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飛鳥時代(あすかじだい)

作成日:2019/10/5

飛鳥時代。 期間(諸説あり):西暦593年推古天皇元年) - 西暦710年和銅3年)

広義には、 飛鳥に宮都が置かれていた西暦592年崇峻天皇5年)(ただし旧暦12月8日なので、西暦に換算すると西暦593年)から 西暦710年和銅3年)にかけての118年間を指す。
狭義には、 聖徳太子が摂政になった 西暦593年推古天皇元年) から藤原京への 遷都が完了した 西暦694年持統天皇8年)にかけての102年間を指す。
飛鳥時代は古墳時代、 大和時代の終末期と重なるが、 今日では分けて捉えるのが一般的である。

この時期の皇居の所在地をみると、 推古天皇豊浦宮小墾田宮舒明天皇岡本宮皇極天皇板蓋宮斉明天皇川原宮天武天皇浄御原宮 などはいずれも飛鳥の地にあり、 天武天皇のあとの持統天皇文武天皇藤原京も飛鳥の域内ないしはその北方に隣接して存在し、 この間、皇居が飛鳥以外に移ったのは、 10年足らずの孝徳朝の難波と、 5年余りの天智朝の大津。 計15年ほどで、 この時代の政治、文化の中心はおおむね飛鳥にあったため、 この時期を飛鳥時代とよぶ。

「飛鳥時代」という時代区分は、元々美術史や建築史で使われ始めた言葉である。 西暦1900年前後に、 美術学者の関野貞と岡倉天心によって提案され、 関野貞は大化の改新までを、 岡倉天心は平城京遷都までを飛鳥時代とした。

日本史では通常、岡倉案のものを採用し、 平城京遷都までを飛鳥時代としているが、 現在でも美術史や建築史などでは関野案のものを使用し、 「大化の改新」以降を白鳳時代として区別する事がある。

年表

西暦531年継体天皇25年)
西暦534年安閑天皇元年)
西暦535年安閑天皇2年)
西暦536年宣化天皇元年)
西暦537年宣化天皇2年)
西暦538年宣化天皇3年)
西暦539年宣化天皇4年)
西暦540年欽明天皇元年)
西暦552年欽明天皇13年)
西暦553年欽明天皇14年)
西暦554年欽明天皇15年)
西暦562年欽明天皇23年)
西暦567年欽明天皇28年)
西暦570年欽明天皇28年)
西暦571年欽明天皇32年)
西暦572年敏達天皇元年)
西暦577年敏達天皇6年)
西暦585年敏達天皇15年)
西暦586年(用明天皇元年)
西暦587年(用明天皇2年)
西暦588年(崇峻天皇元年)
西暦592年(崇峻天皇5年)
西暦593年推古天皇元年)
西暦594年推古天皇2年)
西暦596年推古天皇4年)
西暦600年推古天皇8年)
西暦601年推古天皇9年)
西暦603年推古天皇11年)
西暦604年推古天皇12年)
西暦607年推古天皇15年)
西暦608年推古天皇16年)
西暦622年推古天皇30年)
西暦626年推古天皇30年)
西暦628年推古天皇36年)
西暦629年舒明天皇元年)
西暦630年舒明天皇2年)
西暦641年舒明天皇13年)
西暦642年舒明天皇13年)
西暦643年皇極天皇2年)
蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒したという。
西暦645年皇極天皇4年)
西暦646年大化元年)
西暦646年大化2年)
西暦649年大化5年)
西暦653年白雉4年)
西暦654年白雉5年)
西暦655年斉明天皇元年)
西暦656年斉明天皇2年)
西暦658年斉明天皇4年)
西暦659年斉明天皇5年)
西暦660年斉明天皇6年)
西暦661年斉明天皇7年)
西暦663年天智天皇2年)
西暦664年天智天皇3年)
西暦667年天智天皇63月19日年)
西暦668年天智天皇7年)
西暦669年天智天皇8年)
西暦670年天智天皇9年)
西暦671年天智天皇10年)
西暦672年天武天皇元年)
日本書紀』は弘文天皇(の即位)を認めていないため、 この年は弘文天皇元年の表記はなく、 天武天皇元年となる。
そのため、天武天皇の即位前であっても「天武天皇元年」の表記が発生する。
ただし、西暦1870年明治3年)に漢風諡号弘文天皇を贈られ、歴代天皇に列せられた。
西暦673年天武天皇2年)
西暦674年天武天皇3年)
西暦675年天武天皇4年)
西暦676年天武天皇5年)
西暦678年天武天皇7年)
西暦679年天武天皇8年)
西暦680年天武天皇9年)
西暦681年天武天皇10年)
西暦682年天武天皇11年)
西暦683年天武天皇12年)
西暦684年天武天皇13年)
西暦685年天武天皇14年)
西暦686年天武天皇15年)
西暦687年持統天皇元年)
西暦689年持統天皇3年)
西暦690年持統天皇4年)
西暦691年持統天皇5年)
西暦692年持統天皇6年)
西暦693年持統天皇7年)
西暦694年持統天皇8年)
西暦695年持統天皇9年)
西暦696年持統天皇10年)
西暦697年文武天皇元年)
西暦698年文武天皇2年)
西暦699年文武天皇3年)
西暦700年文武天皇4年)
西暦701年大宝元年)
西暦707年慶雲4年)
西暦708年和銅元年)
西暦709年和銅2年)
西暦710年和銅3年)
西暦715年和銅8年)

