代 | 氏名 | 在職期間 下段:西暦 | |
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自 | 至 | ||
1 | 徳川家康 |
慶長 8年 2月12日 (1603年) |
慶長10年 4月16日 (1605年) |
2 | 徳川秀忠 |
慶長10年 4月16日 (1605年) |
慶長16年 3月27日 (1611年 5月 9日) |
3 | 徳川家光 |
元和 9年 7月27日 (1623年) |
慶安 4年 4月20日 (1651年) |
4 | 徳川家綱 | 慶安 4年 8月18日 (1651年) |
延宝 8年 5月 8日 (1680年) |
5 | 徳川綱吉 | 延宝 8年 8月23日 (1680年) |
宝永 6年 1月10日 (1709年) |
6 | 徳川家宣 | 宝永 6年 5月 1日 (1709年) |
正徳 2年10月14日 (1712年) |
7 | 徳川家継 | 正徳 3年 4月 2日 (1713年) |
享保 元年 4月30日 (1716年) |
8 | 徳川吉宗 | 享保 元年 8月13日 (1716年) |
延享 2年 9月25日 (1745年) |
9 | 徳川家重 | 延享 2年11月 2日 (1745年) |
宝暦10年 5月13日 (1760年) |
10 | 徳川家治 | 宝暦10年 5月13日 (1760年) |
天明 6年 9月 8日 (1786年) |
11 | 徳川家斉 | 天明 7年 4月15日 (1787年) |
天保 8年 4月 2日 (1837年) |
12 | 徳川家慶 | 天保 8年 4月 2日 (1837年) |
嘉永 6年 6月22日 (1853年) |
13 | 徳川家定 | 嘉永 6年11月23日 (1853年) |
安政 5年 7月 6日 (1858年) |
14 | 徳川家茂 | 安政 5年10月25日 (1858年) |
慶応 2年 7月20日 (1866年) |
15 | 徳川慶喜 |
慶応 2年12月 5日 (1867年 1月10日) |
慶応 3年12月 9日 (1868年 1月 3日) |
寛永19年(西暦1642年)前後に最大規模化するが、それ以前から兆候は存在していた。
島原の乱が収束した寛永15年頃には、
九州で発生した牛疫が西日本に拡大し、
牛の大量死をもたらした。
寛永17年(西暦1640年)6月には蝦夷駒ケ岳が噴火し、
降灰の影響により陸奥国津軽地方などで凶作となった。
翌寛永18年(西暦1641年)に入ると、
初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、
秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。
その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。
東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、
これは後の天保の大飢饉に似た様相であるという。
当時江戸幕府では寛永通宝を発行して貨幣の統一を図っていたが、
過剰鋳造に市場への流出に加えて不作による物価高騰で銭の価値が急落し、
同年12月には鋳造の全面停止に追い込まれ、
同時に公定相場での寛永通宝の買い上げや東西間の交通の維持のために東海道筋などの宿場町の支援に乗り出している。
不作はさらに翌19年(西暦1642年)も続き、
百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、
幕府は対策に着手した。
同年5月、
将軍徳川家光は諸大名に対し、
領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、
翌6月には諸国に対して、
倹約のほか米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、
酒造統制(新規参入及び在地の酒造禁止及び都市並びに街道筋での半減)、
雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、
御救小屋の設置など、
具体的な飢饉対策を指示する触を出した。
これは、
キリシタン禁制と並び、
幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。
またこうした政策は後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。
なおこのとき、
譜代大名を飢饉対策のために、
領国に帰国させたことがきっかけとなって、
譜代大名にも参勤交代が課せられるようになった。
寛永19年末から翌20年(西暦1643年)にかけて餓死者は増大し、
江戸をはじめ三都への人口流動が発生。
幕府や諸藩は飢人改を行い、
身元が判別したものは各藩の代官に引渡した。
また米不足や米価高騰に対応するため、
大名の扶持米を江戸へ廻送させた。
3月には田畑永代売買禁止令を出した。
大飢饉の背景としては、 西暦1630年代から西暦1640年代における東アジア規模での異常気象のほか、 江戸時代初期の武士階級の困窮、 参勤交代や手伝普請、 将軍の上洛や日光社参などのように、 武断政治を進めるための幕府や藩の多額の出費、 年貢米を換金する市場の不備などが、 様々な要因があげられる。
幕府は武士の没落を驕りや奢侈によるものととらえ、
武家諸法度などで倹約を指示していた。
例えば、
西暦1635年の武家諸法度改正で、
幕府は参勤交代を1年交代で行うように義務付けているが、
その一方で参勤交代にあまり費用をかけすぎないように呼び掛けている。
武士の困窮は百姓に対するさらなる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる。
島原の乱から寛永の飢饉、
牢人の不満を背景として徳川家綱への代替わりの時に起こった討幕計画である慶安の変などを契機に幕府は武断政治の限界を思い知らされた。
そして幕政は、
百姓撫育(百姓成立ともいう。すなわち百姓が戦乱と飢饉から解放されて、安定した生活を営めるような状況の確立)を推し進め、
諸大名に課せられていた普請役は激減し、
参勤交代に代替された。
また諸藩も遅れて藩政改革に乗り出た。
明暦の大火(めいれきのたいか)は、
明暦3年旧暦1月18日から20日(西暦1657年3月2日 - 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災。
かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、
