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筑紫国(つくしのくに)

作成日:2023/3/19

筑紫国(つくしのくに)。  日本の古代の国。

現在の福岡県のうち東部(豊国の地域)を除いた範囲にあたる。
西暦645年大化の改新律令制により、 筑前国筑後国(令制国)に分割された。

古事記(国産み神話)』においては、 隠岐の次、 壱岐の前に筑紫島(九州)を生んだとされ、 さらにその四面のひとつとして、 別名を「白日別(シラヒワケ)」といったとされる。
一方、 『日本書紀』では、 八島の一つとして九州全体が筑紫洲と表記され、 その中に筑紫国、火国、豊国、日向国が現われるが、 『古事記』の四面にあたるものは現われない。

歴史

弥生時代後期

3世紀に編纂された魏志倭人伝によれば、筑紫島の玄界灘側には、伊都国(いとこく)、奴国(なこく)などの国があり、伊都国には一大率などの検問機関がおかれ、邪馬台国の国と帯方郡のあいだの貿易港として栄えていた。 248年に邪馬台国の卑弥呼が没したが、その後、帯方郡の武官長政が266年まで滞在していた。朝鮮半島では高句麗の南下により、313年、魏が支配していた楽浪郡が滅び、邪馬台国の貿易相手だった帯方郡も衰退していき、5世紀には漢人の都市は、百済次いで高句麗の支配下に置かれていた。

古墳時代

『先代旧事本紀』「国造本紀」には成務天皇の御代に筑紫国造が設置されたと見え、 『日本書紀』には怡土県主や水沼県主、岡県主などの存在が確認できる。 4世紀前半には筑紫国造に関連する八女古墳群などが築造されはじめ、 7世紀前半まで古墳文化が続くこととなる。 部民制や品部の制度のもと、 古墳を築造する土師部などの職業の世襲制の定着が顕著になった。

『日本書紀』によれば筑紫国には豪族の菟狭津彦がおり[注釈 2]、 神武東征の逸話では、 日向国から出立した神武天皇のために一柱騰宮(あしひとつ あがりのみや)を造営して饗応したとされる[注釈 3]。

また『日本書紀』によれば、 第8代孝元天皇の皇子に大彦命四道将軍の一人)がおり、 先述の「国造本紀」によれば、大彦命の後裔である田道命(日道命)が初代筑紫国造となったとされる(古代日本の地方官制)。

第14代仲哀天皇の御代には、 筑紫橿日宮にいた神功皇后による馬韓・弁韓・辰韓(それぞれのちの百済任那と加羅、新羅の地域)への三韓征伐について逸文がある。 この直前に皇后が武内宿祢を召して那珂郡に作った裂田の溝(うなで、神田の設備)は、 日本最古の用水路であり現在も利用されている。

第15代応神天皇の御代には、 秦の始皇帝の五世の孫であり、 半島に移り住んだ秦人の集団の首領である弓月君が百済から日本に到り、 その族人が帰化したとされる。

527年(第26代継体天皇即位21年)、 新羅阻止のために朝鮮半島に出兵する近江毛野と、 新羅と通じていたとされる筑紫国造の豪族筑紫君磐井とのあいだで「磐井の乱」が起きた。 また、531年に北魏から善正上人が渡来して霊泉寺を創設して修験道を作った。

令制以後

663年、 白村江の戦い新羅・唐連合軍に敗戦したヤマト政権は筑紫国に大宰府を置くこととし、 また令制を整備しはじめ、7世紀末には、 筑紫国を筑前国(現在の福岡県西部に当たる)と筑後国(現在の福岡県南部にあたる)に分割した。

731年(天平3年、第45代聖武天皇期)には、 住吉三神を祀る志賀海神社(福岡県福岡市、住吉神社系)が、 「那珂郡阿曇社三前」や「志賀社」として『住吉大社司解』には記載された。

859年(貞観元年)には、 筑紫神社が神階奉授を受けた記録がある『六国史』。

平安時代の筑前国については、 藤原時平が大宰府に菅原道真を左遷して道真が没したのちに疫病や天変地異が続き、 919年(延喜19年)に大宰府天満宮、 921年(延喜21年)に筥崎宮が、第60代醍醐天皇により造営された。