飛鳥時代(あすかじだい)
作成日:2019/10/5
年表
- 西暦531年(継体天皇25年)
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- 西暦534年(安閑天皇元年)
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- 西暦535年(安閑天皇2年)
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- 西暦536年(宣化天皇元年)
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- 西暦537年(宣化天皇2年)
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- 1月14日 (宣化天皇2年12月18日)???。宣化天皇 即位。
- 大伴磐・大伴連狭手彦らを任那救援に派遣。
- 西暦538年(宣化天皇3年)
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- 西暦539年(宣化天皇4年)
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- 西暦540年(欽明天皇元年)
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- 大伴金村、任那問題を巡り失脚。
- 渡来人(秦人・漢人)の戸籍を作成。
- 12月30日(欽明天皇元年12月5日)欽明天皇 即位。
- 西暦552年(欽明天皇13年)
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- 西暦553年(欽明天皇14年)
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- 西暦554年(欽明天皇15年)
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- 西暦562年(欽明天皇23年)
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- 新羅の真興王によって大伽耶を滅ぼされ、拠点を失う。
- 西暦567年(欽明天皇28年)
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- 『日本書紀』に、諸国に大水があり飢饉が発生した記録が残る。
- 西暦570年(欽明天皇28年)
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福岡県福岡市西区の元岡古墳群G6号墳に納められた象嵌入り鉄製大刀(庚寅銘大刀)に、
「大歳庚寅正月六日庚寅」の日付が現れる(西暦2011年9月21日、福岡市教育委員会発表)。
「大歳庚寅」は西暦570年にあたり、
1月6日 (旧暦)は、ユリウス暦の1月27日である。
これは暦使用の実例としては日本最古の文字であり、
宋からもたらされた元嘉暦だとされている。
- 西暦571年(欽明天皇32年)
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- 5月24日(欽明天皇32年4月15日)欽明天皇 崩御。63歳。
- 西暦572年(敏達天皇元年)
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- 西暦577年(敏達天皇6年)
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- 西暦585年(敏達天皇15年)
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- 4月 5日(敏達天皇14年3月 1日)。仏教排斥を唱える物部守屋が、疫病の流行が原因が仏教崇拝にあると奏上。
- 9月14日(敏達天皇14年8月15日)。敏達天皇 崩御。47歳。
- 10月 3日(敏達天皇14年9月 5日)。用明天皇 即位。
- 西暦586年(用明天皇元年)
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- 西暦587年(用明天皇2年)
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4月2日。用明天皇は病になり仏法を信奉したいと欲し群臣に諮った。
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排仏派の物部守屋は反対したが、崇仏派の蘇我馬子は詔を奉じて助けるべきとして、
穴穂部皇子に僧の豊国を連れて来させた。
物部守屋は自分が推していた穴穂部皇子が法師を連れてきたことに大いに怒り、睨みつけた。
その後、物部守屋は群臣から命を狙われていると知らされて、
別業の阿都(河内国)へ退いた。
- 5月21日(用明天皇2年4月9日)用明天皇 崩御。48歳。
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(用明天皇2年6月7日)、蘇我馬子は炊屋姫を奉じて、佐伯連丹経手、土師連磐村、的臣真噛に速やかに穴穂部皇子と宅部皇子を誅殺するよう命じた。
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その日の夜半、
佐伯連丹經手らは穴穂部皇子の宮を囲んだ。
穴穂部皇子は楼を登ってきた衛士に肩を斬られると、
楼から落ちて隣家へ走り入ったが、
灯をかかげた衞士らによって探し出され殺害された。
なお、翌8日には穴穂部皇子と仲が良かった宅部皇子も誅殺され、
同年7月には馬子によって物部守屋も滅ぼされている。
- 7月。蘇我馬子、厩戸皇子らが物部守屋を滅ぼす(丁未の乱)
- 9月9日(用明天皇2年8月2日)崇峻天皇 即位。
- 西暦588年(崇峻天皇元年)
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- 西暦592年(崇峻天皇5年)
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- 崇峻天皇暗殺される。 日本史のなかで、臣下により暗殺されたと正史に明記されている唯一の天皇である。