出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、
火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだ。
明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、
明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、
江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、
天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、
死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。
この大火で焼失した江戸城天守は、その後、再建されることがなかった。
関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、
ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、
御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、
それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。
また、
市区改正が行われるとともに、
防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、
隅田川東岸に深川など市街地が拡大されるとともに、
吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。
さらに防災への取り組みも行われ、
火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。
現在でも上野広小路などの地名が残っている。
幕府は防火のための建築規制を施行し、
耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。
もっとも、 その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる通り、 江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。
この火災の特記すべき点は火元が1か所ではなく、 本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生したもので、 ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、 結果的に江戸市街の6割、 家康開府以来から続く古い密集した市街地においては、 その全てが焼き尽くされたことである。
このことは、のちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。
3回の出火の経過は以下のようであったと考えられている。
火災後、
身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、
供養のため現在の回向院が建立された。
また幕府は米倉からの備蓄米放出、
食糧の配給、
材木や米の価格統制、
武士・町人を問わない復興資金援助を行った。
松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、
1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行い、
災害復旧に力を注いだ。
松平信綱は米相場の高騰を見越して、
幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。
それを受けて、
地方の商人が江戸で大きな利益を得られるとして米を江戸に送り、
幕府が直接に商人から必要数の米を買いつけて府内に送ったため、
府内に米が充満して米価も下がった。
西暦1733年(享保18年)正月、 飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが起こった。 これには窮民2,3000人が参加する大規模なものであった。 江戸幕府第8代征夷大将軍の徳川吉宗は、 本百姓の保護のため、 これまで米価引き上げ政策を続け、 米市場にも介入していたが、 米価高騰のため食糧を入手できない人が増えたため、 従来の方針を改め、 非常手段として米価引き下げ政策に転じた。 幕府は、 大名に対しては金銀の貸与・在府諸役の免除・参勤交代の緩和などの措置をとって被害の緩和に努め、 民間に対してはコメの買い占めを禁止して囲米の強制的な放出、 酒造制限などをおこなった。 富裕な町家や寺社には飢餓民救済を促し、 蝗虫予防薬の販売推進や蝗害除去の祈祷もおこなわせている。
凶作の被害が深刻であった瀬戸内海沿岸地域にあって、 大三島だけは下見吉十郎がもたらした甘藷(サツマイモ)によって餓死者を出すことはなく、 それどころか余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。 九州地方でも、 島津氏の薩摩藩領のみは飢民が生じなかったといわれる。 60歳という高齢で勘定役から大森代官(石見銀山および備中国・備後国に散在する天領の管理)に抜擢された井戸正明(井戸平左衛門)は窮民救済のため数々の施策をおこなった幕僚として知られ、 飢饉対策の作物としてのサツマイモの効能にもいち早く気づき、 「芋代官」と称された。
将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、 試作を命じられた青木昆陽らによって小石川薬園や吹上御苑で甘藷栽培を行い、 やがて東日本各地にも甘藷栽培が広く普及した。
東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、
すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。
天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。
道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。
空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、
人々は不安げに空を見上げることが多くなった。
