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江戸時代(えどじだい)

作成日:2020/6/23

江戸時代(えどじだい、旧字体:江戶時代)は、 日本の歴史の内、 江戸幕府(徳川幕府)の統治時代を指す時代区分である。 他の呼称として徳川時代徳川日本旧幕時代藩政時代(藩領のみ)などがある。 江戸時代という名は、将軍が江戸に常駐していたためである。

日本史上の時代区分としては、 安土桃山時代(または豊臣政権時代)と合わせて「近世」とされる。

江戸時代の期間は、 一般的には西暦1603年3月24日(慶長8年2月12日)に徳川家康が征夷大将軍に任命されて江戸(現在の東京)に幕府を樹立してから、 西暦1868年10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)の「一世一元の詔」の発布(一世一元への移行)に伴い、 慶応から明治に改元されるまでの265年間である。

始期については、 豊臣秀吉が薨じた西暦1598年慶長3年)や、 関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した西暦1600年10月21日(慶長5年9月15日)、 あるいは豊臣氏滅亡の西暦1615年元和元年)を始まりとする見方もある。

終期については、 ペリーが来航した西暦1853年嘉永6年)や 桜田門外の変があった西暦1860年万延元年)、 徳川慶喜が大政奉還を明治天皇に上奏した西暦1867年11月9日(慶応3年10月14日)とする見方や、 王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した西暦1868年1月3日(慶応3年12月9日)、 江戸開城された西暦1868年5月3日(慶応4年4月11日)、 あるいは廃藩置県が断行された西暦1871年明治4年)とする見方も存在する。

年表

西暦1596年文禄5年)
西暦1598年慶長3年)
  • 9月18日(8月18日)豊臣秀吉が死去。3男で嫡子の秀頼が跡を継ぐ
西暦1600年慶長5年)
  • 10月21日(9月15日)。関ヶ原の戦いで徳川家康が勝利した。
西暦1603年慶長8年)
  • 3月24日(2月12日)。家康がはじめて将軍職に任じられ、江戸に幕府を開いた。
西暦1605年慶長10年)
  • 2月3日(慶長9年12月26日)。慶長地震発生。
西暦1615年元和元年)
  • 豊臣氏滅亡。
西暦1637年寛永14年)
西暦1641年寛永18年)
西暦1657年明暦3年)
西暦1703年元禄16年)
  • 12月31日(11月23日)午前2時ごろ。元禄地震
西暦1707年宝永4年)
西暦1732年享保17年)
西暦1771年明和8年)中国・清:乾隆36年
西暦1772年安永元年)
西暦1779年安永8年)
西暦1782年天明2年)
西暦1783年天明3年)
西暦1792年寛政4年)
西暦1806年天明3年)
西暦1833年天保4年)
西暦1837年天保8年)
西暦1853年嘉永6年)
  • ペリーが来航した。
西暦1854年嘉永7年)
  • 12月23日(11月4日)午前9時~10時ごろ。安政東海地震発生
  • 12月24日(11月5日)。安政南海地震発生。
西暦1855年安政2年)
  • 10月2日午後10時ごろ。安政の大地震。
西暦1860年万延元年)
  • 桜田門外の変。
西暦1867年慶応3年)
西暦1868年慶応4年)
  • 5月3日(4月11日)王政復古の大号令によって明治政府樹立を宣言した西暦1868年1月3日(慶応3年12月9日)
  • 10月23日(慶応4年/明治元年9月8日)。 「一世一元の詔」の発布に伴い、 慶応から明治に改元された。
西暦1871年明治4年)
  • 廃藩置県が断行された。

期間

江戸幕府の期間については、始期、終期ともに様々な説がある。
各説においては、 「この始期があり、ゆえにこの終期がある」のが当然であるが、 ここでは、 各説で挙げられている始期と終期を個別に取り上げている。

始期

終期

将軍一覧 308-464

氏名 在職期間 下段:西暦
1 徳川家康 慶長  8年  2月12日
 (1603年)
慶長10年  4月16日
 (1605年)
2 徳川秀忠 慶長10年  4月16日
 (1605年)
慶長16年  3月27日
 (1611年  5月  9日)
3 徳川家光 元和  9年  7月27日
 (1623年)
慶安  4年  4月20日
 (1651年)
4 徳川家綱 慶安  4年  8月18日
(1651年)
延宝  8年  5月  8日
(1680年)
5 徳川綱吉 延宝  8年  8月23日
(1680年)
宝永  6年  1月10日
(1709年)
6 徳川家宣 宝永  6年  5月  1日
(1709年)
正徳  2年10月14日
(1712年)
7 徳川家継 正徳  3年  4月  2日
(1713年)
享保 元年  4月30日
(1716年)
8 徳川吉宗 享保 元年  8月13日
(1716年)
延享  2年  9月25日
(1745年)
9 徳川家重 延享  2年11月  2日
(1745年)
宝暦10年  5月13日
(1760年)
10 徳川家治 宝暦10年  5月13日
(1760年)
天明  6年  9月  8日
(1786年)
11 徳川家斉 天明  7年  4月15日
(1787年)
天保  8年  4月  2日
(1837年)
12 徳川家慶 天保  8年  4月  2日
(1837年)
嘉永  6年  6月22日
(1853年)
13 徳川家定 嘉永  6年11月23日
(1853年)
安政  5年  7月  6日
(1858年)
14 徳川家茂 安政  5年10月25日
(1858年)
慶応  2年  7月20日
(1866年)
15 徳川慶喜 慶応  2年12月  5日
 (1867年  1月10日)
慶応  3年12月  9日
 (1868年  1月  3日)

地震 468-984

慶長伊予地震

慶長伊予地震(けいちょういよじしん) 西暦1596年文禄5年)

慶長伊予地震は、 西暦1596年9月1日(文禄5年閏7月9日戌刻)頃の夜に伊予国(現在の愛媛県)で発生したと仮定される地震である。
慶長伊予国地震とも呼ばれる。

中央構造線断層帯の川上断層セグメント(岡村断層・石鎚断層・川上断層・北方断層・重信断層・伊予断層)のトレンチ調査で確認されている最新の断層活動の有力候補とされる地震である。
また、 これらの断層の東方延長の池田断層・父尾断層も同時期(16世紀)に活動したという調査結果があるが、 これを否定する見解もある。
断層の長さから推定される地震の規模はマグニチュード7前後であるが、 被害記録は限られており正確な規模は不明である。

3日後の西暦1596年9月4日に、 豊予海峡を挟んで対岸の大分で発生した慶長豊後地震(本地震による連動型地震とされる)と、 4日後の西暦1596年9月5日に発生した慶長伏見地震(ともにM7.0規模と推定)を合わせて、 中央構造線上及び、 その周辺断層帯で発生した一連の地震活動の一つとされる。
こうした天変地異の多発によって同年中に文禄から慶長へと改元がなされた。
伊予地震単独説と豊後地震と同一地震説
本地震は伊予に及んだ慶長豊後地震の余波と考えられていたものが分離され、 単独の地震として仮定されたものである。

伊予に及んだ慶長豊後地震西暦1596年9月1日19時頃(文禄5年閏7月9日酉戌刻)に起こったとされる説と、 西暦1596年9月4日16時頃(文禄5年閏7月12日申刻)に起こったとされる説がある。

前者の場合は豊後地震の余波として伊予地震も含み、 豊後地震が閏7月12日とする後者の場合は閏7月9日を伊予地震とすれば説明がつくとするものである。
しかし、 豊後地震の史料は閏7月9日とするものは当時の文書が多いが、 閏7月12日とするものは後世の編纂物であることが多く、 伊予地震はやはり豊後地震と同一地震であり、 その一部であるとする説が再び浮上している。
被害
  • 伊予郡保免村(現松山市保免)の薬師寺の本堂や仁王門が崩壊(『薬師寺大般若経奥書』『伊予温故録』)。
  • 周布郡北条村(現西条市北条)の鶴岡八幡宮の宮殿が転倒、宝蔵、神器、記録が地中に没す(『小松邑誌』)。
  • 周布郡広江村(現西条市広江)で人家に被害。村宅が湮没したため村民らは今の地に移住した(『小松邑誌』)。
  • 板島城(現在の宇和島城郭)で破損。
  • 豊後奥浜(沖の浜)が海没、人畜二千余死亡。豊後府中で寺社倒壊、津波。
  • 薩摩で大地震。
  • 『言経卿記』や『孝亮宿禰日次記』には閏七月九日亥刻に地震があったと記され、 京都でも有感であったとされる。
    しかし『由原宮年代略記』や『大般若波羅蜜多経奥書』など豊後の地震を閏7月9日とする史料も存在し、 かつては伊予被害記録も豊後地震の一部とされていた。
    文禄5年の地震による、伊予における被害記録はあまり知られておらず、確認されている記録も限定的なものである。

