五畿七道
作成日:2023/3/12
五畿七道
五畿七道(ごきしちどう)とは、
古代日本の
律令制における、
広域地方行政区画である。
畿内七道(きないしちどう)とも呼ばれた。
西暦1869年(明治2年)、北海道が新設されてからは五畿八道と呼ばれる。
現在の日本各地の地方名の多く(東海、東山、北陸、山陽、山陰、北海道など)は、
五畿七道、八道に由来している。
七道
北海道
(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
畿内
東海道
東山道
北陸道
山陰道
山陽道
南海道
西海道
東海道
東海道(とうかいどう、うみつみち)は、
五畿七道の一つ。本州太平洋側の中部の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から近世)を指す。
行政区分の東海道は、
から東に伸びる、
本州太平洋側の中部を指したもの。
これは、現在の三重県から茨城県に至る太平洋沿岸の地方に相当する。
当初、
武蔵国は
東山道に属しており、
西暦771年に加わったものである。
赤い部分が東海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
東山道
東山道(とうさんどう/とうせんどう)は、
五畿七道の一つ。
本州内陸部を
近江国から
陸奥国に貫く行政区分、
および同所を通る古代から中世にかけての幹線道路を指す。
奈良時代に
平城京の一部、
西大寺の敷地であった場所から発掘された木簡に「東巽道」と書かれており、
巽を撰の略字とみなして東山道=東撰道であったとして、
「とうせんどう」が正しい読みであるとする説がある。
往時の読み方については、
他にも「ひがしやまみち」「ひがしのやまみち」「ひがしやまのみち」「ひがしのやまのみち」そして「やまのみち」など諸説ある。
山道(せんどう)と略されることもあった。
現代ではあまり使われないが、東山道の貫く国や地域を東山地域とよぶことがある。関東地方と山梨県と長野県をあわせて「関東・東山」などのように使う。
黄色い部分が東山道。赤い線は概略の経路。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
北陸道
北陸道(ほくりくどう、ほくろくどう、くぬがのみち)は、
五畿七道の一つで、本州の日本海側の中部の行政区分であった。
また、古代から近世にかけて、同所を通る幹線道路を指す名称であった。
旧国名で言うところの、若狭、越前、加賀、能登、越中、越後および佐渡を指す。
「北陸道」の古訓は「クヌカノミチ」で「陸の道」の意である(『
延喜式』の民部省関連部分)。
同じ日本海側の山陰道と地域間交流をしており、
遺跡や遺物にその痕跡が残っている。
畿内から北に伸びて、本州の日本海側の北東部をまとめた行政区画であった。
赤い部分が北陸道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
山陽道
山陽道(さんようどう、かげとものみち)または西道(西道)は、
五畿七道の一つである。
本州西部の瀬戸内海側の行政区分、
および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
行政区分としては、影面道、光面道(かげとものみち)、
または中国(ちゅうごく)とも称された。
街道においては
江戸時代を中心に、
西国街道(さいごくかいどう、さいこくかいどう、せいごくかいどう、せいこくかいどう)、
西国道(さいごくどう、さいこくどう、せいごくどう、せいこくどう)、
西国路(さいごくじ、さいこくじ、せいごくじ、せいこくじ)、
中国街道(ちゅうごくかいどう)、
中国路(ちゅうごくじ)、
山陽路(さんようじ)、
などとも呼ばれた。
赤い部分が山陽道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
山陰道
山陰道(さんいんどう、せんいんどう、そとものみち)は、
五畿七道の一つ。
本州日本海側の西部の行政区分、
および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
背面道(そとものみち)とも呼ばれた。
畿内の西に伸びており、現在の北近畿から島根県までに相当する。
赤い部分が山陰道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
南海道
南海道(なんかいどう、みなみのみち)は、
五畿七道の一つ。
紀伊半島、淡路島、四国ならびにこれらの周辺諸島の行政区分、
および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
赤い部分が南海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
西海道
西海道
西海道(さいかいどう、にしのみち)は、
五畿七道の一つ。
九州とその周辺の島々の行政区分、および同所を通る幹線道路(古代から中世)を指す。
赤い部分が西海道。(Wikipediaのsvgファイルへリンク)
7世紀末、国境調査事業が成された時期(
西暦690年頃)に、
それまで
筑紫・肥・豊と呼ばれていた地域の前・後の分割が確定し、
筑前国・
筑後国・
肥前国・
肥後国・
豊前国・
豊後国の北部九州六国が誕生した。
残る南九州は、
西暦702年(
大宝2年)に薩麻(
薩摩)国が成立し、
そして
西暦713年(
和銅6年)に
日向国から
大隅国が分立した。
これで九州島内に九国が成立した。
そのころ壹伎・対馬・多褹の三島が、国に並ぶ一つの行政単位として位置づけられた。
これらの島々には現地採用の郡司の上に中央派遣の島司を派遣して辺要地の監視に充てた。
こうして、
九州島と三島は、
太宰府が中央政府との間に位置して全体を管轄する一つの行政管区(西海道)となった。
さらに
西暦824年(
天長元年)に多褹島を廃止して大隅国に併合し、
また
西暦876年(
貞観18年)には五島列島と平戸島地域を値嘉島(ちかのしま)という行政区画として島司を置いた。
基本的には
奈良時代・
平安時代を通じて存続した。
これらの国・島には国府や島府が設置された。