明治維新の直前の領域は、 岡山県井原市、総社市、高梁市、新見市、浅口市、都窪郡(早島町)、浅口郡(里庄町)、小田郡(矢掛町)の全域および岡山市の一部(北区のうち概ね納所、川入、東花尻、西花尻、平野、延友より南西および真星、上高田、山上、石妻、杉谷、日近、足守、下足守、高松稲荷、平山、立田、加茂より南西、南区大福・古新田・妹尾崎・山田・妹尾・箕島)、 倉敷市の大部分(水島福崎町、水島東千鳥町、水島東常盤町、水島東栄町、水島東弥生町、水島東寿町、水島相生町、福田町浦田、浦田、黒石、粒浦、有城、藤戸町天城、藤戸町藤戸より南東を除く)、 笠岡市の大部分(用之江の一部を除く)、 真庭市の一部(阿口、五名、山田、宮地以南)、 加賀郡吉備中央町の一部(豊野、田土、湯山、吉川、上野、竹部以西)にあたる。
北長瀬駅と庭瀬駅の間に、備前・備中の国境線が引かれていた。
7世紀後半に、
吉備国を備前国、備中国、備後国に三分して設けられた。
はじめのうち、吉備道に属する一国とされたらしく、
吉備道中国(きびのみちのなかつくに)と書いた木簡が見つかっている。
また平安時代の『和名類聚抄』でも、
備中国の和訓を「きびのみちのなかつくに」としている。
古代から開発が進んだ先進地帯で、鉄産地でもあった。
造山古墳と作山古墳があることなどから、吉備の最有力豪族の拠点だったと推定される。
その後も瀬戸内海に面した交通の要を占め、
天智天皇の時代に鬼ノ城が築かれた。
律令制では上国とされた。
管下に都宇、窪屋、浅口、小田、後月、下道、賀夜、英賀、哲多の9郡がおかれた。
後に鎌倉時代のころ、
賀陽郡の一部を割いて上房郡、
下道郡の一部を割いて川上郡が置かれ11郡となった。
備中国には山陽道の駅家は、津峴(つさか)、河辺(かわのべ)、小田、後月(しつき)の4駅が置かれた。『延喜式(兵部)』。
平安時代末には、
妹尾兼康という武士が出、十二か郷用水を開いて村々を潤した。
兼康は中央の政治では平家に忠実な家人として活躍し、
最後は備中国板倉で源義仲に敗れて死んだ。
室町時代、
備中国は細川氏が代々守護であったが、
その影響力は早くから絶対的とは言い難く、
守護代、庄氏・石川氏・上野氏や三村氏を初めとする有力地頭など国人衆の独立性が強かった。
戦国時代中期には、尼子氏・大内氏の係争地となっていたが、
西暦1560年頃には毛利氏と同盟した三村氏(備中松山城を本拠とした)が備中国の支配をほぼ手中にした。
しかし、その三村氏も西暦1575年に織田信長の誘いを受けて毛利氏と対立するに至り、
毛利氏によって滅ぼされた(備中兵乱)。
さらに羽柴秀吉を先鋒に織田信長が進出してくると、
備中国高松城が織田・毛利両軍の対峙の場になった。
織田信長の死による講和で、毛利輝元は備中の三郡を譲り、
残りを保持することになった。
江戸時代の備中国は、
数多い知行地に分割領有された。
西暦1617年(元和3年)まで、
幕府は備中国奉行を派遣して広域統治にあたらせた。
その後の江戸時代初期には、
隣接の備後福山藩水野氏の領として現在の笠岡市や井原市の大半が領地であったりし、
他の備中国の小藩には、
備中松山藩(池田氏、水谷氏を経て板倉氏)、成羽藩(山崎氏)、岡田藩(伊東氏)、足守藩(木下氏)、庭瀬藩(戸川氏、後に板倉氏)、浅尾藩(蒔田氏)があった。
以上は断絶や転封で様々に変遷した。
現在の高梁市にある松山城が備中国唯一の城で、残りは陣屋を構えた。
松山城下は江戸時代はじめに備中国で最大の人口を抱えた。
倉敷は、城下町ではなかったが、
徳川氏政権の直轄地として代官所が置かれ、
幕府によって備前国から讃岐国に移管された小豆島なども統治した。
江戸時代を通じて発展を続けた倉敷は、
松山と肩を並べ、
やがてこれを凌駕して備中最大の都市となって現在に至る。
現在の倉敷市西部にあたる玉島は、
瀬戸内海の流通と結びついた備中松山藩の海港として栄えた。
備中では綿作が広まり、江戸時代後期になるとその加工も盛んになった。
また、製鉄もなお重要であり続けた。
幕府調査による人口は、西暦1822年(文政5年)が33万7155人であった。
明治政府の西暦1872年(明治5年)の調査による人口は、39万6880人であった。