飛鳥時代の天皇

天皇 在位期間(自) 在位期間(至)
33推古天皇 西暦593年 西暦628年
34舒明天皇 西暦593年 西暦628年
35皇極天皇 西暦642年 西暦645年
36孝徳天皇 西暦645年 西暦654年
37斉明天皇 西暦655年 西暦661年
38天智天皇 西暦668年 西暦668年
39弘文天皇 西暦672年 西暦672年
40天武天皇 西暦673年 西暦686年
41持統天皇 西暦690年 西暦697年
42文武天皇 西暦697年 西暦707年
43元明天皇 西暦707年 西暦715年

概要

推古

西暦538年宣化天皇3年)に、 百済の聖王(聖明王)が、釈迦仏像や経論などを朝廷に贈り、 仏教公伝されると、 西暦587年用明天皇2年)、 大王仏教帰依について、 大連物部守屋(排仏派)と大臣蘇我馬子(崇仏派)との対立が激化した。
厩戸皇子(聖徳太子)は蘇我氏側につき、 武力抗争の末に物部氏を滅ぼした(丁未の乱)。
物部氏を滅ぼして以降、約半世紀の間、蘇我氏大臣として権力を握った。
西暦588年崇峻天皇元年)には、 蘇我馬子が飛鳥に法興寺(飛鳥寺)の建立を始める。

西暦587年用明天皇元年)、 馬子は丁未の乱蘇我氏側についた泊瀬部皇子を大王に擁立したが(崇峻天皇)、 次第に天皇と馬子の不仲が目立ち、 西暦592年崇峻天皇5年)、 蘇我馬子東漢駒に命じて崇峻天皇を暗殺させた。
こののち蘇我馬子は日本初の女帝となる推古天皇を立てた。
西暦593年推古天皇元年)、 厩戸皇子(聖徳太子)が皇太子に立てられ、 摂政となったという。
西暦603年推古天皇11年)には、 冠位十二階を制定。
聖徳太子西暦604年推古天皇12年)に十七条憲法を作り、 仏教の興隆に力を注ぐなど、 大王・王族中心の理想の国家体制作りの礎を築いた。

西暦607年推古天皇15年)、 小野妹子らを隋に遣隋使として遣わして、 隋の皇帝に「日出る処の天子、書を日没する処の天子に致す。恙無きや。云々。」(「日出處天子致書日沒處天子無恙云云」)の上表文(国書)を送る。
留学生・留学僧を隋に留学させて、 隋の文化を大いに取り入れて、 国家の政治・文化の向上に努めた。
西暦620年推古天皇28年)には、 聖徳太子蘇我馬子と「天皇記・国記、臣連伴造国造百八十部併公民等本記」を記した。

国造制が、 遅くとも推古朝頃には、全国的に行われていた。
国造とは、 王権に服属した各地の有力豪族に与えられた一種の称号で、 大和政権の地方行政的な性格を持つものである。

西暦621年推古天皇29年)に摂政であった聖徳太子が、 西暦626年推古天皇34年)には蘇我馬子が、 さらに西暦628年推古天皇36年)には推古天皇が没した。
日本歴史上初めての女帝の時代は36年間の長期に渡った。

