和風諡号:豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと) 『日本書紀』
豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)『古事記』
諱:額田部皇女(ぬかたべのひめみこ)
別称:豊御食炊屋姫尊(とよみけかしきやひめのみこと)
豊御食炊屋比売命(とよみけかしきやひめのみこと)
炊屋姫尊(かしきやひめのみこと)
第29代欽明天皇の皇女で、
母は大臣・蘇我稲目の女・堅塩媛。
第30代敏達天皇は異母兄で夫でもある。
第31代用明天皇は同母兄、
第32代崇峻天皇は異母弟。
蘇我馬子は母方の叔父。
『日本書紀(推古紀)』に「幼曰 額田部皇女 姿色端麗 進止軌制 年十八歳 立爲渟中倉太玉敷天皇之皇后 卅四歳、渟中倉太珠敷天皇崩」とあり、 「姿色(みかお)端麗(きらきら)しく」、 挙措動作は乱れなくととのって(進止軌制)おり、 18歳で異母兄の渟中倉太玉敷天皇(敏達天皇)皇后となり、 34歳のとき渟中倉太玉敷天皇が崩御した。
『日本書紀(敏達紀)』では、
西暦571年(欽明天皇32年)に異母兄・渟中倉太珠敷皇子(敏達天皇)の妃となり、
西暦575年(敏達天皇4年)11月の皇后・広姫の崩御を承け、
西暦576年4月23日(敏達天皇5年3月10日)、
皇后に立てられた。
「敏達14年8月乙酉朔己亥」(8月15日)(西暦585年9月14日)に敏達天皇が崩御した。
敏達天皇との間に菟道貝蛸皇女(聖徳太子妃)、 竹田皇子、 小墾田皇女(押坂彦人大兄皇子妃)、 尾張皇子(聖徳太子の妃橘大郎女の父)、 田眼皇女(田村皇子(後の舒明天皇)妃)、 (押坂彦人大兄皇子の妃、 来目皇子の妃)ら2男5女を儲けた。
西暦586年(用明元年夏5月)、
敏達天皇の殯宮に異母弟の穴穂部皇子が侵入し、
皇后を犯そうとした。
寵臣・三輪逆に助けられたが、
逆は穴穂部皇子に同調した物部守屋らに追い詰められ殺された。
その後、用明天皇が2年ほど皇位に在ったが、
西暦587年5月21日(用明2年4月乙巳朔癸丑.4月9日)に崩御した後、
穴穂部皇子を推す物部守屋と泊瀬部皇子を支持する蘇我馬子が戦い、
蘇我氏の勝利に終わった。(丁未の乱)
そこで額田部皇女が詔を下して泊瀬部皇子(崇峻天皇)に即位を命じたという。
しかし、5年後の崇峻5年11月癸卯朔乙巳(旧暦11月3日)(西暦592年12月12日)には崇峻天皇が馬子の指図によって暗殺されてしまい、
翌月である12月壬申朔己卯(旧暦12月8日)に、
先々代の大后(皇后)であった額田部皇女が、馬子に請われて、
豊浦宮において即位した。
時に彼女は39歳で、
史上初の女性の大王(女帝)となった(ただし、神功皇后と飯豊皇女を歴代から除外した場合)。
その背景には推古天皇が実子の竹田皇子の擁立を願ったものの、 敏達の最初の大后が生んだ押坂彦人大兄皇子(舒明天皇の父)の擁立論が蘇我氏に反対する勢力を中心に強まったために、 馬子と推古天皇がその動きを抑えるために竹田皇子への中継ぎとして即位したのだと言われている(だが、竹田皇子は間もなく薨去した)。
西暦593年5月15日(推古天皇元年4月10日)、 甥の厩戸皇子を皇太子として万機を摂行させたとされる。 聖徳太子の父は用明天皇(推古天皇の同母兄)、 母も異母妹の穴穂部間人皇女(かつ生母同士が実の姉妹関係)の間柄であり、 これが竹田皇子亡き後において、 推古天皇が聖徳太子を起用する背景になったと見られている。
推古天皇は頭脳明晰な人で、 皇太子と大臣・馬子の勢力の均衡を保ち、 豪族の反感を買わぬように、巧みに王権の存続を図った。 在位中は蘇我氏の最盛期であるが、 大王は外戚で重臣の馬子に対しても、 国家の利益を損じてまで譲歩したことがなかった。 ずっと後のことではあるが、 西暦624年(推古天皇32年)、 馬子が倭の六県の一つである葛城県(馬子の本居(ウブスナ)とされる)の支配権を望んだ時、 女帝は、「あなたは私の叔父ではあるが、だからといって、公の土地を私人に譲ってしまっては、後世から愚かな女と評され、あなたもまた不忠だと謗られよう」と言って、 この要求を拒絶したという。
このように公正な女帝の治世のもと聖徳太子はその才能を十分に発揮し、 冠位十二階(西暦603年(推古天皇11年))・十七条憲法(西暦604年(推古天皇12年))を次々に制定して、 法令・組織の整備を進めた。 西暦607年(推古天皇15年)、 小野妹子を隋に派遣した。 中国皇帝から政権の正統性を付与してもらう目的で、 過去にもたびたび使節が派遣されていたが、 初めて日本の独立を強調する目的で使節が派遣された。 翌年からは入隋の使節に学問生・学問僧を同行させた。 また、西暦594年(推古天皇2年)に出された、 三宝(仏・法・僧)を敬うべしという詔が示しているように、 女帝は太子や馬子と共に仏法興隆にも努め、 斑鳩に法隆寺を建立させたりした。
西暦620年(推古天皇28年)、 聖徳太子と馬子は『天皇記』『国記』を編纂して献上したが、 2年後の西暦622年4月8日(推古天皇30年2月22日)に太子が49歳で薨去し、 更に4年後の西暦626年6月19日(推古天皇34年5月20日)、 蘇我馬子も亡くなった。
西暦628年4月15日(推古天皇36年3月7日)、 75歳で小墾田宮において崩御。 死の前日に、 女帝は敏達天皇の嫡孫・田村皇子(のちの舒明天皇)を枕元に呼び、 謹しんで物事を明察するように諭し、 さらに聖徳太子の子・山背大兄王にも、 他人の意見を納れるように誡めただけで、 後継者の指名は避けたようである。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある磯長山田陵(しながのやまだのみささぎ)に治定されている。
子の竹田皇子との合葬陵墓で、宮内庁上の形式は方丘。
遺跡名は「山田高塚古墳」で、方墳または長方墳である。
その後、元禄の探陵の際には堺奉行が現陵の存在を報告している。
なお、現陵近くの二子塚古墳を真陵に比定する説もあるほか、
改葬前の陵(大野岡上)については植山古墳(奈良県橿原市)に比定する説がある。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。