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日向国(ひむかのくに、ひゅうがのくに)

作成日:2023/3/19

日向国(ひむかのくに、ひゅうがのくに)/ 日州(にっしゅう)、 向州(こうしゅう)。かつて日本の地方行政区分だった令制国の一つ。

西海道の一国。 国力区分は中国、 遠近区分は遠国。 現在の宮崎県。

「日向」の由来

したがって、 日向国は古くは「ひむかのくに」であったところ、 国造制度で新たな日向国ができ、 律令制からのちは「ひゅうがのくに」と呼ばれたと考えることもできるが、 「譬武伽」を日向国とするには検討が必要という指摘もある。

赤:日向国 緑:西海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)

歴史

弥生時代まで

日向地域では旧石器時代の遺跡も発見されており[9]、縄文時代については、塚原遺跡で辰砂を使った赤彩土器が出土している[10]。

弥生時代の日向地域は、青銅器の欠如と、抉り入り方形石包丁の存在という特色がある一方[11]、渡来鉄器や中九州地方の鉄器が出土している[12]。

この時代の日向については『古事記』、『日本書紀』に多く現れるが[13]、 天照大御神と素戔男尊の孫にあたる瓊瓊杵尊が高千穂の峰に降臨したという天孫降臨の逸話、 また、その弟の饒速日命天照大御神から十種の神宝を授かり天磐船で近畿地方に天降って稲作を伝えた逸話、 瓊瓊杵尊の息子の彦火火出見尊(山幸彦)が兄の彦火火出見尊(海幸彦)を懲らしめ、 隼人が天皇に仕える理由は海山彦の子孫であるためとする山幸彦と海幸彦の逸話、 また、山幸彦と豊玉姫の息子の鸕鶿草葺不合尊と玉依姫が、 初代天皇神武天皇の父母である旨、 また、神武天皇が日向から出立し、 筑紫国の菟狭国造である菟狭津彦(宇佐氏の祖)が特別に造営した宮などに滞在してから東征した神武東征の逸話がある。 祖母山を祀るなどの山岳信仰もあった。

古墳時代

古墳時代になると大陸の部民制の影響も強まり、技術も発達して、今井野遺跡(延岡市)では鉄器製造の鍛冶工房跡が発見されている[12]。

4世紀以降は新田原・茶臼原・西都原・本庄・六野原・生目といった畿内型古墳群が展開した[14]。

また日本書紀神功皇后紀では、現在は住吉三神となっている底筒男(そこつつのお)・中筒男(なかつつのお)・表筒男(うわつつのお)の3神が、日向国の橘小戸郷に在するとされている。

熊曽討伐

『古事記』では、第12代景行天皇の息子の小碓命が命により熊曽討伐をした征西説話が記述されている。この中で小碓命が熊曽建を討ち、以後「倭建命」を名乗ったとしている。一方、『日本書紀』では景行天皇自らが熊襲の平定に赴いており、高屋宮を拠点として襲国を平定しており、のちに再び熊襲が反乱を起こした際、天皇の息子の日本童男が川上梟帥を討ち「日本武尊」を名乗った。

また、『日本書紀』や「天皇本紀」(『先代旧事本紀』第7巻)は、こののちに景行天皇の息子の豊国別皇子が日向国造となった旨を記しているが、「国造本紀」(『先代旧事本紀』第10巻)は豊国別皇子の三世孫・老男が第15代の応神天皇期に日向国造に任じられたと記している。

歴史学界のうち、考古学界の大勢では実在天皇の可能性は応神天皇以降にあるとされており[2]、以上はむしろ応神・仁徳の記述の伏線であるという説もある[13]。

飛鳥・奈良・平安時代

古墳群の存在は、その首長と近畿地方の政治勢力とが政治的関係にあったことを示しており[2]、記紀の第15代応神天皇・第16代仁徳天皇の記述には諸県君を巡る説話があるが、記紀の日向神話はこうした政治関係を背景として成立したものであり、5世紀代に豪族が出仕したものとする推測もある[15]。

一方、7世紀初頭には藤原京で冠位十二階などの制度改革があったところ、6世紀から7世紀中期にかけての日向国については、第33代の推古天皇期の「馬ならば日向の駒」という記載程度しかなく、中央と日向との関係の実態は明らかでない[15]。

また、7世紀後半から8世紀前半の南九州の隼人とのあいだの政治情勢との関係も指摘されている[13]。隼人は壬申の乱により天皇となった第40代の天武天皇(在位673年-686年)からのち、記紀が編纂される7世紀末から8世紀前期に4回の反乱を起こしているので[13]、天皇による南九州の統治を正当化し、隼人が服属すべき理由を過去にさかのぼって説明したものと考える説もある[16]。