- 西暦593年(推古天皇元年)
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- 西暦594年(推古天皇2年)
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- 西暦596年(推古天皇4年)
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- 西暦600年(推古天皇8年)
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- 西暦601年(推古天皇9年)
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- 西暦603年(推古天皇11年)
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- 西暦604年(推古天皇12年)
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- 西暦607年(推古天皇15年)
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(推古天皇15年7月3日)。『日本書紀』によれば、小野妹子らを隋に派遣した(初の遣隋使。大唐国と記載されていた)。
国書に「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」と記し煬帝が激怒。
『隋書』では西暦600年(推古天皇8年)の1回目に続き2回目と記載されている。
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聖徳太子と推古天皇により法隆寺が建てられた。
聖徳太子の父である用明天皇の願いであった寺院建立と薬師像の安置をかなえるために、
法隆寺を創建した。
もともと聖徳太子は斑鳩の地に斑鳩宮を建てており、
その西隣に法隆寺を建設。
それ以外にも、尼寺として建てられた中宮寺、
聖徳太子が法華経を講じた岡本宮の跡地に建立された法起寺など、
太子ゆかりの寺院がある。
- 西暦608年(推古天皇16年)
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- 西暦622年(推古天皇30年)
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- 西暦626年(推古天皇30年)
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- 西暦628年(推古天皇36年)
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- 4月15日(3月7日)。推古天皇 崩御。遺詔を巡って群臣争う。
- 西暦629年(舒明天皇元年)
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- 西暦630年(舒明天皇2年)
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8月。犬上御田鍬らを遣唐使に派遣(第1次遣唐使)。帰国は西暦632年8月。
- 西暦641年(舒明天皇13年)
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- 西暦642年(舒明天皇13年)
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- 西暦643年(皇極天皇2年)
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蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒したという。
- 西暦645年(皇極天皇4年)
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- 7月10日(6月12日)。中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。(乙巳の変)
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7月11日(6月13日)。蝦夷は舘に火を放ち『天皇記』、『国記』、その他の珍宝を焼いて自殺した。
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船恵尺がこの内『国記』を火中から拾い出して中大兄皇子(のちの天智天皇)へ献上した。
こうして長年にわたり強盛を誇った蘇我本宗家は滅びた。
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7月12日(6月14日)。皇極天皇は軽皇子へ譲位し、
孝徳天皇が即位した。
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中大兄皇子(のちの天智天皇)は皇太子に立てられた。
中大兄皇子は阿倍内麻呂を左大臣、
蘇我倉山田石川麻呂を右大臣、中臣鎌足を内臣に任じ、
後に「大化の改新」と呼ばれる改革を断行する。
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7月17日(6月19日)。日本で初めての元号「大化」を制定。
- 西暦646年(大化元年)
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1月1日(大化元年12月9日)。孝徳天皇は、中大兄皇子(のちの天智天皇)の反対を押し切り、都を難波宮に移した。
- 孝徳天皇は、中大兄皇子(のちの天智天皇)の反対を押し切り、都を難波宮に移した。
- 結局、中大兄皇子(のちの天智天皇)は、西暦653年(白雉4年)に、孝徳天皇を残して板蓋宮へ遷ってしまうことになる。
- 西暦646年(大化2年)
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- 西暦649年(大化5年)