約30年前の宝暦年間(1751年 - 1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。
こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、
7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、
各地に火山灰を降らせた。
火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、
成層圏に達した火山噴出物が陽光を遮ったことによる日射量低下で冷害をさらに悪化させることになり、
農作物には壊滅的な被害が生じた。
このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。
被害は東北地方の農村を中心に、
全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、
死んだ人間の肉を食い、
人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、
ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている。
しかし、
諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、
被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。
被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており、
逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。
飢餓とともに疫病も流行し、
全国的には1780年から1786年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる。
農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。 それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていたことも重なり、 1787年(天明7年)5月には、 江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、 江戸では千軒の米屋と8千軒以上の商家が襲われ、 無法状態が3日間続いたという。 その後全国各地へ打ちこわしが波及した。 これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。
天保の飢饉は、 江戸時代後期の西暦1833年(天保4年)に始まり、 西暦1835年(天保6年)から 西暦1837年(天保8年)にかけて最大規模化した飢饉である。 西暦1839年(天保10年)まで続いた。 西暦1837年(天保8年)までと定義する説もある。
主な原因は西暦1833年(天保4年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。
東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きくかった。
19世紀前半は太陽活動が低調だったことに加えて、 仙台藩士の花井安列が書き残した日記の西暦1835年4月の項に、 このところ日の出が赤い旨の記述があり、 日本から見てほぼ地球の反対側にある中米ニカラグアにあるコシグイナ火山で同年1月に起きた大噴火による日傘効果による気温低下が冷害を悪化させた可能性が指摘されている。
特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、
100万石を超える実高を有していたが、
米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。
領内では藩札の信用が落ち、
小判が使われるようになったことで市中では現金が不足して物価が高騰、
領内は悪性のインフレに陥った。
仙台藩は城下の商人に他藩から米を買い付けるように依頼した他、
領内に店を出していた近江商人の中井家に2万両の確保を依頼するなど、
民間の財力に大きく依存することとなった。
藩では対策として西暦1845年に施粥所を設置、 城下でも町ごとに日懸銭で米の備蓄制度を始め、 昭和初期まで続いた。
50年前の天明の大飢饉と比較して、
凶作対策が行われたため死者の数は少なかったが、
商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、
貧困の百姓が多く餓死した。
徳川幕府は救済のため、
江戸では市中21か所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、
救済者は70万人を超えた。
米価急騰も引き起こしたため、
各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、
天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、
天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。
特に大坂では、毎日約150人から200人を超える餓死者を出していたという。
京都では東町奉行組与力平塚瓢斎が企画発案し、
鳩居堂主人熊谷直恭、
教諭所儒者北小路三郎の協力のもと、
鴨川三条橋の南に御救小屋を設置した救援事業が知られる。
この事業は天保8年(1837年)正月から翌年3月までの間に1480余人の流民を救援し、
うち974人が寺院に埋葬された。
その様子を詳細に描いた絵師小沢華岳筆『荒歳流民救恤図』原本(著色紙本、1巻)は京都の山本読書室資料に伝わっているが、
明治32年(1899年)に渡辺崋山筆とする偽物が作り出され流布した。
一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もある。
たとえば田原藩では、
家老の渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想をもとにした『凶荒心得書』を著して藩主に提出し、
役人の綱紀粛正と倹約、
民衆の救済を最優先すべきことと説き、
給与改革や義倉の整備を実行して成果をあげた。
また米沢藩でも天明の大飢饉の教訓を生かして義倉の整備や「かてもの」という救荒食の手引書を作成して配布するなどの事前対策が取られていた。
【未作成】
幕末幕末幕末幕末幕末