舒明皇極

聖徳太子推古天皇が没した後は、 蘇我蝦夷と子の蘇我入鹿の専横ぶりが目立ったと『日本書紀』には記されている。
推古天皇没後、 有力な大王位継承候補となったのは、 田村皇子(のちの舒明天皇)と山背大兄王(聖徳太子の子)であった。
蘇我蝦夷推古天皇の遺言を元に田村皇子(のちの舒明天皇)を舒明天皇として擁立するが、 同族境部摩理勢勢は山背大兄王を推したため、 蘇我蝦夷に滅ぼされる。
舒明天皇の没後は、大后である宝女王が皇極天皇として即位した。
さらに蘇我蝦夷蘇我入鹿の専横は激しくなり、 蘇我蝦夷が自ら国政を執り、 紫の冠を私用したことや、 西暦643年皇極天皇2年)、 聖徳太子の子・山背大兄王一族(上宮王家)を滅ぼしたことなど、蘇我氏が政治を恣にした。

孝徳

西暦645年皇極天皇4年)の「乙巳の変」で、 中大兄皇子(のちの天智天皇)・中臣鎌足(藤原鎌足)らが宮中(飛鳥板蓋宮)で蘇我入鹿を暗殺し、 蘇我蝦夷を自殺に追いやり、 半世紀も続いた蘇我氏の体制を滅ぼした。

乙巳の変」後、皇極天皇は弟の軽皇子に譲位し、 新たに孝徳天皇即位した。
孝徳天皇は、 日本で最初の元号の「大化」を制定するなど次々と改革を進めていった(「大化の改新」)。
日本書紀』の記述によると、 西暦645年大化元年)12月には都を難波長柄豊碕宮に移している。
翌、西暦646年大化2年)正月には、「改新の詔」を宣して、政治体制の改革を始めた。
その後も、今までは蘇我氏大臣1人だけの中央官制を左大臣・右大臣・内大臣の3人に改めた。
東国等の国司に戸籍調査や田畑の調査を命じたとある。
西暦649年大化5年)、 この頃、評(こおり)の制を定める。
西暦650年白雉元年)2月15日、穴門国(後の長門国)より献上された白雉(はくち。白い羽毛の雉)により、改元する。

天智

孝徳天皇が死没した後は、 中大兄皇子(のちの天智天皇)が政治の実権を握った。
中大兄皇子(のちの天智天皇)は何らかの理由により大王位には就かず、 退位し皇祖母尊を称していた母親・皇極天皇を、 再度即位重祚)させた(斉明天皇)。
斉明天皇没後も数年の間、皇位に就かず、皇太子の地位で政務に当たった(天皇の位に就かずに政務を執ることを称制という)。

西暦663年天智天皇2年)、 百済の国家復興に助力するため朝鮮半島へ出兵したが、 「白村江の戦い」で新羅・唐連合軍に大敗した。
そのことは当時の支配層にとっては大変な脅威であり、 日本列島の各地に防衛施設を造り始めるきっかけとなった。
西暦664年天智天皇3年)、 筑紫大宰府を守る水城を造り、 対馬・隠岐・筑紫など朝鮮半島方面の日本海に防人やを置いた。
西暦666年天智天皇5年)には、 日本国内の百済人2000人余りを東国へ移すなど、 防衛施設の整備が進んだ。
西暦667年天智天皇6年)、 都城も防衛しやすい近江大津宮に移された。
そのほか、大和に高安城が築城されて、 讃岐に屋島城が築城されて、 対馬に金田城が築かれている。

西暦668年天智天皇7年)に、 皇太子だった中大兄皇子即位して、 天智天皇となる。

西暦670年天智天皇9年)、 全国的な戸籍(庚午年籍)を作り、 人民を把握する国内政策も推進した。
また、東国に柵を造った。

西暦671年 (天智天皇10年)、 天智天皇が急死する。 死因は朝廷編纂の歴史書にも書かれていないため諸説ある。

天武持統

天智天皇が没すると、 天智天皇の弟である大海人皇子(のちの天武天皇)と、 息子である大友皇子(明治時代に弘文天皇諡号され、歴代に加えられる)との間で争いが起こった。
西暦672年(弘文天皇元年)の壬申の乱である。
この戦いは、地方豪族の力も得て、最終的には大海人皇子が勝利、即位後に天武天皇となった。
天武天皇は、中央集権的な国家体制の整備に努めた。