慶長豊後地震

慶長豊後地震 西暦1596年文禄5年)

慶長豊後地震(けいちょうぶんごじしん)は、 西暦1596年9月4日(文禄5年閏7月12日)、 あるいは西暦1596年9月1日(文禄5年閏7月9日)に豊後国(現在の大分県)で発生した地震である。
別府湾地震、大分地震などとも呼ばれる。死者800余人。

この地震によって別府湾にあった瓜生島及び久光島の2島が沈んだと伝えられる。
ただし、 これらの島は実在自体が未確認であり、 瓜生島は島ではなく沖ノ浜と呼ばれる沿岸の港町であったとする説等もある。
臼杵藩の記録『稲葉家譜』には津波が豊府沖浜を襲い溺死者を出したとある。
『府内旧記』には「勢家村二十余町を隔てて、瓜生島あり、或は沖ノ浜と云ふ。」とある。
概要
震源地は現在の大分県の別府湾口で、マグニチュードは6.9-7.8と推定される。
中央構造線断層帯および別府湾-日出生断層帯東部を震源断層として発生した大陸プレート内地震と推定されている。

閏7月9日戌刻(20時頃)に慶長伊予地震が発生し、 震源付近と推定される伊予国の他、 豊後国においても地震と津波によって大きな被害が発生した。
更にこの地震から3日後の閏7月12日申刻(16時頃)に本地震が発生、 再び豊後国を地震と津波がおそった。
『府内旧記』などに依れば、 津波による流出家屋数千戸、 死者708名、高崎山(『豊府紀聞』)と由布岳(『イエス会のルイジ・フロア神父の報告』)の山崩れなどの被害をもたらした。

翌日閏7月13日には慶長伏見地震が発生し、畿内で大きな被害が発生した。
これらの天変地異の多発により、10月27日、文禄から慶長へ改元された。
地震当時の文書の記録は「文禄五年」であるが、歴史年表上では改元の年であるため「慶長元年」とされる。
津波被害
『由原宮年代略記』によれば、 別府湾岸から約2km南、 標高180mの場所に有る柞原八幡宮では拝殿や回廊が顛倒し、 府内とその近辺の村々は津波で流失した。
また地震で消失したとされる瓜生島は、 西暦1698年に府内藩の郷土史家戸倉貞則が書いたとされる『豊府聞書』の写本あるいは一異本とされる『豊府紀聞』に登場する。

ルイス・フロイスの年報補遺である『十六・七世紀イエズス会日本報告集第I期 第二巻』には、 「町に七ブラサ以上の高さの津波が襲い、凡そ千五百(歩)以上も陸地を浸水し、引返す津波はすべてを沖の浜の町と共に呑みこんでしまった」とあり、 この1ブラサの長さについては2.2mなど諸説あるが、約1m程度とも解釈される。

『玄与日記』には「それよりさかの関迄御着船被成候、去七月十二日之地震之時、かみの関と申浦里は、大波にひかれて家竈かまともなし」とあり、 「かみの関」を周防国上関(現・山口県上関町)と比定する説もある一方、 大分市佐賀関上浦とするのが合理的とする見解もある。

慶長伏見地震

慶長伏見地震 西暦1596年(文禄5年)

慶長伏見地震(けいちょうふしみじしん)は、 文禄5年閏7月13日(西暦1596年9月5日)子の刻に山城国伏見(現・京都府京都市伏見区相当地域)付近で発生した大地震である。
慶長伏見大地震とも呼称される。

京都では伏見城天守や東寺、天龍寺等が倒壊し、死者は1,000人を超える。
概要
現在の京都・伏見付近の有馬-高槻断層帯および六甲・淡路島断層帯を震源断層として発生したマグニチュード(M) 7.25-7.75程度と推定される内陸地殻内地震(直下型地震)である。
地震による死者数の合計は京都や堺で1,000人以上を数えたと伝えられており、 豊臣秀吉が指月の隠居屋敷を大改修して完成間近の指月伏見城(西暦1594年築)天守もこの地震により倒壊し、 城内だけで600人が圧死したと言われている。

京都では東寺・天龍寺・二尊院・大覚寺などが倒壊し、 被害は京阪神・淡路島の広い地域に及び、 大坂・堺・兵庫(現在の神戸)では家々が倒壊した。
また、現在の香川県高松市でも強震を伴ったとされている。

木津川河床遺跡・内里八丁遺跡(八幡市)などでは顕著な液状化跡が見つかり、 玉津田中遺跡(神戸市)や田能高田遺跡(尼崎市)などで、 液状化現象が発生した痕跡がある。
また、 今城塚古墳(高槻市)と西求女塚古墳(神戸市灘区)における墳丘の地すべりは、 この地震による地震動によるものであると推測されている。
また、 現在の徳島県鳴門市の撫養地区で生じた隆起は、 塩田開発の契機となったと考えられている。
別の地震との関連
この地震の4日前には現在の愛媛で中央構造線を震源とする慶長伊予地震が、 また前日には現在の大分・別府湾口付近で別府湾-日出生断層帯の東部を震源とする慶長豊後地震(共にM7.0と推定)が発生しており、 双方の地震による誘発地震の可能性が指摘されている。
これらの天変地異が影響して、 同年中に文禄から慶長へ改元が行われた。
また、 兵庫県南部を中心に甚大な被害となった西暦1995年の兵庫県南部地震(M7.3)は、 本地震で破壊された六甲・淡路島断層帯における地下深くの滑り残しが原因で発生したとする説が発表されている。
歌舞伎・落語「地震加藤」
歌舞伎「増補桃山譚」(ももやまものがたり)の通称である。明治2年(西暦1869年)東京市村座で初演された。

内容は、 伏見大地震の時(真夜中)、 石田三成の讒言で秀吉の怒りを買い閉門中の加藤清正が第一番に豊臣秀吉のいる伏見城へ駆けつけ、 動けない秀吉をおんぶして脱出させ、 閉門を解かれるという話である。

だが、 地震発生から2日後の日付でこの地震について領国に伝えた清正自身の書状には、 秀吉一家の無事であったことと、 自分は伏見の屋敷がまだ完成していなかったために被害を免れたと記されており、 更に京都から胡麻を取り寄せる予定であったことも書き加えられている。
つまり、 この地震の時に清正は伏見でも京都でもなく恐らく大坂の自分の屋敷に滞在していた(清正は大坂から伏見の秀吉を見舞ったことになり、時間を要することになる)とみられ、 この逸話は史実ではないことが明らかといえる。

慶長地震

慶長地震 西暦1605年2月3日(9年12月16日)

慶長地震(けいちょうじしん)は、 江戸時代初期の西暦1605年2月3日(慶長9年12月16日)に起こったとされる地震・津波である。

震源については諸説があり、 南海沖(南海トラフ)単独地震説と南海沖と房総沖の連動地震説、 ニューギニア海溝やフィリピン海溝などの遠地地震説など。
津波被害による溺死者は約5,000人(1万人という説もある)だが、 地震による陸地の揺れの記録が殆ど確認されないのが特徴である。 また震源や被害規模も不明な点が多い。

大きな短周期の地震動が発生しない津波地震、 或いは遠地津波の可能性が考えられ、 同様の地震が将来発生した場合に避難が遅れ大きな被害が出る可能性があり、 問題となっている。

各地の地震動
『房総治乱記』には「慶長六年辛丑十二月十六日大地震、山崩海埋テ岳トナル」とあり、 年号の相違は誤記と考え、この房総半島の記録は本地震によるものとされる。

