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大宰府(だざいふ)

作成日:2023/3/18

大宰府(だざいふ)は、7世紀後半に、九州の筑前国に設置された地方行政機関。

軍事・外交を主任務とし、九州地方の内政も担当した。
和名は「おほ みこともち の つかさ」とされる。
なお多くの史書では太宰府とも記される。
政庁の中心は現在の福岡県太宰府市・筑紫野市にあたり、 国の特別史跡に指定されている。

概要

役職としての大宰(おほ みこともち)・大宰帥は、 外交・軍事上重要な地域に置かれ、 数か国程度の広い地域を統治する地方行政長官である。
九州筑紫には筑紫大宰が置かれた。「総令」・「総領」などとも呼ばれる。

吉備国にも大宰が置かれた記録は在るものの、 一般的に「大宰府」と言えば九州筑紫のそれを指すと考えてよい。

平城宮木簡には「筑紫大宰」、 平城宮・長岡京木簡には「大宰府」と表記されており、 歴史的用語としては機関名である「大宰府」という表記を用いる。
都市名や菅原道真を祀る神社(太宰府天満宮)では「太宰府」という表記を用いる。「宰府」と略すこともある[4]。

唐名は、「都督府」であり、 現在、史跡を「都府楼跡」(とふろうあと)あるいは「都督府古址」(ととくふこし)などと呼称することも多い。
外交と防衛を主任務とすると共に、 筑前、筑後、豊前、豊後、肥前、肥後、日向、薩摩、大隅からなる西海道9国と壱岐、対馬、多禰(現在の大隅諸島。弘仁15年/天長元年(824年)に大隅に編入)の三島については、 掾(じょう)以下の人事や四度使の監査などの行政・司法を所管した。 与えられた権限の大きさから、「遠の朝廷(とおのみかど)」とも呼ばれる。

軍事面としては、その管轄下に防人を統括する防人司、主船司を置き、 西辺国境の防備を担っていた。 西海道諸国の牧から軍馬を集めて管理する権限を有していた。

外交面では、 北九州が古来中国の王朝や朝鮮半島などとの交流の玄関的機能を果たしていたという背景もあり、 海外使節を接待するための迎賓館である鴻臚館(こうろかん)が那津(現在の博多湾)の沿岸に置かれた。

歴史

古代の国交の要衝

大陸外交や軍事拠点としての大宰府は、 前身は「三角縁神獣鏡」などが出土する那珂遺跡群(福岡市)であったと考えられている。
また、『魏志倭人伝』に見られる伊都国の一大率は、 後の大宰府と良く似たシステムとして指摘されている。
太宰府の前面に築造された水城の築造は3層あり、 放射性炭素年代測定により、 最下層が西暦100年西暦300年頃、 次の層は西暦300年西暦500年頃、 最上層は西暦510年西暦730年頃となっている。

玄界灘沿岸は、 弥生時代古墳時代を通じて、 アジア大陸との窓口という交通の要衝であった。 そのため、 畿内を地盤とするヤマト政権が外交や朝鮮半島への軍事行動の要衝として、 出先機関を設置することになった。

などの記述が、 太宰府がヤマト政権の出先機関として設置され存在した証拠と考えられる。

なお、推古天皇17年4月の条については、 「大宰」の文字の初見とされる。

飛鳥時代

白村江の戦い西暦663年)直後は防衛拠点を置くために、 吉備大宰(西暦679年天武天皇8年))、 周防総令(西暦685年天武天皇14年))、 伊予総領(西暦689年持統天皇3年))などにも作られた。

大宝律令以降

大宝律令西暦701年)の施行とともに、 筑紫大宰(九州)のみが残され、それ以外の大宰は廃止された。

7世紀に入ると、 遣隋使小野妹子が隋の使者裴世清を伴って那津に着いた頃から、 官家(みやけ)は、 大陸や朝鮮半島からの使者の接待をも担うようになったと考えられる。 また、同じ時期に聖徳太子の弟である来目皇子新羅遠征を名目に九州に駐屯しており、 両方の政策に関与していた聖徳太子が一族(上宮王家)を筑紫大宰に任じて、 大宰の力を背景に九州各地に部民を設置して支配下に置いていったとする説がある。