西暦672年天武天皇元年)の末に、宮を飛鳥浄御原宮に移した。
官人登用の法、 甲子の宣の廃止、 貴族・社寺の山・島・浦・林・池などの返還、 畿外の豪族と才能のある百姓の任官への道を開き、 官人の位階昇進の制度などを新設したりといった諸政を行った。

西暦681年天武天皇10年)には、 律令の編纂を開始した。 5年後の西暦686年朱鳥元年)に、 天武天皇は没する。
8年後の西暦689年持統天皇3年)には、 諸氏に令1部全22巻で構成される飛鳥浄御原令が制定され、 頒布される。
律は編纂されず、 唐の律令制度である唐律をそのまま用いたのではないかと考えられている。

人民支配のための本格的な戸籍作りも開始される。
西暦690年持統天皇4年)には、 庚寅年籍が造られ、 「六年一造」の造籍の出発点となった。
西暦692年持統天皇6年)には、 畿内に班田大夫を派遣。 公地公民制を基礎とした班田収授法を実施した。
西暦702年大宝2年)には、 大宝令にもとづいた最初の造籍が行われ、 国民1人1人が政府に把握されるようになった。
さらに、条里制による耕地の区画整理が進み、班田が与えられた。

西暦694年持統天皇8年)には日本初の本格的都城となる藤原京に都を遷した。

持統天皇は、 子の草壁皇子に位を譲るつもりであったが、 早世したため、 孫である文武天皇即位させる。
この間、 唐の律令制度を基本に、 律と令にもとづいた政治を実施するために、 西暦700年文武天皇4年)に王臣に令文を読習させ、 律条を撰定する作業に取りかかり、 翌年の西暦701年文武天皇5年)に大宝律令が制定された。
これにより、天皇を頂点とした、貴族・官僚による中央集権支配体制が完成した。
これをもって、一応の古代国家成立と見る。

中央行政組織は太政官神祇官による二官八省制が採られ、地方行政組織は、国制度・郡制度・里制度が採られるようになった。
租・庸・調の税制が整備され、国家財政が支えられるようになった。
また、律令制度の施行に伴って生じた不備などを調整する目的から、慶雲の改革が行われた。

文武天皇の死後、 母の元明天皇即位
西暦710年和銅3年)に、 平城京遷都した。

上宮王家の滅亡

概要
西暦643年12月20日(皇極天皇2年11月1日)、 入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、 斑鳩宮山背大兄王を襲撃させた。
山背大兄王は、一度は生駒山に逃亡したが、 結局、生駒山を降り斑鳩寺に入り、 西暦643年12月30日(皇極天皇2年11月11日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。
蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒したという。

詳細
日本書紀』皇極紀によると、 推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、 蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。 その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子(のちの舒明天皇)らと皇位を争うが、 蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子(のちの舒明天皇)が継承することとなり、 西暦629年に即位(舒明天皇)する。

山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、山背大兄王が用明天皇の2世王に過ぎず、既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、天皇や蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかった[5]。

他にも、まだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説、彼の母親が大王家ではない蘇我家の出という卑しい出自、推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある[要出典]。

だが、蘇我氏の実権が蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。このため、山背大兄王蘇我氏の関係は決定的に悪化した。

皇極天皇2年11月1日(643年12月20日)、ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮山背大兄王を襲撃させる。山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、生駒山に逃亡した。家臣の三輪文屋君は、「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、山背大兄王は戦闘を望まず「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」(われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん)と言った。山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

結局、山背大兄王生駒山を下り斑鳩寺に入り、11月11日(12月30日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる[注釈 2]。蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。

当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。これは天皇家の権力が絶対ではなく、あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子(のちの舒明天皇))と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。 さらに山背大兄王の襲撃には、軽皇子(のちの孝徳天皇)など、多数の皇族が加わっていたと言われており、山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。

山背大兄王が逃げるよう進言された深草屯倉は、上宮王家が所有し、秦氏が管理経営した屯倉であり、東国の乳部を頼るように言われたのは、秦氏が上宮王家の所有した乳部の管理者だったからである[6]。

上宮王家滅亡事件の真の首謀者は、皇極天皇であり、動機は敏達天皇後裔王統の復活や、上宮王家から仏教興隆の権威や建築技術、経済開発の主導権を奪うことにあったとする説が存在する[7]。

飛鳥・白鳳文化

飛鳥文化」および「白鳳文化」を参照

遺跡

その他、飛鳥村の多数の遺跡

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