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- 3月、蘇我日向の密告を受け、蘇我倉山田石川麻呂を謀反の疑いにて自害に追い込む
- 西暦653年(白雉4年)
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- 西暦654年(白雉5年)
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- 西暦655年(斉明天皇元年)
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- 西暦656年(斉明天皇2年)
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- 西暦658年(斉明天皇4年)
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(斉明天皇4年4月)。越国守であった阿倍比羅夫が蝦夷・粛慎征討を行った。『日本書紀』
- この征討は660年(斉明天皇6年5月)にかけて行われた。
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12月11日(11月11日)。孝徳天皇の遺児・有間皇子が謀反の罪にて絞首刑に処される。
- 皇太子である中大兄皇子(のちの天智天皇)は、蘇我赤兄から有馬皇子に謀反の企てがあるとの密告を受ける。
- 有間皇子はこの前々日に、牟婁の湯に行幸中の斉明天皇のもとへ護送され、中大兄皇子(のちの天智天皇)から尋問された。
- 有間皇子は飛鳥へと送還される途中、熊野古道紀伊路の有間皇子の墓と歌碑がある。">藤白坂で絞首された。
- 西暦659年(斉明天皇5年)
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- 西暦660年(斉明天皇6年)
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- 百済が唐と新羅に攻め滅ぼされる。百済皇子の扶余豊璋を帰国させる。
- 西暦661年(斉明天皇7年)
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- 西暦663年(天智天皇2年)
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- 8月28日(天智天皇2年7月20日)。「白村江の戦い」で大敗する。
- 西暦664年(天智天皇3年)
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- 西暦667年(天智天皇63月19日年)
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- 西暦668年(天智天皇7年)
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2月20日(1月3日)。天智天皇 即位
- 天智天皇は新たな政治体制を発足させた。この政治体制を近江朝廷(おうみちょうてい)という。
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この年に制定した法令は、近江朝廷が制定した法令ということで『近江朝廷之令』または『近江令』と呼ばれるようになった。
(近江朝廷が滅亡した西暦672年(壬申の乱)に『近江令』が廃止されたとする意見がある。)
- (1月)。大海人皇子を皇太弟とする。
- (10月)。高句麗が唐と新羅に攻め滅ぼされる。
- 新羅の文武王の代に使節を送った。
- 西暦669年(天智天皇8年)
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- 10月。天智天皇。中臣鎌足が亡くなる前日に大織冠と大臣の位を授け、藤原の姓を与える。
- この年、河内鯨らを遣唐使に任ずる。唐使郭務悰ら2千余人来るという。
- 西暦670年(天智天皇9年)
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- 年初(天智天皇8年12月)。近江宮内の大蔵や斑鳩寺(法隆寺)で火災発生。
- (2月)。全国的に戸籍を作る(庚午年籍)。
- 5月24日(4月30日)。法隆寺全焼。
- (12月)。『三国史記(新羅本紀)』に「倭国が国号を日本と改めた」とされている。
- 天智天皇は、新羅の文武王の代に使節を送った。
- 背に申の字が書かれた亀を発見(壬申の乱を暗示するとされる)。
- 西暦671年(天智天皇10年)
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『近江令』の官製を制定。
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『日本書紀』天智10年(西暦671年)11月の条に、
大友皇子を太政大臣、蘇我赤兄・中臣金を左右大臣、蘇我果安以下三人を御史大夫とした。
(御史大夫は、新しい官名で、後の納言の前身で、大化前代以来、大臣・大連の下にあった国政参議官)
とある。
- 新しく太政大臣を置いた。
- 4月17日(3月3日)。水準器が献上される。
- 4月。筑紫で8本の足を持つ鹿が発見されたとの報告が入る(多足動物は五行思想で奸臣の存在を意味する)
- 6月7日(4月25日)。漏刻台が完成(グレゴリオ暦では6月10日、「時の記念日」)。
- 9月。天智天皇、病を得る。
- 11月14日(10月8日)。内裏で百仏(もものほとけ)の開眼
- 11月23日 (10月17日)。 大海人皇子(のちの天武天皇)が吉野に退隠(たいいん。職を退き、暇な身分となること)。
- 12月29日(11月23日)。内裏西殿の仏像の前にて蘇我赤兄、中臣金、蘇我果安、巨勢人、紀大人が大友皇子と病床の天智天皇の前で誓盟。
- 西暦672年(天武天皇元年)
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『日本書紀』は弘文天皇(の即位)を認めていないため、
この年は弘文天皇元年の表記はなく、
天武天皇元年となる。
そのため、天武天皇の即位前であっても「天武天皇元年」の表記が発生する。