筑紫大宰は九州全体の統治と外国使節の送迎などにあたったと考えられ、 以後は大宰府に引き継がれていく。

西暦660年斉明天皇6年)百済が滅亡し、 百済復興をかけて西暦663年天智天皇2年)8月唐・新羅連合軍と対峙した「白村江の戦い」で大敗した。

天智朝では、 唐が倭へ攻め込んでくるのではないかという危惧から西暦664年天智天皇3年)、 筑紫に大きな堤に水を貯えた水城(みずき)・小水城を造ったという。 水城は、福岡平野の奥、御笠川に沿って、 東西から山地が迫っている山裾の間を塞いだ施設であり、 今もその遺跡が残っている。
構造は、高さ14メートル、基底部の幅が約37メートルの土塁を造り、 延長約1キロにわたる。 また、翌年の西暦665年天智天皇4年)大宰府の北に大野城、 南に基肄城などの城堡が建設されたとされた。

西暦649年大化5年)には「筑紫大宰帥」の記述があるほか、 天智天皇から天武天皇にかけての時期にはほかに「筑紫率」「筑紫総領」などが確認でき、 中央から王族や貴族が派遣されていた事を示すと考えられている。 なお、「総領」の語が大化改新後に登場する言葉であることから、 「筑紫総領」を「筑紫大宰」からの改称とみる説、 「筑紫大宰」が官司名で「筑紫総領」をそれを率いた官職名とする説、 大化改新後に「筑紫大宰」とは別に「筑紫総領」が設置され両者は職掌が分かれていたのが後に統合されて大宰府になったとする説などに分かれている(なお、「大宰」と「総領」両方の設置が確認できるのは、吉備国筑紫国のみであったことも注目される)。

機関としては、 西暦667年天智天皇6年)に「筑紫都督府」があり、 西暦671年天智天皇10年)に初めて「筑紫大宰府」が見える。

この時代は、 首都たる大和国(現在の奈良県)、 西暦794年延暦13年)以降は山城国(現在の京都府)で失脚した貴族の左遷先となる事例が多かった。 例としては菅原道真や藤原伊周などがいた。 また、大宰府に転任した藤原広嗣が、 首都から遠ざけられたことを恨んで西暦740年天平12年)に反乱を起こし、 その影響で数年間大宰府は廃止され、 その間は大宰府の行政機能は筑前国司が、 軍事機能は新たに設置された鎮西府が管轄していた。
つまり、西暦742年天平14年)1月にいったん廃止し、 西暦743年天平15年12月)に筑紫に鎮西府を置く。 しかし、西暦745年天平17年6月)に復活させている。

平安時代

平安時代に入ると大宰府の権限が強化され、 西暦806年大同元年2月)に大宰大弐の官位相当が正五位上から従四位下に引き上げられ(『日本後紀』)、 西暦810年弘仁元年)には大宰権帥が初めて設置された。 西暦941年天慶4年)天慶の乱(藤原純友の乱)で陥落、 府庁は一度焼失したと考えられている。 大宰権帥の橘公頼が対抗する。

平安時代後期になると、 「大府」「宰府」という異名も登場する。 ただし、12世紀に入ると、 「大府」は名目のみの存在となった大宰帥に代わって責任者の地位にありながら実際には遥任の形態で京都で政務を執った大宰権帥や大宰大弐を、 「宰府」は大宰府の現地機構を指すようになった。 大宰権帥や大宰大弐が現地機構に対して発した命令を大府宣、 反対に現地機構からの上申書を宰府解(大宰府解・宰府申状)と呼んだ。 この頃、刀伊の入寇に伴い、 大宰府官や東国武士団が九州に入り活躍、 鎮西平氏や薩摩平氏などとして周辺の肥前や南九州に割拠し始める。

交易面でも大宰府の重要性が増し、 10世紀から13世紀まで日宋貿易、 これと並行して朝鮮や南島との貿易も盛んとなった。 西暦1080年承暦4年頃)の大宰府解に『商人の高麗に往反するは,古今の例也』とあるとおり、 朝廷がこれを積極的に統制しなかった。