京都で地震が有感であったとされる記録は『当代記』「十六日亥刻、丑寅の方ニ魂打三度、同地震」が1件あるだけで、 地震動後に津波被害を受ける地域の地震記録は少ない。 しかし、 『日本被害地震総覧』は『当代記』を京都の有感記事としているものの、 日記にある前後の天候などの記事から『当代記』は京都の状況を記述したものではないとされる。 また、 『義演准后日記』には「旧冬十五日〔ママ〕武蔵国江戸辺大地震由注進候、此辺不覚、誠聊震歟」とあり、 こちらは京都では有感でなかったことを示唆する史料とされる。

『孝亮宿禰日次記』には「近日関東大地震有之、死人等多云々、又伊勢国、紫国等有大地震云々、」とあり、 関東や伊勢の状況が伝えられ大地震があったことを示唆しているが、 「紫国」は筑紫国であるか不明であり恐らく四国の状況が伝えられたものとされる。

『田原町史』には戸田尊次が田原藩に封ぜられた後に、 田原城の櫓や石垣が大坂の陣の前年の大地震によりゆり崩されたと記録されているが、 これを大坂の陣の前の年と解釈し慶長地震による震害とする見方もある。

『円頓寺開山住持宥慶之旧記』『慶長九年大変年代書記』、 およびその写しである『宍喰浦舊記』、 『永正九年八月四日・慶長九年十二月十六日・寳永四年十月四日・嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記』にある 『慶長九年師走十六日圓頓寺舊記之写』によれば、 徳島県宍喰では予兆と見られる大地震が16日辰半刻(朝8時頃)から申上刻(午後3時)くらいまで続き、 また井戸が干上がり、 酉上刻(午後5時頃)の月の出頃から海底より大波が湧き出し泉から水が吹出したとされる。 さらに「地裂沼水湧出」と記述され、 地割れが発生して水が噴出したと解釈される。 しかし、午前8時頃より午後3時頃まで大地震が続いて「前代未聞の大変」であると言っておきながら震害の記録が無いなど疑問点があるとされる。

顕著な震害としては『淡路草』に淡路島安坂村の先山千光寺の諸堂が倒壊、仏像が飛散した記録がある。
三原郡加茂郷、先山千光寺、慶長九年天下大地震の時、諸堂倒る、其時仏像堂前に飛出すといふ、

しかし、 本地震における淡路島周辺の地震動による被害記録が乏しく、 後世に記された地誌に過ぎない。
『淡路草』の記録は年号の誤記と考えられ、 先山千光寺の記録は西暦1596年の慶長伏見地震の被害状況である可能性もあるとされる。
津波

津波は夕方から夜にかけて、 犬吠埼から九州に至る太平洋岸に押し寄せた。
津波襲来の範囲は宝永地震に匹敵するが、 後の元禄地震津波や宝永地震津波によって多くの史料が流失したものと推定され、 また紀州徳川家や土佐山内家らが移封される前後であったなどの世情から、 現存が確認される歴史記録は乏しい。
  • 房総半島東岸… 具体的な高さは不明であるが、 房総半島に津波が到達したのは確かと思われ特に現在の勝浦市、 鴨川市などで大きな津波であったと推定される。 但し、その高さは元禄地震による津波よりは低いと考えられている。 房総半島の津波を記した『房総治乱記』は日付が慶長六年十二月十六日(西暦1602年2月7日)であるが、 上総、下総では30町余潮が引いて干潟になった後、 大山の如くなる浪が押し寄せたとある。
  • 伊豆半島…西伊豆町仁科では津波が内陸に1.3km-1.4kmほど遡上し、下田市田牛では津波で寺堂並びに尊像が山奥に流されるなど、推定高さ4m程度の津波が押し寄せたとされている。
  • 八丈島…谷ヶ里の家が残らず流亡し水死者57人(『伊豆国八丈島宋福寺古記』)。
  • 浜名湖橋本宿(静岡県湖西市新居町浜名)...橋本では100戸中80戸が流された(『当代記』『東照宮実記』)。
  • 紀伊半島広村(和歌山県広川町広)... 1,700戸中700戸が流された (西暦1707年宝永4年) に14m、 西暦1854年嘉永7年)に8m。 広村堤防で有名) (『安政見聞録附図』『和歌山県有田郡地震津浪の記事』)。 ただし、広村の記録は元史料では「天正(十三年十一月?)の頃の津浪」となっており、 今村明恒が「慶長九年の地震津浪にあらざるなきか」と註釈を加えている様に、 これを慶長の津波としたのは今村による判断である。 また、広村の津波に言及している『和歌山県有田郡地震津浪の記事』は明治期に書かれたものであり、 年代も「天正」と異なっており、 宝永や安政の大津波で被害を受けた約40km南側に位置する田辺において、 慶長9年は地震も津波も記録される程でもなかったと推定されることから広村の津波被害は否定されるとしている。
  • 阿波鞆浦(徳島県海部郡海陽町鞆浦)...波高約10m、死者100余人。大岩慶長宝永碑には高さ十丈(約30m)の津波が襲ったとある[18]。
  • 阿波宍喰(徳島県海部郡海陽町宍喰)...波高約6m、約1.8km内陸の日比原まで帆廻船が流れ込み、死者1,500余人『円頓寺開山住持宥慶之旧記』およびその写し(波高20m、3,806人という記録もある『阿闍梨暁印置文』)。 しかし、時代が降る文化年間の宍喰村とその周辺、 すなわち宍喰川上流の津波被害が有り得ない山奥を含む10ヶ村の合計の人口でさえ1,720人とされ、 死者3,800人余はおろか死者1,500人余は過大であると考えられる。
  • 土佐甲浦(高知県安芸郡東洋町大字河内)…死者350余人。
  • 室戸岬付近...死者400余人。『谷陵記』によれば室津付近の元では宝永津浪は慶長津浪より六尺(約1.8m)低いとある。
  • 高知浦戸…山内一豊入封のとき、浦戸城では前代修築の突堤が慶長九年の激浪のため崩壊した。
  • 薩摩...西目(鹿児島湾西岸)に大波が寄せ、人が流された。

元禄地震

元禄地震(げんろくじしん) 西暦1703年12月31日(元禄16年11月23日)午前2時ごろ

元禄地震は、 元禄16年11月23日(西暦年12月31日)午前2時ごろ、 関東地方を襲った巨大地震。

震源は相模トラフ沿いの東経139.8度、北緯34.7度の地点と推定され、 房総半島南端の千葉県の野島崎付近にあたる。
マグニチュード7(M)は7.9-8.5と推定されている。
元禄大地震あるいは元禄の大地震(げんろくのおおじしん)とも呼ばれ、 大正関東地震に対比して元禄関東地震の名称もしばしば使用される。

大正12年(西暦1923年)に起きた関東地震(関東大震災)と類似のタイプの海溝型地震である上に、 震源分布図も類似することから大正関東地震以前の相模トラフ巨大地震と考えられている。
ただし、 地殻変動は大正関東地震よりも大きいものであった。
大規模な地盤変動を伴い、 震源地にあたる南房総では海底平面が隆起して段丘を形成した元禄段丘が分布し、 野島岬は沖合の小島から地続きの岬に変貌したという。

江戸時代中期の元禄から宝永年間は巨大地震、 噴火が続発した時期であり、 本地震の4年後の宝永4年(西暦1707年)にはM 8.4-8.6(Mw 8.7-9.3)と推定される宝永地震、 および宝永大噴火も発生している。
地震動
西暦1703年12月31日午前2時頃(元禄16年癸未11月23日乙丑の丑刻(22日甲子夜丑刻))関東地方諸国は激しい揺れに襲われた。
古記録には日付が「二十二日夜丑刻」あるいは「二十二日夜八ツ」と記されているものも多く、 当時は一日の境界は厳密でなく、 「夜丑刻」と現せば現代の暦法でいう夜半過ぎの翌日、丑刻の事を指す。

『楽只堂年録』には「今暁八つ半時希有の大地震によりて吉保・吉里急て登城す、大手乃堀の水溢れて橋の上を越すによりて供乃士背に負て過く、昼の八つ時過に退出す、夜に入て地震止されば四つ時吉保、登城して宿直す」とあり、 江戸城の大手門付近の堀の水が溢れるほどであったと記録されている。