ただし、西暦1870年(明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ、歴代天皇に列せられた。
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- 1月7日(天智天皇10年12月13日)。天智天皇 崩御。享年46歳。
- 1月9日(天智天皇10年12月5日) - 大友皇子が即位し、第39代天皇・弘文天皇となる。
- 7月22日(6月22日)。大海人皇子(のちの天武天皇)。村国男依・君手らを美濃の多品治のもとへ遣わし武器の調達を命令
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7月24日(6月24日)。
大海人皇子(のちの天武天皇)。
挙兵し(壬申の乱)吉野を出立。
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大分君恵尺、黄書大伴、逢志摩の3人を、
留守司・高坂王のもとへ遣わし駅鈴を求めるよう命じた。
このとき、
大海人皇子(のちの天武天皇)は「もし鈴を得られなかったら、志摩はすぐに還って復奏せよ。恵尺は急いで近江(大津京)に行き、高市皇子と大津皇子を連れ出し、伊勢で(私と)会え」と命じた。
恵尺らは高坂王のもとにいって駅鈴を求めたが得られなかった。
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大分君恵尺は、
命じられた通り、近江の高市皇子・大津皇子のもとへ向かった。
このとき、
高市皇子と大津皇子はそれぞれ別々の集団を作って脱出し、
高市皇子は翌25日に伊賀の積殖山口で大海人皇子一行に合流した。
大分恵尺は大津皇子に同行して伊勢に向かい、その日の深夜に鈴鹿関で大海人皇子の配下に制止された。鈴鹿関司は始め一行を山部王と石川王だと誤認したが、翌日に大津皇子と判明した。
- 7月26日(6月26日)。大海人皇子、朝明郡迹太川(とほがわ)の辺で天照大御神を望拝。
- 8月21日(7月23日)。大友皇子(弘文天皇)、長等山の山前にて縊死。壬申の乱終結。
- 10月8日(9月12日)。大海人皇子、飛鳥浄御原宮へ凱旋
- 西暦673年(天武天皇2年)
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- 3月20日(2月27日)。天武天皇が即位。
- 5月5日(4月14日)。大来皇女、天皇の命により泊瀬の斎宮に入る。
- 5月21日(5月1日)。官僚登用の制度に関する詔。才能のある者を適所に配置するよう命じたもの。
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日本最古の銅銭「富本銭」が鋳造された。
- 西暦674年(天武天皇3年)
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- 1月29日(天武天皇2年12月17日) - 美濃王らを高市大寺(大官大寺)造営の司に任命。
- 2月8日(天武天皇2年12月27日) - 僧・義成を小僧都とする。
- 4月17日(3月7日) - 対馬の国司が、日本で初めて産出された銀を朝廷に献上。
- 9月8日(8月3日) - 忍壁皇子、石上神宮に赴き武器庫の整理。
- 11月12日(10月9日) - 大来皇女、伊勢の斎宮へ群行(平安時代の制度で伊勢神宮の斎王が任地伊勢国へ下向すること)。
- 西暦675年(天武天皇4年)
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- 2月1日(1月1日)。大学寮の学生、陰陽寮・外薬寮・舎衛の女性、吐火羅列島の女性、百済・新羅人などが薬や珍宝を献上。
- 3月10日(2月9日)。畿内の農民のうち歌手、芸能人、道化者を募る詔。
- 3月14日(2月13日)。十市皇女・阿閇皇女、伊勢神宮に参詣。
- 3月16日(2月15日)。諸氏の部曲を廃止。
- 5月4日(4月5日)。僧尼2400人以上を召して法会。
- 5月7日(4月8日)。小錦下・久努臣麻呂ら、出仕差し止めを命じられる。
- 5月8日(4月9日)。公出挙の制度に関する詔。
- 5月13日(4月14日)。久努臣麻呂、官位剥奪。
- 5月16日(4月17日)。狩猟の規制、牛・馬・犬・猿・鶏の肉食を禁止する詔。
- 5月17日(4月18日)。三位・麻績王(麻続王)とその子を流刑。
- 8月3日(7月7日)。大伴国麻呂らを遣新羅使として派遣。
- 9月16日(8月22日)。台風による被害発生8月22日) - 台風による被害発生。
- 11月2日(10月10日)。宮中に保管していた神酒を群臣に振る舞い宴会を催す。
- 11月12日(10月20日)。相模国にて三つ子誕生。
- 11月25日(11月3日)。宮殿の東の丘の上で天武天皇を呪う言葉を残して自殺した者が発生。
- 西暦676年(天武天皇5年)
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- 新羅が朝鮮半島を統一。
- 飛鳥川上流の南淵山(現在の高取山)の森林伐採が禁止される。日本で最初の保安林的制度。
- 西暦678年(天武天皇7年)
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- 4月27日(4月1日) - 天武天皇、倉梯斎宮への行幸の日を占い、4月7日と出る。
- 5月3日(4月7日) - 早朝、天武天皇の行幸の一行が出発しようとするとき、十市皇女が突然発病し、宮中にて死亡したため、倉梯斎宮への行幸が不可能となり、結局、天神地祇を祭ることを断念。
- 5月10日(4月14日) - 十市皇女を赤穂に葬。天武天皇大いに発哀。
- 天神地祇を大規模に祭るため、全国的に大祓の儀式。斎宮が倉梯川の川上に建てる。
- 西暦679年(天武天皇8年)
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- 5月31日(5月6日)。草壁皇子・大津皇子・高市皇子・川島皇子・忍壁皇子・志貴皇子の6皇子、吉野の盟約。
- 西暦680年(天武天皇9年)
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- 西暦681年(天武天皇10年)
