したことと、
とりわけ唐や朝鮮諸国との関係に実態がともなったかどうかは別の問題である。
- 唐
-
西暦630年の犬上御田鍬にはじまる日本からの遣唐使は、
奈良時代にはほぼ20年に1度の頻度で派遣された。
大使をはじめとする遣唐使には、
留学生や学問僧なども加わり、
多いときには約500人におよぶ人びとが4隻の船に乗って渡海した。
日本は唐の冊封は受けなかったものの、
実質的には唐に臣従する朝貢国の扱いであった。
使者は正月の朝賀に参列すると、
皇帝を祝賀した。
当時の造船術や航海術はなお未熟な点も多く、
海上での遭難も少なくなかった。
危険を冒して遣唐使たちは、多くの書籍やあるいはすぐれた織物や銀器・陶器・楽器などを数多く持ち帰り、
また、
唐の先進的な政治制度や国際色豊富な文化を持ち帰り、
当時の日本に多大な影響をあたえた。
中でも知識に対する貪欲さはすさまじく、
皇帝から下賜された品々を売り払って、
その代価ですべて書籍を購入して積み帰ったと唐の正史に記されるほどであった。
文物だけでなく、
知識を身につけた留学生や留学僧も日本に戻って指導的な役割を果たしている。
とくに、帰国した吉備真備や玄昉は、後に聖武天皇に重用され、政治の世界でも活躍した。
- 新羅
-
詳細は「新羅」および「遣新羅使」を参照
「白村江の戦い」ののち朝鮮半島を統一した新羅との間にも多くの使節が往来した。
ところが、
7世紀末から8世紀代の日本は(唐を「隣国」、新羅・渤海を「蕃国」とする)律令体制を築く過程で、
中華意識を高めており、
新羅を「蕃国」として位置づけ、
従属国として扱おうとしたため、
度々衝突が起きた(田村圓澄)。
これにより、
遣唐使のルートも幾度か変更されている。
新羅は、
半島統一を巡って唐と戦争中であり、
背後の日本が唐側に着かないように唐を牽制するため使節を送り続けていた。
唐と交戦している状況であったため8世紀初頭までは日本側の朝貢形式を容認していたが、
渤海の成立後に唐との関係が好転した新羅は、
朝貢してまで日本との関係を維持する必要がなくなったため、
対等外交を主張するようになった。
日本はこれを認めなかった。
両国の関係悪化が具体化すると、
新羅は日本の侵攻に備えて築城(西暦723年、毛伐郡城)する。
日本でも一時軍備強化のため節度使が置かれた。
西暦737年には新羅征討が議論に上った。
この時期に日本では天然痘が大流行しており、
政治の中心人物であった藤原武智麻呂をはじめとする藤原四兄弟、
高位貴族が相次いで没して政治を行える人材が激減、
国内が混乱に陥ったため、
現実のものとはならなかった。
西暦755年、
安史の乱が起こり唐で混乱が生じると、
新羅に脅威を抱く渤海との関係強化を背景に藤原仲麻呂は新羅への征討戦争を準備している(渤海との共同作戦を大前提にしていたが、渤海側に拒否されたため、開戦は延期されつづけ、最終的には仲麻呂の没落によりやはり実現しなかった)。
このように衝突には至らなかったが、
日本側の要求に応じてまで国交を維持する必要のなくなった新羅は使節の派遣を止め、
西暦779年を最後に途絶えることとなった。
上記のような説には異論が出されている。
新羅は日本側の臣称・上表形式の国書を送るようにとの要求に対して、
国交が断絶する最後まで、
新羅王の国書自体を一回も送らなかった。
新羅が唐の圧力を受けている間は、
「新羅の使節」は日本への朝貢形式を容認していたが、
八世紀中葉以降日本の朝貢要求を拒否するようになる。
新羅王が日本に一度も国書を送っておらず、
そもそも新羅が日本の朝貢体制を認めていたか疑問であり、
新羅の使節が現地で誤魔化したのかもしれない(堀敏一)。
また、
川本芳昭は新羅が中国皇帝にしか許されない建元を日本より100年以上早く行うなど、
その中華意識から考えて、
上記のような説には一定の問題があるとしている。
こうした一方で、
新羅は民間交易に力を入れ、
唐よりも日本との交流が質量ともに大きく、
現在の正倉院に所蔵されている唐や南方の宝物には新羅商人が仲介したものが少なくないとされている。