尾張藩の御畳奉行、朝日文左衛門重章の日記『鸚鵡籠中記』には「丑二点地震。良久敷震ふ。而震返しあり。」とあり、 名古屋において長い地震動があり、 余震があったことが記されている。 また、公卿近衛基熙の日記である『基煕公記』には「折々ひかり物、白気夜半に相見へ申候」と記され、 夜中に発光現象があったことが記されている。 更に、甲府徳川家に仕えていた新井白石は『折りたく柴の記』において「我初湯島に住みし比、元禄十六癸未の年十一月廿二日の夜半過る程に地おびたゞしく震ひ、…」と地震の体験談を記している。

本地震の約2時間後、 同日午前4時ごろに豊後国由布院付近を震央とするM6.5程度の地震が発生した(元禄豊後地震)。震源は浅く、最大震度6程度。府内領で潰家、落石直撃により死者1名。

宝永地震

宝永地震(ほうえいじしん) 西暦1707年10月28日(宝永4年10月4日)

宝永地震は、 江戸時代の西暦1707年10月28日 (宝永4年10月4日)、 東海道沖から南海道沖を震源域として発生した巨大地震。 南海トラフのほぼ全域にわたってプレート間の断層破壊が発生したと推定され、 記録に残る日本最大級の地震とされている。
宝永の大地震(ほうえいのおおじしん)・宝永大地震(ほうえいおおじしん)・亥の大変(いのたいへん)とも呼ばれる。
地震の49日後に起きた宝永大噴火は亥の砂降り(いのすなふり)と呼ばれる。
地震動
宝永四年丁亥十月四日壬午の未上刻(1707年10月28日14時前)、 畿内、東海道および南海道諸国は激しい揺れに襲われた。 この地震の有感範囲は非常に広大で家屋潰倒の激震範囲は約200里(約790 km)にも及び、 蝦夷を除く日本国中、 五畿七道に亘って大揺れとなった(『地震類纂』,『外宮子良館日記』など)。

土佐は当日、 晩秋でありながら快晴で袷一つで済むような暑い日であったという。 『万変記』(『弘列筆記』)には 「朝より風少もふかず、一天晴渡りて雲見えず、其暑きこと極暑の如く、未ノ刻ばかり、東南の方おびただしく鳴て、大地ふるひいづ、其ゆりわたる事、天地も一ツに成かとおもはる、大地二三尺に割、水湧出、山崩、人家潰事、将棋倒を見るが如し」とある。

震動時間は土佐国高知(現・高知県高知市)において「半時ばかり大ゆりありて、暫止る」(『万変記』)、 土佐国高岡郡の宇佐村(現・土佐市宇佐)では「未の上刻[注 2]より大地震 同時ノ中刻に静まる」(『今昔大変記』)など、 30分から1時間も揺れが継続したような表現が多く見られるが、 「又暫くしてゆり出し、やみてはゆる、幾度といふ限なし、凡一時の内六七度ゆり、やまりたる間も、筏に乗たるごとくにて、大地定らず」 (『万変記』)といった記録もあり、 これは直後の余震活動をも含めた時間を表しているとされるが、 現代ほど厳密な時刻を求めない時代にあって感覚に頼る部分が大きく、 あるいは大地震による恐怖感が誇張的な表現を生んだとする見方もある。 本震の有感であった継続時間として確からしい記録として高岡郡佐川村(現・佐川町甲)において 「行程に積らば二百歩を過ぐ可か やや久敷く震動す」(2分余、『宝永地震記』)、 あるいは、京都において「地震動は道を七 八町歩くくらいゆれつづいた」(約10分、『基煕公記』)といった記録がある。 他に「其間ヲ勘ルニ一時ヲ六ツニシテ、其一ツ程長クユリ」(約20分、志摩『小林家記録』)、「茶四五ふくも給へ申間ゆり」(今治『大浜八幡宮文書』)、「時斗二三歩之間震り」(約24?36分、大坂『出火洪水大風地震』)、 また「未一點より。申前迄大地震。」(約2時間、大坂『鸚鵡籠中記』)という甚だ長い震動時間の記録もある。

八重山地震

八重山地震(やえやまじしん) 西暦1771年4月24日(明和8年3月10日)午前8時頃

八重山地震は、八重山列島近海を震源として発生した地震である。 推定マグニチュード7.4 - 8.7。
地震動による被害は僅かであった一方、 この地震が引き起こした大津波により先島諸島が大きな被害を受けた。 この大津波は、 牧野清による『八重山の明和大津波』(1968年)以降、 日本の元号を取って明和の大津波とも呼ばれている。 ...
石垣島における震度は4程度と推定され、 地震動による大きな被害はなかったとされていたが、 西暦2018年の報告によれば西暦1771年の津波堆積物の下の層から地割れなどの痕跡が発見された。
地震動の記録としては『琉球旧海主日記』に「本国及久米、慶良間島地震アリ、宮古島及八重山島ニテ又地震アリテ、海浪騰湧シ、土地人民ニ損害多シ」とあり、 石垣島の状況を記した岩崎卓爾著『ひるぎの一葉』には「朝五ツ時頃、地ヤヤ強ク震フヤ海潮遠ク退キ」とある。

震害はなかったが、 地震により最大遡上高30メートル程度の大津波が発生し、 宮古・八重山両列島で死者・行方不明者約11,000人・家屋流失約2,000戸という惨事になった。 石垣島では潮が引いて青、緑、紅、紫熱帯色の色彩眩き大小の魚がサンゴ礁の根株の下に跳躍し、 婦女、小児がこれを捕えているところに、 しばらくして東方洋中に二条の暗雲が垂れ込め、 砕けて激しき暴潮漲溢が弃馬の如く狂い、 繰り返し襲って来た(『ひるぎの一葉』。

八重山諸島では死者約9,200人、生存者約19,000人で、 14の村が流され、 津波の直接の被害として死者・行方不明者は住民の約3分の1にのぼった。 耕作可能地の多くが塩害の影響を受け、農作物の生産が低迷し、 社会基盤が破壊された。
津波発生の翌年6月頃より、 疫癘(えきれい。悪性の流行病。疫病。)の流行が白保村(しらほむら)から始まり、 環境衛生が極度に悪化して伝染病が流行したと推定され、 古老らによって「イキリ」と伝承されているが、 これは疫痢のこととされる(『奇妙変異記』)。 強制移住や翌年の飢饉と疫病の流行によって、 八重山で死者約5,000人を出した。
その後の西暦1776年、西暦1802年、西暦1838年、西暦1852年と飢饉や疫病が続き、 約100年後の明治時代初頭の八重山諸島の人口は、 地震前の4割から3割程度にまで減少した。

石垣島における津波の最大遡上高について、 『大波之時各村之形行書』は宮良村で「二十八丈二尺」(85.4メートル)に達したと記録している。 しかし、 溯上高の測量は「戸高」で行ったとされており家の戸板をスケールとした精度の低い測量であると考えられることや、 85メートルより低い標高に位置する井戸が被害を受けなかったとの記録があることなどから、 85.4メートルという遡上高は否定されており、 この津波の遡上高を日本史上最高とするのは不適切である。 津波が石垣島の宮良湾から名蔵湾へ縦断したという話を挙げて、 これが85メートルの遡上高を示唆する言い伝えとされることがあるが、 この話は牧野の著書に基づくもので、 古文書の記録には存在しない。

GPSによる測量や数値計算の結果などから、 遡上高の最大は石垣島南東部で30メートル程度と推定されている。 多良間島の津波の遡上高は18メートル程度と推定されている。 また、石垣島における津波石の分布と年代調査を行った加藤祐三(1987)は、 遡上高を25メートル程度としている。

島原大変肥後迷惑

島原大変肥後迷惑 西暦1792年(寛政4年)

島原大変肥後迷惑(しまばらたいへんひごめいわく)  西暦1792年5月21日(寛政4年4月1日)

肥前国島原(現在の長崎県)で発生した、 雲仙岳の火山性地震およびその後の眉山の山体崩壊(島原大変)と、 それに起因する津波が島原や対岸の肥後国(現在の熊本県)を襲ったこと(肥後迷惑)による災害である。

犠牲者は約1万5000人に達し、 日本史上最大規模の火山災害となった。 新月の夜かつ大潮であったことで大きな被害になったとされる。 シミュレーションによれば、 山体崩壊開始から終了までは 180秒程度と想定された。

