境部摩理勢(さかいべのまりせ)は、飛鳥時代の豪族。
蘇我稲目の子、馬子の弟(一説に馬子の従弟ともいう)。
正しくは蘇我境部臣摩理勢。
軽の境部(現在の橿原市白橿町、または大軽町)に居住したために境部臣と呼ばれた。
推古天皇8年(西暦600年)、
征
新羅大将軍に任ぜられる(ただし、実際に赴任はしていない)。
大臣である兄・
蘇我馬子と共に推古天皇・厩戸皇子(聖徳太子)の執政を支えるが、
その過程で聖徳太子一族(
上宮王家)との結びつきを深めた。
馬子の死後は、
子の
蘇我蝦夷が
大臣を継いで朝政を主導するが、
摩理勢も
蘇我氏族内の有力一門として発言力を保ち、
蘇我氏内部においても朝廷政治においても蝦夷の対抗勢力となり、
次第に対立を深めていく。
推古天皇36年(西暦628年)3月、
推古天皇は崩御の直前、
有力な皇位継承候補となる2人の皇子を病床に呼び寄せた。
押坂彦人大兄皇子の子
田村皇子(のちの
舒明天皇)と、
聖徳太子の子
山背大兄王である。
田村皇子(のちの
舒明天皇)に対しては「慎み深く言動に気をつけよ」と諭し、
山背大兄に対しては「あなたはまだ若く未熟なので群臣の意見を聴きなさい」と遺言した。
蘇我蝦夷は、
この遺詔から、
推古の思惑は
田村皇子(のちの
舒明天皇)後継にあったと考え、
田村皇子(のちの
舒明天皇)を次期
大王として擁立する。
しかし
上宮王家の後見人である境部摩理勢は、
これに真っ向から反対し、
山背大兄を推薦し、
山背大兄も
大王継承に積極的に名乗りをあげた。
しかし摩理勢に同調する勢力は伯瀬仲王(山背大兄の異母弟)や佐伯東人ら僅かであり、
蝦夷の懐柔政策も功を奏したため、
結局山背大兄は
大王継承を辞退する。
この情勢に怒った摩理勢は、
従事中であった馬子の墓造営の任務を放棄し、
「蘇我の田家」なる施設に立て籠もって公然と蝦夷に反旗を翻した。
その後、摩理勢は伯瀬仲王邸へ入り抵抗を続けた。
やがて山背大兄の説得により自邸に戻るが、
ほどなく伯瀬仲王が死去し、
後ろ盾を失った。
蝦夷は摩理勢を攻め、摩理勢は来目物部伊区比なる者に絞殺されたという。
父:蘇我稲目、母:不詳、妻:不詳、子:境部毛津(さかいべ の けつ)、境部阿椰(さかいべ の あや)