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3月19日(2月25日)。 天武天皇が飛鳥浄御原令の制定を命令。
草壁皇子立太子。
- 4月9日(3月16日)。 川島皇子・忍壁皇子らに歴史書の編纂を命令。
- 西暦682年(天武天皇11年)
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- 4月14日(3月2日)。陸奥国の蝦夷22人に爵位。
- 5月10日(3月28日)。服装に関する禁令を発し、従来の日本古来の冠・衣服を禁じ、中国の制度に変更。
- 6月3日(4月23日)。男子の髷、女子の垂髪を禁止。
- 6月22日(5月12日)。倭漢直ら、姓を賜わり連となる。
- 8月11日(7月3日)。薩摩隼人、大挙して朝廷に献上のため上京、相撲を披露。
- 9月(8月)。流星、虹などの異常現象や地震などが相次いで発生。
- 10月5日~10月6日(8月28日~29日)。氷高皇女が病にかかり、特赦を行い、140人余りを大官大寺に出家。
- 10月8日(9月2日)。宮中での跪礼・匍匐礼を禁止、唐風の起立礼を用いる詔。
- 一旦滅亡した東突厥が、唐から独立し再興。
- 日本書紀によれば日本人が手がけた初の辞書『新字』が完成したとされる。
- 西暦683年(天武天皇12年)
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- 3月4日(2月1日)。大津皇子、朝政を聴く。
- 4月3日(3月2日)。僧に関する制度を制定、僧正・僧都・律師の位が設けられる。
- 5月16日(4月15日)。銀銭を廃止し銅銭の使用を命じる(富本銭)。
- 5月19日(4月18日)。銀銭の使用を止めないよう命じる。
- 西暦684年(天武天皇13年)
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- 9月7日(7月23日)。ハレー彗星が観測される。日本国内では最古の記録。
- 11月13日(10月1日)。天武天皇は新たに「八色の姓」を定め、皇親政治を行う。
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11月26日(10月14日)。未曽有の大地震(白鳳地震、推定M 8~9)が発生し、諸国で民屋や官舎が倒潰、津波など甚大な被害。
南海トラフ巨大地震とされる。確認できる日本書紀による日本最古の津波記録。
- 西暦685年(天武天皇14年)
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- 3月1日(1月21日)。冠位四十八階制定。
- 5月5日(3月27日)。国々で家毎に仏舎を作り仏像と経典を置いて礼拝せよとの詔。
- 8月31日(7月26日)。朝服の色が初めて定められる。
- 10月27日(9月24日)。天武天皇が病を得たため、大官大寺・飛鳥寺・川原寺にて3日間の読経。
- 西暦686年(天武天皇15年)
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- 6月20日(5月24日)。天武天皇重態。川原寺で薬師経を説かせ、僧を宮中に安居。
- 7月29日(7月4日)。全国に課す調を半減、雑徭を免除。
- 8月9日(7月15日)。政を皇后・皇太子に託す。
- 8月14日(7月20日)。白雉以来32年間断絶していた日本の元号が再開、新元号は朱鳥と定められる。
- 8月16日(朱鳥元年7月22日)。元号を朱鳥に改元。
- 10月1日(朱鳥元年9月9日)。天武天皇崩御。第41代天皇・持統天皇が称制。
- 10月。大津皇子の変。
- 12月6日(朱鳥元年11月16日)。大来皇女、斎王の任を解かれ退下。
- 西暦687年(持統天皇元年)
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- 10月9日(8月28日)。高僧300人が飛鳥寺に召され、天武天皇の衣を使って縫った袈裟を賜わる。
- 西暦689年(持統天皇3年)
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- 1月26日(1月1日)。人民を大極殿に朝賀させる。
- 3月9日(2月13日)。防人を任期制・交代制とする。
- 7月21日(6月29日)。持統天皇が飛鳥浄御原令(あすかきよみはらりょう)を頒布。
- 西暦690年(持統天皇4年)
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- 1月23日(持統天皇3年12月8日)。持統天皇、双六を禁止。
- 2月14日(1月1日)。天武天皇の崩御後、称制していた?野皇女が即位して、正式に第41代天皇・持統天皇となる。
- 8月11日(7月1日)。官人の朝服が新たに切り替わる。
- 12月5日(10月29日)。高市皇子、藤原新都の予定地を視察。
- 戸令により、庚寅年籍を作る。
- 西暦691年(持統天皇5年)
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- 3月5日(2月1日)。公卿らに対し、仏法に精励するよう命じる詔。
- 12月19日(11月24日)。大嘗祭を執り行う。
- 西暦692年(持統天皇6年)
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- 3月4日(2月11日)。持統天皇、伊勢に行幸することを群臣に伝える。中納言大三輪朝臣高市麻呂がこれを諫める。
- 3月25日(3月3日)。伊勢行幸にあたり、広瀬王らを留守官とする。大三輪朝臣高市麻呂、再度これを諫めるが、持統天皇これを聞き入れず。
- 3月28日(3月6日)。持統天皇、伊勢へ向け出発。
- 4月11日(3月20日)。持統天皇、帰京。
- 6月23日(閏5月4日)。持統天皇、僧観成の造った白粉を褒め、褒賞。
- 8月19日(7月2日)。大赦令。
- 10月2日(8月17日)。持統天皇、病を得た明日香皇女の別邸に日帰りで出かける。
- 西暦693年(持統天皇7年)
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- 4月21日(3月11日)。持統天皇、藤原朝臣大嶋(中臣大島)に品を下賜。