この時は、まず体に感じる地震が続き、 さらに普賢岳から噴煙が上がり、 溶岩流や火山ガスの噴出も見られた。
激しい地震の連続が次第に収まりかけたかにみえた 西暦1792年5月21日(寛政4年4月1日)、 大音響とともに襲った大地震によって、 城下町の背後にそびえる眉山(まゆやま)が突如崩壊、 3億立方メートルを超える土砂が人家や田畑を埋め尽くすとともに、 有明海へ向かって崩れ落ちた。

この衝撃によって巨大な津波が発生。 対岸の肥後・天草(熊本県)へ襲いかかかった。 さらに返し波が島原半島の沿岸18か町村へ再度来襲して、 広域災害の様相を呈した。 津波による被害を含む死者約1万5千人は、 未だに記録に残る最大の火山災害。
島原外港に点在する九十九島(つくもじま)の奇観は、 この時海に流れ込んだ土砂の跡である。

島原の乱 西暦1637年(寛永14年)- 西暦1638年(寛永15年)
島原の乱(しまばらのらん)/ 天草一揆(あまくさいっき) 西暦1637年(寛永14年)- 西暦1638年(寛永15年)

西暦1637年寛永14年)から 翌西暦1638年寛永15年)にかけて、 肥前島原と天草島のキリシタン信徒が起した一揆。

この地方は、 キリシタン大名有馬晴信や小西行長の領地で、 住民にもキリスト教徒が多かったが、 関ヶ原の戦いののち、 天草の領主は小西氏から寺沢氏に代り、 さらに西暦1615年元和元年)島原の領主が松倉重政(まつくらしげまさ)に代った。
松倉氏は農民に対して過重な年貢の負担を強制し、 滞納する者には過酷な刑罰を課した。 また江戸幕府の禁教政策におけるこの地方のキリシタン弾圧は特にきびしかった。

このようななかで西暦1637年(寛永14年11月)有馬村で代官と農民の衝突が起り、 これをきっかけに島原半島一帯の農民が蜂起した。 これに商人、手工業者、船頭なども加わり、 さらに天草の農民がこれに呼応して蜂起し、 豪農益田甚兵衛の子四郎時貞 (→益田四郎時貞) が首領に推され、 小西家牢人 (浪人) や村落代表によって指導部が構成された。 一揆は松倉藩兵を破り城代家老を戦死させ原城にたてこもった。

幕府は翌寛永14年12月、 鎮圧のため板倉重昌を派遣し近隣諸藩の兵を指揮させたが、 一揆の勢力は強く、 その数3万8000人であったといわれる。 翌年元旦、総攻撃をかけたが落ちず、板倉重昌は戦死した。 幕府は、老中松平信綱を派遣し、 松平信綱は十数万の包囲軍による兵糧攻めや、 一時的ではあったがオランダ商船『レイプ』号に依頼して海上から砲撃させるなどしたが、 農民は頑強に抵抗した。 しかし、食糧や弾薬が尽きついに2月末、幕府軍の総攻撃によって陥落した。

幕府は 40万両余の費用と数千の武士を失い、一方松倉重次を処刑し、寺沢氏の所領を没収した。 以後禁教は一層きびしくなり鎖国を促進した。

寛永の大飢饉 西暦1641年‐西暦1642年(寛永18年‐19年)
寛永の大飢饉 西暦1641年西暦1642年寛永18年‐19年)

江戸四大飢饉の一。(寛永の大飢饉、享保の大飢饉天明の大飢饉天保の大飢饉
西暦1641年西暦1642年寛永18年‐19年)の凶作による江戸時代最初の大飢饉。
西暦1630年代を通じて慢性的な農民の疲弊、 それによる農地の荒廃現象がみられたが、 西暦1637年に起こった島原の乱は、 九州を中心とした大量の兵粮と軍役の徴発・動員により、 農村の疲弊状況をさらに深刻化させた。
西暦1640年には、 西日本を中心として全国的に牛疫病が流行し、 九州では大量の牛死が発生して、 農耕に甚大な影響を与えた。

西暦1641年には、 西日本では干ばつに見舞われ、 さらには虫害の被害をうけ、 北陸・関東・東北地方では長雨と冷気による冷害に襲われ、 全国的な大凶作となった。

幕府は武士の没落を驕りや奢侈によるものととらえ、 武家諸法度などで倹約を指示していた。
島原の乱から寛永の飢饉、 牢人の不満を背景として徳川家綱への代替わりの時に起こった討幕計画である慶安の変などを契機に幕府は武断政治の限界を思い知らされた。
そして幕政は、百姓撫育を推し進め、 諸大名に課せられていた普請役は激減し、 参勤交代に代替された。
また諸藩も遅れて藩政改革に乗り出た。 ...

寛永19年(西暦1642年)前後に最大規模化するが、それ以前から兆候は存在していた。
島原の乱が収束した寛永15年頃には、 九州で発生した牛疫が西日本に拡大し、 牛の大量死をもたらした。
寛永17年(西暦1640年)6月には蝦夷駒ケ岳が噴火し、 降灰の影響により陸奥国津軽地方などで凶作となった。

翌寛永18年(西暦1641年)に入ると、 初夏には畿内、中国、四国地方でも日照りによる旱魃が起こったのに対し、 秋には大雨となり、北陸では長雨、冷風などによる被害が出た。
その他、大雨、洪水、旱魃、霜、虫害が発生するなど全国的な異常気象となった。
東日本では太平洋側より日本海側の被害が大きく、 これは後の天保の大飢饉に似た様相であるという。
当時江戸幕府では寛永通宝を発行して貨幣の統一を図っていたが、 過剰鋳造に市場への流出に加えて不作による物価高騰で銭の価値が急落し、 同年12月には鋳造の全面停止に追い込まれ、 同時に公定相場での寛永通宝の買い上げや東西間の交通の維持のために東海道筋などの宿場町の支援に乗り出している。
不作はさらに翌19年(西暦1642年)も続き、 百姓の逃散や身売など飢饉の影響が顕在化しはじめると、 幕府は対策に着手した。
同年5月、 将軍徳川家光は諸大名に対し、 領地へおもむいて飢饉対策をするように指示し、 翌6月には諸国に対して、 倹約のほか米作離れを防ぐために煙草の作付禁止や身売りの禁止、 酒造統制(新規参入及び在地の酒造禁止及び都市並びに街道筋での半減)、 雑穀を用いるうどん・切麦・そうめん・饅頭・南蛮菓子・そばきりの製造販売禁止、 御救小屋の設置など、 具体的な飢饉対策を指示する触を出した。
これは、 キリシタン禁制と並び、 幕府が全国の領民に対して直接下した法令として着目されている。
またこうした政策は後の江戸幕府における飢饉対策の基本方針とされるようになる。
なおこのとき、 譜代大名を飢饉対策のために、 領国に帰国させたことがきっかけとなって、 譜代大名にも参勤交代が課せられるようになった。

寛永19年末から翌20年(西暦1643年)にかけて餓死者は増大し、 江戸をはじめ三都への人口流動が発生。
幕府や諸藩は飢人改を行い、 身元が判別したものは各藩の代官に引渡した。
また米不足や米価高騰に対応するため、 大名の扶持米を江戸へ廻送させた。
3月には田畑永代売買禁止令を出した。

大飢饉の背景としては、 西暦1630年代から西暦1640年代における東アジア規模での異常気象のほか、 江戸時代初期の武士階級の困窮、 参勤交代や手伝普請、 将軍の上洛や日光社参などのように、 武断政治を進めるための幕府や藩の多額の出費、 年貢米を換金する市場の不備などが、 様々な要因があげられる。

幕府は武士の没落を驕りや奢侈によるものととらえ、 武家諸法度などで倹約を指示していた。
例えば、 西暦1635年の武家諸法度改正で、 幕府は参勤交代を1年交代で行うように義務付けているが、 その一方で参勤交代にあまり費用をかけすぎないように呼び掛けている。
武士の困窮は百姓に対するさらなる収奪を招き、大飢饉の下地になったと言われる。

島原の乱から寛永の飢饉、 牢人の不満を背景として徳川家綱への代替わりの時に起こった討幕計画である慶安の変などを契機に幕府は武断政治の限界を思い知らされた。
そして幕政は、 百姓撫育(百姓成立ともいう。すなわち百姓が戦乱と飢饉から解放されて、安定した生活を営めるような状況の確立)を推し進め、 諸大名に課せられていた普請役は激減し、 参勤交代に代替された。
また諸藩も遅れて藩政改革に乗り出た。