日向国は続日本紀の文武天皇2年(698年)9月28日条にも現れるが、 この日向国の成立時期は明らかでなく、 7世紀末からの律令制成立に伴い改めて7世紀中期以降に設けられたと見られている。 当初は薩摩国・大隅国を含む領域を有しており、 7世紀末の段階では日向国は対隼人の最前線に位置づけられていた。 大宝2年 (702年) に唱更国(後の薩摩国)、 和銅6年 (713年)に大隅国が分立した。

令制では大上中下のうちの中国とされ、中央から守、介、掾、目の四等官とそれを補佐する史生が派遣された。中国では通常欠員とされる介が正式におかれ四等官がそろっている。なお、史書に残るものは左遷人事が多い。遠国であったため、掾以下の人事や四度使の監査など、大宰府の強い管理下に置かれた。

8世紀前半には『日向国風土記』が編纂されているが、これは当時の西海道節度使だった藤原宇合が九州の各地域の風土記として豊後国風土記などとともに完成させたものであるという説がある。

弘仁6年(815年)には軍団1団500人の兵士を持っていた。この年以前には軍毅1人が指揮したが、以降は補佐に1人を加えて大毅1人、少毅1人になった。

鎌倉時代

1185年(文治元年)惟宗忠久が、主筋である近衛家の島津荘(南九州にあった大荘園)の下司職に補任され、地頭職も兼任した。その地名から島津(嶋津)左衛門尉と称した。忠久は1197年(建久8年)に薩摩・大隅にあわせ日向の初代守護職に任じられた。しかし、忠久が、1203年(建仁2年)、比企能員の変に連座し、三州守護職と薩摩国を除く地頭職を剥奪されると、日向国守護職及び日向島津荘の地頭職は、赤橋流北条氏に伝えられることとなった。

日向国北部一帯を有した宇佐神宮の宇佐宮荘においては、東部の縣(読み:あがた、現在の延岡市周辺。市内には安賀多の地名が残っている)一帯を土持氏が、西部山間部(現在の高千穂町周辺)を大神氏の流れをくむ三田井氏が地頭として勢力を有していたが、鎌倉御家人の伊東氏が地頭職を得、既存在地勢力と対立しつつ、支配を定着させていった。

室町時代

南北朝時代においては、北朝方より南九州の大将として畠山直顕が日向国に派遣され、南朝方の勢力と対立したが、島津氏など在地勢力は北朝と南朝との間を転々することにより、畠山直顕の支配に抵抗した。直顕は観応の擾乱において足利直義に味方し、足利尊氏方に味方した島津氏と争い敗れた。その後も九州探題が南九州に影響を伸ばそうとするも失敗し、やがて日向国の守護職は島津氏が世襲するようになる。ただし、全国の例に違わず、日向国も群雄割拠の状況となり、南北朝から室町時代中期にかけては、北部は土持氏、中央部は伊東氏、南西部は北原氏、南東部は豊州島津氏、北郷氏、新納氏といった島津一族を中心として、各地の国人領主を吸収しながらの勢力争いが展開された。

そのうち、土持氏が伊東氏に攻められ勢力を縮小、伊東氏に糾合されたり豊後の大友氏に臣従するようになる。戦国時代になると、新納氏が薩州島津氏により領地を追われ、北原氏は姻戚関係にあった伊東義祐により、禅宗と真宗で家中が二分している中での家督問題に附け込まれて、大隅国にまで拡がっていた全領地を乗っ取られる。更に義祐により豊州島津氏が飫肥から追い出されたため、伊東氏が日向国の主要部分を支配するに至ったが、1572年の木崎原の戦いにより伊東氏の主要な臣下が多数失われ、また義祐の奢侈により領内に隙が生じており、そこを突くように薩摩・大隅の統一を果たした島津氏が北上してきた。滅亡の危機に立った義祐は豊後の大友義鎮を頼ったが、島津氏が1578年の耳川の戦いにおいて大友氏に大勝し、日向国一円を支配することとなった。しかし、1587年秀吉の九州征伐を受け、島津氏が降伏すると、日向国は功のあった大名に分知された

江戸時代

日向国に大きな大名は置かれず、天領と小藩に分割された。延岡藩、高鍋藩、佐土原藩(薩摩藩支藩)、飫肥藩。この他、隣の大隅国から大きくはみ出るように薩摩藩が南部の大部分を占める諸県郡を領有し、肥後国の人吉藩も領地を持った。