- 4月27日(3月17日)。全国に対し、桑・梨・栗などの植物を植えることを奨励。
- 6月1日(4月22日)。官人の間で汚職事件発生。関与した者を解任・降格の処分。
- 6月23日(5月15日)。内裏にて大法会。
- 10月14日(9月10日)。内裏にて亡き天武天皇のための大法会。
- 12月16日(11月14日)。近江野洲郡で鉱泉が湧く。
- 西暦694年(持統天皇8年)
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- 4月15日(3月16日)。近江・野洲郡で湧いた鉱泉の薬効を称え、野洲郡の今年の調役を免除。
- 5月4日(4月5日)。大宰率・河内王に浄大肆。
- 6月8日(5月11日)。金光明経100部を諸国に配布。
- 9月11日(8月17日)。病を得た明日香皇女のため沙門104人を出家。
- 10月16日(9月22日)。三野王、大宰率に任命。
- 12月27日?12月30日(12月6日)。飛鳥浄御原宮(倭京)から、唐の長安を模した藤原京に遷都。初の都城となる。
- 西暦695年(持統天皇9年)
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- 8月1日(6月16日)。持統天皇、老人・重病者に見舞品を下賜。
- 西暦696年(持統天皇10年)
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- 9月26日(8月25日)。多品治、壬申の乱の功績により直広壱の位を授与される[要出典]。
- 11月16日(10月17日)。右大臣丹比真人が職務を退くこととなり、持統天皇から輿と杖を賜わる。
- 11月21日(10月22日)。藤原不比等、舎人50人を、丹比真人は120人を賜わる。
- 西暦697年(文武天皇元年)
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- 2月7日(持統天皇11年1月11日)。持統天皇、貧者らに稲を下賜。
- 3月13日(持統天皇11年2月16日)。珂瑠皇子、立太子。
- 3月25日(持統天皇11年2月28日)。当麻真人国見、珂瑠皇太子の東宮大傅に任命。
- 4月4日(持統天皇11年3月8日)。東宮御所にて大法会。
- 7月。持統天皇、病を得る。畿内外にて奉幣、読経、大赦などが行われる。
- 8月21日(持統天皇11年7月29日)。薬師寺にて開眼会。
- 8月22日(持統天皇11年8月1日)。持統天皇。15歳の珂瑠皇子に譲位(第42代天皇・文武天皇 践祚)。
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9月7日(8月17日)。文武天皇即位。
- 新天皇即位より、『六国史』の2番目にあたる『続日本紀』の記述が始まった。
- 9月7日、新天皇即位にあたり、当年の租庸調が半分、また今後3年の大税の利息分が免除された。
- 藤原不比等の娘宮子が文武天皇の妃となったことにより、不比等は外戚となった。
- 9月10日(8月20日)。藤原宮子、文武天皇の夫人に、石川刀子娘は妃となる。
- 9月29日(9月9日)。和珥部君手、壬申の乱の功績により直広壱に叙せられる。
- この年は播磨・備前・備中・周防・淡路・阿波・讃岐・伊予の各国で飢饉が起きた。。
- 西暦698年(文武天皇2年)
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- 9月28日(8月19日)。藤原姓を名乗れるのは藤原不比等に限られ、その他の藤原氏は旧姓である中臣姓に戻すよう詔。
- 10月5日(8月26日)。朝儀の礼が定められる。
- 10月19日(9月10日)。託基皇女、斎王として伊勢斎宮へ遣わされる。
- 11月12日。薬師寺の造営がほぼ終わり、天皇の詔により僧侶の居住が始まった。
- 12月30日(11月23日)。大嘗祭を執り行う。
-
この年の自然。
- 越後国から疫病の流行が朝廷に報告された(4月22日付)。
- 近江国・紀伊国から疫病の流行が朝廷に報告された(5月17日付)。
- 諸国で旱害が朝廷に報告された(6月1日付)。
- 10月16日、下総国で大風による被害があった。
- 西暦699年(文武天皇3年)
-
- 9月6日(8月8日) - 夜久(現在の屋久島)、奄美(奄美大島)から来貢。
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越智崗上陵(斉明天皇陵)及び山科陵(天智天皇陵)造営
- 11月10日。天地天皇陵・斉明天皇陵の造営にあわせて大赦が行われ、十悪と強盗・窃盗を除いて赦免された。
- 西暦700年(文武天皇4年)
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- 1月15日(文武天皇3年12月20日) - 鋳銭司を新たに設置。長官には中臣意美麻呂が任ぜられた。
- 2月1日(1月7日) - 新田部皇子、浄広弐を授与。
- 10月8日。全国に赦免を行った。
- 僧道昭の葬儀(記録に残る日本最古の火葬。道昭の遺言による。
- 西暦701年(大宝元年)
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- (旧暦1月23日)。遣唐使を任官。遣唐執節使は粟田真人。『続日本紀』。
- 1月。伊豆大島に流されていた役小角が赦される(『日本現報善悪霊異記』)。
- 3月27日(文武天皇5年2月14日)。釈奠の初見。『続日本紀』
- 4月13日(文武天皇5年3月1日)。大宝令の官位が施行される。中納言は廃止。『続日本紀』
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5月3日(文武天皇5年3月21日)。改元して年号を「大宝」とする。
- 以降、元号は途切れることなく継続している。
- 同日付で官名と位号の制を改正し、官吏の服装を定めた。
- 中納言が同日付で廃止された。
- 5月19日(4月7日)。下毛野古麻呂ら3人が親王・諸臣・百官人に大宝令の講義を始める。『続日本紀』
- 6月17日(5月7日)。遣唐使の粟田真人が節刀を授かる。『続日本紀』
- 7月10日(6月1日)。道首名が僧尼令を大安寺で説く。『続日本紀』