明暦の大火 西暦1657年3月2日 - 4日(明暦3年旧暦1月18日 - 20日)

明暦の大火(めいれきのたいか)は、 明暦3年旧暦1月18日から20日(西暦1657年3月2日 - 4日)までに江戸の大半を焼いた大火災。
かつてはこの年の干支から丁酉火事(ひのととりのかじ)、 出火の状況から振袖火事(ふりそでかじ)、 火元の地名から丸山火事(まるやまかじ)などとも呼んだ。

明暦の大火・明和の大火・文化の大火を江戸三大大火と呼ぶが、 明暦の大火における被害は延焼面積・死者ともに江戸時代最大であることから、 江戸三大大火の筆頭としても挙げられる。
外堀以内のほぼ全域、 天守を含む江戸城や多数の大名屋敷、市街地の大半を焼失し、 死者数については諸説あるが3万から10万と記録されている。 この大火で焼失した江戸城天守は、その後、再建されることがなかった。

関東大震災・東京大空襲などの戦禍・震災を除くと日本史上最大の火災であり、 ローマ大火・ロンドン大火・明暦の大火を世界三大大火とする場合もある。
明暦の大火を契機に江戸の都市改造が行われ、 御三家の屋敷が江戸城外に転出するとともに、 それに伴って武家屋敷・大名屋敷、寺社が移転した。

また、 市区改正が行われるとともに、 防衛のため千住大橋だけであった隅田川の架橋(両国橋や永代橋など)が行われ、 隅田川東岸に深川など市街地が拡大されるとともに、 吉祥寺や下連雀など郊外への移住も進んだ。
さらに防災への取り組みも行われ、 火除地や延焼を遮断する防火線として広小路が設置された。
現在でも上野広小路などの地名が残っている。
幕府は防火のための建築規制を施行し、 耐火建築として土蔵造や瓦葺屋根を奨励した。

もっとも、 その後も板葺き板壁の町屋は多く残り、 「火事と喧嘩は江戸の華」と言われる通り、 江戸はその後もしばしば大火に見舞われた。

状況

この火災の特記すべき点は火元が1か所ではなく、 本郷・小石川・麹町の3か所から連続的に発生したもので、 ひとつ目の火災が終息しようとしているところへ次の火災が発生し、 結果的に江戸市街の6割、 家康開府以来から続く古い密集した市街地においては、 その全てが焼き尽くされたことである。

このことは、のちに語られる2つの放火説の有力な根拠のひとつとなっている。

3回の出火の経過は以下のようであったと考えられている。

復旧

火災後、 身元不明の遺体は幕府が本所牛島新田に船で運び埋葬し、 供養のため現在の回向院が建立された。
また幕府は米倉からの備蓄米放出、 食糧の配給、 材木や米の価格統制、 武士・町人を問わない復興資金援助を行った。
松平信綱は合議制の先例を廃して老中首座の権限を強行し、 1人で諸大名の参勤交代停止および早期帰国(人口統制)などの施策を行い、 災害復旧に力を注いだ。
松平信綱は米相場の高騰を見越して、 幕府の金を旗本らに時価の倍の救済金として渡した。
それを受けて、 地方の商人が江戸で大きな利益を得られるとして米を江戸に送り、 幕府が直接に商人から必要数の米を買いつけて府内に送ったため、 府内に米が充満して米価も下がった。

諸説ある火元
本妙寺失火説
本妙寺の失火が原因とする説は、以下のような伝承に基づく。なお、この伝承が振袖火事の別名の由来にもなっている。

お江戸・麻布の裕福な質屋・遠州屋の娘・梅乃(数え17歳)は、本郷の本妙寺に母と墓参りに行ったその帰り、上野の山ですれ違った寺の小姓らしき美少年に一目惚れ。ぼうっと彼の後ろ姿を見送り、母に声をかけられて正気にもどり、赤面して下を向く。梅乃はこの日から寝ても覚めても彼のことが忘れられず、恋の病か、食欲もなくし寝込んでしまう。名も身元も知れぬ方ならばせめてもと、案じる両親に彼が着ていたのと同じ、荒磯と菊柄の振袖を作ってもらい、その振袖をかき抱いては彼の面影を思い焦がれる日々だった。しかし痛ましくも病は悪化、梅乃は若い盛りの命を散らす。両親は葬礼の日、せめてもの供養にと娘の棺に生前愛した形見の振袖をかけてやった。

当時、棺にかけられた遺品などは寺男たちがもらっていいことになっていた。この振袖は本妙寺の寺男によって転売され、上野の町娘・きの(16歳)のものとなる。ところがこの娘もしばらくして病で亡くなり、振袖は彼女の棺にかけられて、奇しくも梅乃の命日にまた本妙寺に持ち込まれた。寺男たちは再度それを売り、振袖は別の町娘・いく(16歳)の手に渡る。ところがこの娘もほどなく病気になって死去、振袖はまたも棺にかけられ、本妙寺に運び込まれてきた。

さすがに寺男たちも因縁を感じ、住職は問題の振袖を寺で焼いて供養することにした。住職が読経しながら護摩の火の中に振袖を投げこむと、にわかに北方から一陣の狂風が吹きおこり、裾に火のついた振袖は人が立ち上がったような姿で空に舞い上がり、寺の軒先に舞い落ちて火を移した。たちまち大屋根を覆った紅蓮の炎は突風に煽られ、一陣は湯島六丁目方面、一団は駿河台へと燃えひろがり、ついには江戸の町を焼き尽くす大火となった。

この伝承は、矢田挿雲が細かく取材して著し、小泉八雲も登場人物名を替えた小説を著している。伝説の誕生は大火後まもなくの時期であり、同時代の浅井了意は大火を取材して「作り話」と結論づけている。
幕府放火説
江戸の都市改造を実行するため、幕府が放火したとする説。

当時の江戸は急速な発展による人口の増加にともない、 住居の過密化をはじめ、 衛生環境の悪化による疫病の流行、 連日のように殺人事件が発生するほどに治安が悪化するなど都市機能が限界に達しており、 もはや軍事優先の都市計画ではどうにもならないところまで来ていた。 しかし、 都市改造には住民の説得や立ち退きに対する補償などが大きな障壁となっていた。 そこで幕府は大火を起こして江戸市街を焼け野原にしてしまえば都市改造が一気にできるようになると考えたのだという。 江戸の冬はたいてい北西の風が吹くため放火計画は立てやすかったと思われる。 実際に大火後の江戸では都市改造が行われている。 一方で、先述のように江戸城にまで大きな被害が及ぶなどしており、 幕府放火説の真偽はともかく、 幕府側も火災で被害を受ける結果になっている。
本妙寺火元引受説
本来、火元は老中・阿部忠秋の屋敷だった。しかし「火元は老中屋敷」と露見すると幕府の威信が失墜してしまうため、幕府が要請して「阿部邸に隣接する本妙寺が火元」ということにして、上記のような話を広めたとする説。

これは、火元であるはずの本妙寺が大火後も取り潰しにあわなかったどころか、元の場所に再建を許されたうえに触頭にまで取り立てられ、大火前より大きな寺院となり、さらに大正時代にいたるまで阿部家が多額の供養料を年ごとに奉納していることなどを論拠としている。江戸幕府廃止後、本妙寺は「本妙寺火元引受説」を主張している。
影響
宝永大噴火 西暦1707年10月28日(宝永4年10月4日)
宝永大噴火(ほうえいだいふんか)は、 江戸時代中期の西暦1707年10月28日 (宝永4年10月4日) に起きた富士山の噴火である。 現在、 富士山の噴火としては最も新しいものであるとともに、 記録が残されている10回の中でも最大のものとされる。 噴火は約2週間続き、総噴出量は、約0.7 km3 DREと推定されている。 火山を専門とする分野では単に「宝永噴火」と書く場合が多い。

噴火による直接の死者は記録されていないが、 噴煙から降下した火山砕屑物スコリア火山灰)による火災やそれらの急激な堆積などで、 主に富士山から東側の地域で甚大な被害が発生した。

宝永大噴火は、 富士山の三大噴火の一つであり、 他の二つは平安時代に発生した「延暦の大噴火(800年 - 802年)」と「貞観の大噴火(864年 - 866年)」である。 宝永大噴火以後、 現在に至るまで富士山は噴火していない。