8世紀末になると遣新羅使の正式派遣は途絶えたが、
新羅商人の活動はむしろ活発化している。
- 渤海
-
詳細は「渤海 (国)」、「渤海使」、および「遣渤海使」を参照
西暦713年、
靺鞨族が主体となって旧高句麗人(狛族)と共に中国東北部に建国した渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。
渤海は、
唐・新羅の対抗上西暦727年(神亀4年)に日本に渤海使を派遣して国交を求めた。
唐・新羅に挟まれ、
加えて支配下の黒水靺鞨の反乱など内外の危機的状況から、
「蕃国」高句麗の後継として朝貢形式を求める日本に妥協し、
朝貢使節として扱われることを容認し、
渤海からの国書においても渤海の危機的状況に比例・反比例して日本の中華意識に迎合する文言が増減することになる。
日本側は渤海を「蕃国」高句麗の再来としてその朝貢を歓迎すると共に、
新羅との対抗関係から、
渤海との通交をきわめて重視し、
遣渤海使を派遣した。
日本は新羅同様、
渤海に対しても臣称・上表形式(臣下と称して、君主に文書を奉るという形式)の国書を送ることを求めた。
渤海は新羅と違って国書自体は日本に送ったが、
その形式は「啓」というものであった。
この「啓」は特殊な性質を持っており、
唐六典一左右司郎中員外郎条や司馬氏書儀などの中国の書物によれば官庁の長官に官人が上申する時に用いられる形式だが、
それ以外にも親族間における尊属・長属や婦人の夫に対するもの、
尊属だけでなく卑属の逝去を慰問する時、
吉凶の挨拶や起居を通ずる場合、
忠告・祝賀・謝礼・知人の推薦等、
多岐に渡って用いられた。
本来、
啓とは部下が同一官庁の長官に上申する文書であったが、
司馬氏書儀や文苑英華の実例からみるとそれに限らず、
ひろく対等な一般官人間や私人間(友人間)の文章にも用いられた。
そのため「啓」は「私書」「家書」に分類され、
「公文に施す所に非ず」、即ち、個人的な通信に用いられるもので国家間の公式なやり取りにふさわしくないものとされた。
個人間の通信に用いる「啓」を国家間の公式文書に用いたのは渤海がアジアで初めてである。
啓は国書に用いられる形式ではないが、
個人間の起居を問う書信文であるから、
国書の一般的な目的には合致しており、
本来、上行文書であるから、
相手国に対する丁重な態度を示すことになると考えられ、
このような個人的な通信文を国書に転用したのは渤海の知恵だったと考えられている。
啓はこのように工夫されたものであったが、
あくまで「臣称・上表」形式を求める日本側はこれを度々批判したが、
渤海は一貫して「臣称・上表」形式の国書を送ることはなかった。
結局、日本側も啓を「慣例」として認めることとなった。
例外的に渤海が上表形式の国書を送った記事が『続日本紀』に記載されているが、
記事は宝亀年間にのみ集中しており、
渤海からの啓を上表と見做したのではないかと考えられている。
唐との関係が改善されると、
渤海使の軍事的役割は低下し交易の比重が重くなり、
来日の頻度も増えていった。
平安時代初期には完全に変質したものとなり、
西暦824年には右大臣藤原緒嗣が「渤海使は商人であるので、今後は外交使節として扱わないように」と言うほどのものとなった。
一方、
日本から渤海に送られた国書は天皇からの慰労詔書形式であるが、
その書き出しは一貫して「天皇敬問渤海国王」あるいは「天皇敬問渤海郡王」であった(これは新羅に対しても同様である)。
この書式は中国に倣ったもので、
中国では対等国ないし特別に尊重すべき相手国に出す書式であった。
日本として渤海や新羅を臣属国としようとしたのは、
あくまで日本側の考えであって、
日本の思惑通りにはいかなかった(因みに国家間の臣属関係は官職の授与による「冊封」を通じて初めて成立するもので、日本と新羅・渤海間に冊封関係は成立しなかった)。
そのような関係がおのずから丁重な形式の採用になった。
- 隼人と南島
-
詳細は「隼人」を参照
九州南部は、
古墳時代に地下式横穴墓・板石積石棺墓(地下式板石積石室墓)・土壙墓などの独特な墓制が出現した地域であり、