- 7月11日(6月2日)。はじめて内舎人を任じる。『続日本紀』
- 7月17日(6月8日)。大宝律令を施行。『続日本紀』
- 9月9日(8月3日)。大宝律令が完成。『続日本紀』
- 9月14日(8月8日)。明法博士を西海道を除く六道に遣わして、大宝令を講義させる。『続日本紀』
- 10月2日(旧暦8月26日)。大和王朝、高安城を廃城。『続日本紀』
- 12月7日(11月4日?)。全国に大赦を行った(盗人を除く)。
- 12月11日(11月8日)。初めて造大幣司を任じ、弥努王と引田尓閇を長官とする。『続日本紀』
- 12月12日(11月9日)。弾正台に畿内を巡察させる。『続日本紀』
- 西暦707年(慶雲4年)
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- 西暦708年(和銅元年)
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2月7日(慶雲5年)。武蔵国秩父郡から和銅が献上されたことから、この日付で改元を行い、和銅元年となった。
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改元にあたって大赦を行い、八虐・殺人・強盗・窃盗・そのほか大宝律に規定があるもの以外はすべて赦免された。
- また、武蔵国には当年の庸を、併せて秩父郡には調を免除した。
- 3月7日。催鋳銭司をおき、多治比三宅麻呂を任命した。
- 6月3日。和同開珎の銀銭を鋳造した。
- 8月16日。和同開珎の銅銭を鋳造した。
- 8月29日。和同開珎の流通を開始させた
- 11月14日。越後国が新たに出羽郡を置くことを許可した。
- 出羽に出羽柵を築く。
- 西暦709年(和銅2年)
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- 1月6日。大嘗祭を行った(悠紀田は遠江国、主基田は但馬国)。
- 1月20日。平城宮の地鎮祭をとりおこなった。
- 4月4日。遠江国長田郡を長上郡と長下郡に分割した。
- 4月19日。蝦夷征伐軍を組織した。巨勢麻呂を陸奥鎮東将軍、佐伯石湯を征越後蝦夷将軍にそれぞれ任命した。
- 9月9日。和同開珎の銀銭の流通を停止し、銅銭1種のみの発行となった。
- 12月3日。平城京遷都の事業による民心の動揺を抑えるために、当年の租調を免除した。
- 西暦710年(和銅3年)
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- 西暦715年(和銅8年)
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飛鳥時代の天皇
概要
孝徳天皇が死没した後は、
中大兄皇子(のちの天智天皇)が政治の実権を握った。
中大兄皇子(のちの天智天皇)は何らかの理由により大王位には就かず、
退位し皇祖母尊を称していた母親・皇極天皇を、
再度即位(重祚)させた(斉明天皇)。
斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。
西暦663年(天智天皇2年)、
百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、
「白村江の戦い」で新羅・唐連合軍に大敗した。
そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、
日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
西暦664年(天智天皇3年)、
筑紫に大宰府を守る水城を造り、
対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人や烽を置いた。
西暦666年(天智天皇5年)には、
日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、
防衛施設の整備が進んだ。
西暦667年(天智天皇6年)、
都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
そのほか、大和に高安城が築城されて、
讃岐に屋島城が築城されて、
対馬に金田城が築かれている。
西暦668年(天智天皇7年)に、
皇太子だった中大兄皇子が即位して、
天智天皇となる。
西暦670年(天智天皇9年)、
全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、
人民を把握する国内政策も推進した。
また、東国に柵を造った。
西暦671年 (天智天皇10年)、
天智天皇が急死する。
死因は朝廷編纂の歴史書にも書かれていないため諸説ある。
天智天皇が没すると、
天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)と、
息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇と諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。
西暦672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。
この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。
天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。
西暦672年(天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。
官人登用の法、
甲子の宣の廃止、
貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、
畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、
官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。
西暦681年(天武天皇10年)には、
律令の編纂を開始した。
5年後の西暦686年(朱鳥元年)に、
天武天皇は没する。
8年後の西暦689年(持統天皇3年)には、
諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、
頒布される。
律は編纂されず、
唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。
人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。
西暦690年(持統天皇4年)には、
庚寅年籍が造られ、
「六年一造」の造籍の出発点となった。
西暦692年(持統天皇6年)には、
畿内に班田大夫を派遣。
公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。
西暦702年(大宝2年)には、
大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、
国民1人1人が政府に把握されるようになった。
さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。
西暦694年(持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。
持統天皇は、
子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、
早世したため、
孫である文武天皇を即位させる。
この間、
唐の律令制度を基本に、
律と令にもとづいた政治を実施するために、
西暦700年(文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、
律条を撰定する作業に取りかかり、
翌年の西暦701年(文武天皇5年)に大宝律令が制定された。
これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。
これをもって、一応の古代国家成立と見る。
中央行政組織は太政官と神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。
租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。
また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。
文武天皇の死後、
母の元明天皇が即位。
西暦710年(和銅3年)に、
平城京へ遷都した。
上宮王家の滅亡
概要
詳細
『
日本書紀』皇極紀によると、
推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、
蘇我氏の庶流
境部摩理勢らは
山背大兄王を擁立する。
その結果、
蘇我蝦夷の擁立する
田村皇子(のちの
舒明天皇)らと皇位を争うが、
蝦夷から
山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は
田村皇子(のちの
舒明天皇)が継承することとなり、
西暦629年に即位(
舒明天皇)する。
山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、
山背大兄王が用明天皇の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や
蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかった[5]。
他にも、まだ若く未熟であった、あるいは
山背大兄王の人望を嫌ったという説、彼の母親が
大王家ではない蘇我家の出という卑しい出自、推古天皇に続いて
蘇我氏系の皇族である
山背大兄王を擁立することで反
蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある[要出典]。
だが、
蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより
蘇我氏の意のままになると見られた
古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、
山背大兄王と
蘇我氏の関係は決定的に悪化した。
皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、
斑鳩宮の
山背大兄王を襲撃させる。
山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ
斑鳩宮から脱出し、
生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、
山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で
山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。
結局、
山背大兄王は
生駒山を下り
斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に
山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、
上宮王家はここに絶えることとなる[注釈 2]。
蘇我蝦夷は、入鹿が
山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。
当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(
田村皇子(のちの
舒明天皇))と用明天皇系(
山背大兄王)の対立があったとも言われている。
さらに
山背大兄王の襲撃には、
軽皇子(のちの孝徳天皇)など、多数の皇族が加わっていたと言われており、
山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。
山背大兄王が逃げるよう進言された深草屯倉は、
上宮王家が所有し、秦氏が管理経営した屯倉であり、東国の乳部を頼るように言われたのは、秦氏が
上宮王家の所有した乳部の管理者だったからである[6]。
上宮王家滅亡事件の真の首謀者は、皇極天皇であり、動機は敏達天皇後裔王統の復活や、
上宮王家から
仏教興隆の権威や建築技術、経済開発の主導権を奪うことにあったとする説が存在する[7]。
飛鳥・白鳳文化
遺跡