噴煙の高さが上空20kmと推定される。 実際に100km離れた江戸にも火山灰が積もった。 ただし溶岩の流下は見られていない。 地下20km付近のマグマが滞留することなく上昇したため、 脱水および発泡と脱ガスがほとんど行われず、 爆発的な噴火となった。

噴火がみられたのは富士山の東南斜面であり、 合計3つの火口が形成された(宝永山)。 これらは標高の高い順に第一、第二、そして第三宝永火口とよばれ、 互いに重なり合うように並んでいる。 ただし麓から見ると最も大きい第一火口のみが目立つ。 なお、宝永山は登山道が整備されているため登山が可能である。

享保の大飢饉 西暦1732年(享保17年)
享保の大飢饉 西暦1732年享保17年)

江戸四大飢饉の一。(寛永の大飢饉享保の大飢饉天明の大飢饉天保の大飢饉
西暦1731年1731年(享保16年)末より天候が悪く、 年が明けても5月、6月まで雨と低温がつづくなど悪天候が続いた。
西暦1732年享保17年)夏、 冷夏と害虫により中国・四国・九州地方の西日本各地が凶作に見舞われ、 とりわけ西海道(九州地方)の被害が深刻であり、 瀬戸内海沿岸一帯もまた甚大な被害を受けた。 梅雨からの長雨が約2か月間にも及び、冷夏をもたらした。 このため、ウンカなどの害虫が稲作に甚大な被害をもたらし、 蝗害(こうがい)として記録された。

なお、江戸においても被害があり、 この飢饉の死者の供養のために隅田川花火大会が始まったという言説が広く流布しているが、 これは俗説で、享保の大飢饉と隅田川花火大会は無関係である。

被害は西日本諸藩のうち46藩にも及んだ。 46藩の総石高は236万石であるが、 この年の収穫はわずか27パーセント弱の63万石程度であった。 餓死者は1万2000人にも達した。 また、幕領内67万人、諸藩は197万人、 あわせて250万人強の人々が飢餓に苦しんだといわれる。 江戸・大坂・京都・伏見・奈良・大津・長崎などの各都市に流入した窮乏民も多かった。 福岡藩領内では約10万人が餓死し、 施粥などを求めて福岡城下に流入した農民が多数行き倒れた。 餓死者を追悼する飢人地蔵が、 福岡市中央区南公園や博多区中洲などにある。

享保・天明・天保の三大飢饉については、 名古屋の浮世絵師小田切春江が『凶荒図録』を著し、 諸書を引用しながら被害の惨状と逸話を図入りで紹介している。 『凶荒図録』には、 身なりも立派で金100両を持っていた人物が路傍で餓死した事例も紹介されている。 ...

西暦1733年享保18年)正月、 飢饉による米価高騰に困窮した江戸市民によって享保の打ちこわしが起こった。 これには窮民2,3000人が参加する大規模なものであった。 江戸幕府第8代征夷大将軍の徳川吉宗は、 本百姓の保護のため、 これまで米価引き上げ政策を続け、 米市場にも介入していたが、 米価高騰のため食糧を入手できない人が増えたため、 従来の方針を改め、 非常手段として米価引き下げ政策に転じた。 幕府は、 大名に対しては金銀の貸与・在府諸役の免除・参勤交代の緩和などの措置をとって被害の緩和に努め、 民間に対してはコメの買い占めを禁止して囲米の強制的な放出、 酒造制限などをおこなった。 富裕な町家や寺社には飢餓民救済を促し、 蝗虫予防薬の販売推進や蝗害除去の祈祷もおこなわせている。

凶作の被害が深刻であった瀬戸内海沿岸地域にあって、 大三島だけは下見吉十郎がもたらした甘藷(サツマイモ)によって餓死者を出すことはなく、 それどころか余った米を伊予松山藩に献上する余裕があった。 九州地方でも、 島津氏の薩摩藩領のみは飢民が生じなかったといわれる。 60歳という高齢で勘定役から大森代官(石見銀山および備中国・備後国に散在する天領の管理)に抜擢された井戸正明(井戸平左衛門)は窮民救済のため数々の施策をおこなった幕僚として知られ、 飢饉対策の作物としてのサツマイモの効能にもいち早く気づき、 「芋代官」と称された。

将軍徳川吉宗は米以外の穀物の栽培を奨励し、 試作を命じられた青木昆陽らによって小石川薬園や吹上御苑で甘藷栽培を行い、 やがて東日本各地にも甘藷栽培が広く普及した。

明和の大火 西暦1772年(明和9年)
明和の大火(目黒行人坂大火)  西暦1772年4月1日(明和9年2月29日)

西暦1772年4月1日(明和9年2月29日) に江戸で発生し、 明暦の大火、 文化の大火と共に江戸三大大火の1つといわれる。
目黒行人坂(現在の東京都目黒区下目黒一丁目付近)から出火したため、 目黒行人坂大火とも呼ばれる。

「明暦3年、明和9年、文化3年各出火記録控」によると、 出火元は目黒の大円寺。 出火原因は、武州熊谷無宿の真秀という坊主による放火である。 真秀は火付盗賊改長官である長谷川宣雄(長谷川宣以の父親)の配下によって明和9年(1772年)4月ごろに捕縛され、 西暦1772年7月21日(明和9年6月21日) に市中引き回しの上、小塚原で火刑に処された。

4月1日(2月29日)13時ごろに目黒の大円寺から出火した炎は南西からの風にあおられ、 麻布、京橋、日本橋を襲い、江戸城下の武家屋敷を焼き尽くし、 神田、千住方面まで燃え広がった。 一旦は小塚原付近で鎮火したものの、 18時ごろに本郷から再出火。 駒込、根岸を焼いた。 4月2日(30日)の昼ごろには鎮火したかに見えたが、 4月3日(3月1日)の10時ごろ馬喰町付近からまたもや再出火、 東に燃え広がって日本橋地区は壊滅した。

類焼した町は934、大名屋敷は169、橋は170、寺は382を数えた。 山王神社、神田明神、湯島天神、浅草本願寺、湯島聖堂も被災した。

死者は1万4700人、行方不明者は4000人を超えた。 老中になったばかりの田沼意次の屋敷も類焼した。

天明の大飢饉 西暦1782年(天明2年)
天明の大飢饉  西暦1782年天明2年) - 西暦1788年天明8年)

江戸四大飢饉の一。(寛永の大飢饉享保の大飢饉、天明の大飢饉、天保の大飢饉
西暦1782年天明2年)から 西暦1782年天明2年) にかけての全国的飢饉。
西暦1782年天明2年)は天候不順で凶作、 翌天明3年は春から冷雨が続き、 さらに洪水、 浅間山の大噴火のため大凶作となった。
天明4年-天明6年も不作で慢性的な大飢饉となり、 各地で餓死、行き倒れ、病死が続出、 なかでも関東、奥羽地方は草根、牛馬はもちろん犬猫、 あるいは人肉すら食うという惨状を呈した。 このため逃亡、騒動、一揆が諸所に頻発、 老中田沼意次失脚の一因となるとともに、 東北諸藩の藩政改革推進の契機となった。 ...