この地域の人々は古くは熊襲、
7世紀後半ごろからは隼人と呼ばれるようになる。
5世紀末ごろから徐々に大和政権の影響が浸透していたが、
大宝律令が施行された時点でも依然として律令制的支配の及ばない地域だった。
西暦699年に三野城・稲積城が築かれ、
律令国家は軍事力を背景とした支配を進めはじめる。
西暦709年には隼人の朝貢制度が始まり、
朝廷において蝦夷とともに異民族たる「夷狄」が服属していることを示す。
国家の儀礼において重要な役割を与えられた。
しかし支配への抵抗も強く、
特に西暦720年には7年前に新設された大隅国の国守陽侯史麻呂が殺害される事件が起こった。
これに対して律令政府は大伴旅人を大将軍として大規模な軍を派遣後、
翌年までかかって鎮圧した(隼人の反乱)。
その結果西暦722年にははじめて造籍が行われ、
以後隼人の組織的な抵抗はなくなった。
ただ奈良時代における隼人はあくまで朝貢の対象であり、
大隅・薩摩の両国に班田が行われるのは、
平安時代に入った西暦800年(延暦19年)のことである。
一方今の南西諸島からは、
すでに7世紀の前半から使者が大和政権に「朝貢」するようになっていたが、
西暦698年には覓国使が南島に派遣され、
翌年多褹(種子島)、夜久(屋久島)、菴美(奄美大島)、度感(徳之島)が朝貢に訪れ、
西暦702年には行政組織としての多禰島が設置された。
南島からは工芸品の材料となる夜光貝や赤木といった特産物がもたらされ、
また南島へは鉄器がもたらされた。
大宰府跡からは「掩美嶋」(奄美大島)・「伊藍嶋」(沖永良部島か)と書かれた木簡が出土しており、
また奄美大島奄美市の小湊・フワガネク遺跡から夜光貝による貝匙製作跡が見つかっている。
9世紀になると「国なくして敵なく、損ありて益なし」といわれたように律令国家の関心は薄くなっていった。
西暦713年、
靺鞨族が主体となって旧高句麗人(狛族)と共に中国東北部に建国した渤海とは緊密な使節の往来がおこなわれた。
渤海は、
唐・新羅の対抗上西暦727年(神亀4年)に日本に渤海使を派遣して国交を求めた。
唐・新羅に挟まれ、
加えて支配下の黒水靺鞨の反乱など内外の危機的状況から、
「蕃国」高句麗の後継として朝貢形式を求める日本に妥協し、
朝貢使節として扱われることを容認し、
渤海からの国書においても渤海の危機的状況に比例・反比例して日本の中華意識に迎合する文言が増減することになる。
日本側は渤海を「蕃国」高句麗の再来としてその朝貢を歓迎すると共に、
新羅との対抗関係から、
渤海との通交をきわめて重視し、
遣渤海使を派遣した。
日本は新羅同様、
渤海に対しても臣称・上表形式(臣下と称して、君主に文書を奉るという形式)の国書を送ることを求めた。
渤海は新羅と違って国書自体は日本に送ったが、
その形式は「啓」というものであった。
この「啓」は特殊な性質を持っており、
唐六典一左右司郎中員外郎条や司馬氏書儀などの中国の書物によれば官庁の長官に官人が上申する時に用いられる形式だが、
それ以外にも親族間における尊属・長属や婦人の夫に対するもの、
尊属だけでなく卑属の逝去を慰問する時、
吉凶の挨拶や起居を通ずる場合、
忠告・祝賀・謝礼・知人の推薦等、多岐に渡って用いられた。
本来、
啓とは部下が同一官庁の長官に上申する文書であったが、
司馬氏書儀や文苑英華の実例からみるとそれに限らず、
ひろく対等な一般官人間や私人間(友人間)の文章にも用いられた。
そのため「啓」は「私書」「家書」に分類され、
「公文に施す所に非ず」、即ち、個人的な通信に用いられるもので国家間の公式なやり取りにふさわしくないものとされた。
個人間の通信に用いる「啓」を国家間の公式文書に用いたのは渤海がアジアで初めてである。
啓は国書に用いられる形式ではないが、
個人間の起居を問う書信文であるから、
国書の一般的な目的には合致しており、本来、上行文書であるから、
相手国に対する丁重な態度を示すことになると考えられ、
このような個人的な通信文を国書に転用したのは渤海の知恵だったと考えられている。