西暦1158年保元3年)に平清盛が大宰大弐に就任(赴任せず)。 西暦1166年には弟の平頼盛が大宰府に赴任する。 平氏政権の基盤の一つとなった日宋貿易の統制のため、 やがて北九州での政治的中心地は、 大宰府から20キロメートル北の博多(福岡市)へ移る。

宋・明州(江省寧波市一帯)の長官と後白河法皇と平良盛との間で「公式」な交易関係が結ばれ、 貿易が隆盛を極めるとともに、 古来の渡海制・年紀制などの律令制以来の国家による貿易統制が形骸化していく事に繋がった。 これにより鎌倉時代に至るまで大宰府権門は直接的な交易実益を喪い没落、 名誉職としての大宰権帥としての権威付け及び有力国人が権帥、 大弐への就任する形態に遷移していく。
西暦1173年承安3年)には摂津国福原の外港にあたる大輪田泊(現在の神戸港の一部)を拡張し、 博多を素通りさせ、福原大輪田泊まで交易船が直輸した。

源平合戦期には平家武人が大宰府に一時落ち延びた。 北九州に平定のため入国した天野遠景が、 西暦1186年文治2年)九州惣追捕使・鎮西奉行に補任され大宰府権門を掌握する。 しかし10年ほど過ぎた後、天野は頼朝に解任され、鎌倉へ召喚された。

平安時代を通して大宰府現地官人の土着化、土豪化が進んだ。

鎌倉時代

治承・寿永の乱を経て鎌倉時代に入るまでに、 古代以来の官舎としての大宰府は解体、廃絶したと考えられている。 一方で、前述の中国や朝鮮、南島との貿易権益、 さらに古代政庁以来の権威付けとしての「大宰府」は九州北部の有力国人に利用された。

西暦1226年嘉禄2年)、 筑前・豊前・肥前守護で鎮西奉行の武藤資頼は太宰少弐に任じられ、 以降代々の武藤氏は太宰少弐職を世襲して少弐氏と名乗る。 鎌倉幕府により、 大宰府には宰府守護所が置かれる。 元寇における武功により、 少弐氏は北部九州を代表する名族となる。 その後博多に鎌倉幕府により鎮西探題が置かれた。 南九州には島津氏が進出する。

役職としての「大宰権帥」や「大宰大弐」は広大な大宰府領や対外貿易の利益から経済的に魅力のあった地位であった。 元寇前夜の西暦1271年文永8年2月)に、 大宰権帥の地位を巡って吉田経俊と分家の中御門経任が争って最終的に後嵯峨上皇の側近であった経任が補任されたことを非難した同族の吉田経長の日記の中に経任が古代中国の富豪である陶朱のようになったと皮肉を込めて記している(『吉続記』文永8年2月2日(1271年3月14日)条)。

もっとも、こうした任命の裏には任命する天皇や上皇の側にも利点があり、 大宰権帥退任後に修理職などの地位に任じられ、 御所の造営や大嘗祭のような多額の費用のかかる行事の負担を命じられた。 当然、大宰権帥に就いたことによる経済的利得はその負担を上回るものであったと推定される。

室町時代以降

建武期・南北朝時代の動乱に博多・大宰府周辺を含む九州一円が巻き込まれる。 足利方・探題と、肥後国の南朝方征西府の菊池氏と戦いとなり、 中央や足利氏、更に少弐氏自身の内紛などで一時混迷するも、 少弐氏も加わって大宰府を巡り一進一退の攻防となる(浦城の戦い 針摺原の戦いなど)。 やがて幕府足利義満が今川貞世(了俊)を九州平定に派遣すると、 少弐冬資が謀殺され、南朝方が連敗し駆逐されるなどした。 やがて南北朝合一が成り、 西暦1395年応永2年)に了俊が探題職を解任されると、 一時的に少弐氏は大宰府を回復するが、 戦国時代には大内氏に追われ少弐氏は滅亡。 西暦1536年天文5年)には大内義隆が大宰大弐に就くも、 大内氏自身が大寧寺の変により滅亡する。

太宰府天満宮(当時は安楽寺天満宮)の本殿が再建されるのは、 時代が下って安土桃山時代の西暦1591年天正19年)、 小早川隆景による。

江戸時代末期、 幕末の政変で、公家五卿が安楽寺延寿王院に一時滞在した。 大政奉還により京都に戻った。