東北地方は1770年代から悪天候や冷害により農作物の収穫が激減しており、 すでに農村部を中心に疲弊していた状況にあった。
天明2年(1782年)から3年にかけての冬には異様に暖かい日が続いた。 道も田畑も乾き、時折強く吹く南風により地面はほこりが立つ有様だった。 空は隅々まで青く晴れて、冬とは思えない暖気が続き、 人々は不安げに空を見上げることが多くなった。 約30年前の宝暦年間(1751年 - 1763年)の4年、5年、13年の凶作があったときの天気と酷似していた。 こうした中、天明3年3月12日(1783年4月13日)には岩木山が、 7月6日(8月3日)には浅間山が噴火し、 各地に火山灰を降らせた。 火山の噴火は、それによる直接的な被害にとどまらず、 成層圏に達した火山噴出物が陽光を遮ったことによる日射量低下で冷害をさらに悪化させることになり、 農作物には壊滅的な被害が生じた。 このため、翌年から深刻な飢饉状態となった。

被害は東北地方の農村を中心に、 全国で数万人(推定約2万人)が餓死したと杉田玄白は『後見草』で伝えているが、 死んだ人間の肉を食い、 人肉に草木の葉を混ぜ犬肉と騙して売るほどの惨状で、 ある藩の記録には「在町浦々、道路死人山のごとく、目も当てられない風情にて」と記されている。 しかし、 諸藩は失政の咎(改易など)を恐れ、 被害の深刻さを表沙汰にさせないようにしたため、実数はそれ以上とみられる。
被害は特に陸奥でひどく、弘前藩の例を取れば死者が10数万人に達したとも伝えられており、 逃散した者も含めると藩の人口の半数近くを失う状況になった。 飢餓とともに疫病も流行し、 全国的には1780年から1786年の間に92万人余りの人口減を招いたとされる。

農村部から逃げ出した農民は各都市部へ流入し治安が悪化した。 それ以前の1786年には異常乾燥と洪水が起こっていたことも重なり、 1787年(天明7年)5月には、 江戸や大坂で米屋への打ちこわしが起こり、 江戸では千軒の米屋と8千軒以上の商家が襲われ、 無法状態が3日間続いたという。 その後全国各地へ打ちこわしが波及した。 これを受け、7月に幕府は寛政の改革を始めた。

文化の大火 西暦1806年(文化3年)
文化の大火(ぶんかのたいか)  西暦1806年4月22日(文化4年3月4日)

明暦の大火明和の大火 と共に江戸三大大火の一つといわれる。
丙寅の年に出火したため、丙寅の大火とも呼ばれる。
通称車町火事・牛町火事。

出火元は芝・車町(現在の港区高輪2丁目)の材木座付近。 午前10時頃に発生した火は、 薩摩藩上屋敷(現在の芝公園)・増上寺五重塔を全焼。 折しも西南の強風にあおられて木挽町・数寄屋橋に飛び火し、 そこから京橋・日本橋の殆どを焼失。
更に火勢は止むことなく、神田、浅草方面まで燃え広がった。

翌5日の降雨によって鎮火したものの、 延焼面積は下町を中心に530町に及び、 焼失家屋は12万6000戸、死者は1200人を超えたと言われる。
このため町奉行所では、 被災者のために江戸8か所に御救小屋を建て炊き出しを始め、 11万人以上の被災者に御救米銭(支援金)を与えた。

この大火のため大相撲の文化3年2月場所は5日目で中断に追い込まれている。
天保の大飢饉 西暦1833年(天保4年)
天保の大飢饉(てんぽうのだいききん)  西暦1833年天保4年) - 西暦1839年天保10年)

江戸四大飢饉の一(寛永の大飢饉享保の大飢饉天明の大飢饉、天保の大飢饉)。
寛永の大飢饉を除いた江戸三大飢饉の一つにも数えられる。

西暦1833年天保4年)から 西暦1836年天保7年)にかけての全国的飢饉。
西暦1838年天保9年)とする説もある。

西暦1833年天保4年)、 関東、奥羽地方は大風雨、洪水、 冷害に見舞われ作柄は全国平均3~7分作となり、

西暦1834年天保5年)~ 西暦1835年天保6年)も全国的に不作、

西暦1836年天保7年)天候不順で3~4分作となった。

このため米価をはじめ諸物価は高騰、 都市、農村を問わず餓死、行倒れ、離散が相次ぎ惨状をきわめた。 幕府は窮民救済や米価引下げなどを行なったが不十分であったため、 大坂では大塩平八郎の乱が、 また諸国でも一揆、 打毀 (うちこわし) が続発し幕藩体制に深刻な影響を与えた。 ...

天保の飢饉は、 江戸時代後期の西暦1833年天保4年)に始まり、 西暦1835年天保6年)から 西暦1837年天保8年)にかけて最大規模化した飢饉である。 西暦1839年天保10年)まで続いた。 西暦1837年天保8年)までと定義する説もある。

主な原因は西暦1833年天保4年)の大雨による洪水や冷害による大凶作であった。
東北地方(陸奥国と出羽国)の被害が最も大きくかった。

19世紀前半は太陽活動が低調だったことに加えて、 仙台藩士の花井安列が書き残した日記の西暦1835年4月の項に、 このところ日の出が赤い旨の記述があり、 日本から見てほぼ地球の反対側にある中米ニカラグアにあるコシグイナ火山で同年1月に起きた大噴火による日傘効果による気温低下が冷害を悪化させた可能性が指摘されている。

特に仙台藩の場合は盛んに新田開発を行い、 100万石を超える実高を有していたが、 米作に偏った政策を行っていたため被害が甚大であった。
領内では藩札の信用が落ち、 小判が使われるようになったことで市中では現金が不足して物価が高騰、 領内は悪性のインフレに陥った。
仙台藩は城下の商人に他藩から米を買い付けるように依頼した他、 領内に店を出していた近江商人の中井家に2万両の確保を依頼するなど、 民間の財力に大きく依存することとなった。

藩では対策として西暦1845年に施粥所を設置、 城下でも町ごとに日懸銭で米の備蓄制度を始め、 昭和初期まで続いた。

50年前の天明の大飢饉と比較して、 凶作対策が行われたため死者の数は少なかったが、 商品作物の商業化で農村に貧富の差が拡大したため、 貧困の百姓が多く餓死した。
徳川幕府は救済のため、 江戸では市中21か所に御救小屋(5800人収容)を設置したが、 救済者は70万人を超えた。
米価急騰も引き起こしたため、 各地で百姓一揆や打ちこわしが頻発し、 天保7年6月に幕府直轄領である甲斐国一国規模の百姓一揆となった天保騒動や、 天保8年2月に大坂で起こった大塩平八郎の乱の原因にもなった。
特に大坂では、毎日約150人から200人を超える餓死者を出していたという。

京都では東町奉行組与力平塚瓢斎が企画発案し、 鳩居堂主人熊谷直恭、 教諭所儒者北小路三郎の協力のもと、 鴨川三条橋の南に御救小屋を設置した救援事業が知られる。
この事業は天保8年(1837年)正月から翌年3月までの間に1480余人の流民を救援し、 うち974人が寺院に埋葬された。
その様子を詳細に描いた絵師小沢華岳筆『荒歳流民救恤図』原本(著色紙本、1巻)は京都の山本読書室資料に伝わっているが、 明治32年(1899年)に渡辺崋山筆とする偽物が作り出され流布した。

一方、犠牲者を一人も出さなかったと伝えられる藩もある。 たとえば田原藩では、 家老の渡辺崋山が師であった佐藤信淵の思想をもとにした『凶荒心得書』を著して藩主に提出し、 役人の綱紀粛正と倹約、 民衆の救済を最優先すべきことと説き、 給与改革や義倉の整備を実行して成果をあげた。
また米沢藩でも天明の大飢饉の教訓を生かして義倉の整備や「かてもの」という救荒食の手引書を作成して配布するなどの事前対策が取られていた。

大塩平八郎の乱 西暦1837年(天保8年)
大塩平八郎の乱  西暦1837年天保8年)

大塩平八郎が 西暦1837年天保8年)に 大坂で起した反乱。 前年(天保7年)の大飢饉で大坂にも餓死者が続出したが、 東町奉行跡部山城守良弼はなんら救済策を講じることなく、 かえって大量の米を江戸へ回送したため、 米を買占めた豪商らは暴利を博した。

大塩は再三跡部に救済の嘆願を行なったが聞き入れられなかったので、憤慨し、 ひそかに門弟の与力や同心、近辺の富農らとはかり、 同8年2月 19日、挙兵の計画を立てた。 大塩は挙兵に先立って蔵書を売払い金 620両を得、 これを窮民1万軒に1朱ずつ分配した。

挙兵とともに大塩一党は近隣の農民に檄を飛ばして参加を呼びかけ、 およそ 300人とともに天満に放火して気勢をあげ、 船場に近い豪商を襲って金穀を奪った。 これに対し、大坂城代土井 (どい) 大炊頭利位は隣接諸藩に来援を求め、 城兵は西町奉行堀伊賀守利堅の指揮下に銃をもって応戦し鎮圧した。 この乱で大坂市内の家屋1万戸が焼失した。 大塩らは逃れて市内に潜伏したが、 まもなく相次いで逮捕され、 あるいは自首し、 平八郎も隠れ家を襲われて3月、自決した。

大塩の乱をきっかけとして、 越後の生田万の乱 (いくたよろずのらん) など、 各地に暴動が起った。

黒船来航

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