啓はこのように工夫されたものであったが、
あくまで「臣称・上表」形式を求める日本側はこれを度々批判したが、
渤海は一貫して「臣称・上表」形式の国書を送ることはなかった。
結局、日本側も啓を「慣例」として認めることとなった。
例外的に渤海が上表形式の国書を送った記事が『続日本紀』に記載されているが、
記事は宝亀年間にのみ集中しており、
渤海からの啓を上表と見做したのではないかと考えられている。
唐との関係が改善されると、
渤海使の軍事的役割は低下し交易の比重が重くなり、
来日の頻度も増えていった。
平安時代初期には完全に変質したものとなり、
西暦824年には右大臣藤原緒嗣が「渤海使は商人であるので、
今後は外交使節として扱わないように」と言うほどのものとなった。
一方、
日本から渤海に送られた国書は天皇からの慰労詔書形式であるが、
その書き出しは一貫して「天皇敬問渤海国王」あるいは「天皇敬問渤海郡王」であった(これは新羅に対しても同様である)。
この書式は中国に倣ったもので、
中国では対等国ないし特別に尊重すべき相手国に出す書式であった。
日本として渤海や新羅を臣属国としようとしたのは、
あくまで日本側の考えであって、
日本の思惑通りにはいかなかった(因みに国家間の臣属関係は官職の授与による「冊封」を通じて初めて成立するもので、日本と新羅・渤海間に冊封関係は成立しなかった)。
そのような関係がおのずから丁重な形式の採用になった。
- 蝦夷
-
詳細は「蝦夷」を参照
歴史上、
蝦夷と呼ばれる人々がどのような人々であったのかはいまだにさまざまな論があるが、
何であれ中華思想に基づいた律令国家にとっては、
自らの支配下の外側にある人々という概念」でしかなかった。
7世紀半ばに阿倍比羅夫らが遠征。
現在の秋田や津軽地方、
さらにその北方に至ったとされるが、
8世紀初頭に律令国家に安定的に組み込まれていたのは、
今の山形県庄内地方や宮城県中部以南までであった。
当時は城や柵(城柵官衙と呼ばれる施設)が作られ、
その周囲に柵戸(きのへ)と呼ばれる民が関東や北陸地方から移民させられて耕作に当たっていた。
郡山遺跡(宮城県仙台市)は当時の中心的な官衙であったとみられている。
平城遷都の前後から政府は急速な拡大政策をとる。
西暦708年には越後国に出羽郡をおき、
西暦712年には出羽国とした。
また東海・東山道諸国の民を城柵に移す。
農耕や防衛に当たらせた。
これに対して蝦夷は西暦709年および西暦720年に反乱を起こすと、
西暦720年の時には陸奥按察使上毛野広人が殺害される事態となった。
政府は大軍を発してこれを鎮圧、新たに郡と柵、さらにこれらを統括する施設として多賀城を建設した。
一方日本海側では西暦733年に出羽柵が現在の秋田市に移設された(後の秋田城)。
その後政府は蝦夷の首長を郡司に任命して部族集団の間接的な支配を行い、
また個別に服属してきた者は俘囚として諸国に移民させられたりした。
こうして東北地方南部は徐々に律令制の内部に組み込まれていくが、
東北地方北部以北は依然として律令国家の支配外であった。
しかし文化・経済の交流は続き、
擦文文化には出羽地方の古墳の影響を受けた末期古墳が築造され、
また恵庭市では和同開珎も出土している。
藤原仲麻呂政権は対蝦夷政策も積極的に行った。
西暦757年(天平宝字元年)に仲麻呂の子朝狩が陸奥守となり、
新たに勢力外だった土地に桃生城および雄勝城を建設した。
また西暦762年多賀城を改修し、
蝦夷への饗給(きょうごう)を行うにふさわしい壮大な施設へと変えた。
西暦774年(宝亀5年)には桃生城が蝦夷に攻撃されて放棄され、
西暦780年(宝亀11年)には伊治呰麻呂が陸奥按察使紀広純を殺害し多賀城を焼き払うという事態に至り、
これ以降三十八年戦争といわれる果てしない戦いへと突入する。
戦いは奈良時代の間には決着がつかず、
坂上田村麻呂の登場によりようやく終息する。
後に藤原緒嗣により「今天下の苦しむところは軍事と造作なり」と指弾されることとなる対蝦夷戦争は、
「天皇の政治的権威の強化に大きな役割を担っていた」のである。
出来事
出