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肥前国(ひぜんのくに)
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作成日:2023/3/18
肥前国(ひぜんのくに)/ 肥州(ひしゅう)。かつて日本の地方行政区分だった
令制国
の一つ。
西海道
の一国。 国力区分は
上国
、 遠近区分は
遠国
。 現在の佐賀県、長崎県(対馬市・壱岐市除く)。
別称「肥州」は、肥後国とあわせて、または単独での呼称。
赤:肥前国 緑:西海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
沿革
火国(ひのくに)、 後の肥国(ひのくに)の分割によって
7世紀末
までに成立した。
肥後国
が『
続日本紀
』に初めて見える
西暦696年
(
持統天皇
10年)までのどの時点かに、 肥前国(ひのみちのくち)と肥後国(ひのみちのしり)との分割があったと推定される。 以後、
奈良
・
平安時代
は肥前国と呼ばれた。
平安時代
の班田制による生産量から、佐賀県部分で7万人以上いたと推定される。
『肥前国風土記』によると、 見通しの良い山丘に外敵の来襲を通報するための「
烽
」が計20か所、 高来郡(長崎県)5つ、 藤津郡(太良町大浦)1つ、 小城郡(多久市と江北町の間の両子山)1つ、 神埼郡(日の隈山)1つ、 養父郡(鳥栖市朝日山)1つなど設けられ、 城が基肄城(三養基郡基山町基山)に1か所設けられた。
「
白村江の戦い
」で
新羅
と唐の連合軍に大打撃を被り、 わが国と
百済
との連合軍は陸戦でも惨敗を喫した。
百済
が完全に滅び
新羅
と唐の来襲の危機に直面し、 翌
664年
に
防人
と「
烽
」を
対馬
と
壱岐
に置き、
筑前
に水城を築き、
西暦665年
に
筑前
に大野城、 肥前に基肄城と南北相対して
大宰府
都城防衛のため古代山城が築かれた。
肥前国の官道西海道は、
大宰府
から基肄駅(基山町木山口)- 切山駅(中原町)- 佐嘉駅(肥前国府付近・大和町尼寺)- 高来駅(多久市)へ至り、 杵島郡と松浦郡への二つに分かれていた。 肥前国には鹿嶋馬牧(鹿島市)・庇羅馬牧(平戸島)・生属馬牧(生月島)・柏島馬牧(唐津市神集島)・極(=扌遷)野牧(島原半島)・早崎牛牧(島原半島南端)の六ケ所の
官牧
があり、 西海道の諸国は駅馬・兵馬、牛は運搬として
大宰府
へ送っていた。
『肥前国風土記』は、全国で5つだけの、ほぼ完全な形で残る風土記の1つである。
中世には鎌倉幕府鎮西奉行の少弐氏と室町幕府九州探題の少弐氏が争う。 両氏とも本来は
筑前国
にあった
大宰府
を拠点としてきたが、 大内氏や大友氏の侵入によって肥前に没落した存在であった。 この他にも千葉氏・松浦氏・大村氏・有馬氏などの中小の武士が割拠しており、 龍造寺氏が戦国大名化するまで、 国内の大半を支配する有力武家は現れなかった。
戦国時代
にポルトガル、スペインの宣教師が相次いで来訪してからは、 西洋の窓口となり、天正少年使節団を出すなどした。