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志摩国(しまのくに)

作成日:2023/3/18

志摩国(しまのくに)/ 志州(ししゅう)。かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

東海道の一国。 国力区分は下国、 遠近区分は近国。 現在の三重県東部(志摩半島東端)。

明治維新直前の領域は、 現在の三重県鳥羽市の全域と志摩市の大部分(磯部町山原・磯部町栗木広・磯部町桧山を除く)に相当する。

赤:志摩国 緑:東海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
沿革

当初は桃色の地域も志摩国に含まれていた。

律令制以前は成務朝に設置された島津国造の領域であったとされ、令制国設置に伴い当国域をも含む伊勢国が成立した。その後7世紀後半から8世紀初めに志摩国として分立したとされるが、伊勢国の隷属下に置かれたという。8世紀初めまで、嶋国、志麻国とも書かれた[2]。

飛鳥・奈良時代には、代々内膳司を勤めていた高橋氏などが国司であったが、志摩に赴くことはなかったという。志摩国は面積が小さい上に平地がほとんどないことから稲米の収穫量が少なかったため、伊勢国や尾張国の田を志摩国の口分田とし、国衙や国分寺の費用を伊勢国・尾張国・三河国が負担した。海産物を贄として、宮中へ貢ぐ御食国の一つと推定される。

平城京発掘で出土した木簡に伊雑郷・名錐郷・船越郷などの表記が見られ、これらの地域から海産物を貢租していたことは確実である。船越郷は、現在の度会郡南伊勢町船越と解釈するのが一般的であるが、名錐郷に隣接する船越とする説もある。

当初の志摩国の領域は、現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけではなく、度会郡南伊勢町、大紀町の錦地区、北牟婁郡紀北町、尾鷲市全域までが志摩国英虞郡に含まれていた。

天正10年(1582年)、紀伊新宮城主の堀内氏善と伊勢国司の北畠信雄が荷坂峠を境として、それぞれが紀伊国牟婁郡と伊勢国度会郡に編入したため、志摩国は現在の三重県の鳥羽市・志摩市だけの地域に限定された。

また古代には三河湾の篠島、日間賀島、佐久島も志摩国答志郡に属していたが室町時代に吉良氏の勢力下に入り、三河国幡豆郡に取り込まれたという説がある。その後、篠島と日間賀島は尾張藩領となり尾張国知多郡に属した。