小窓
境部摩理勢(さかいべのまりせ)

作成日:2023/6/14

境部摩理勢(さかいべのまりせ)は、飛鳥時代の豪族。 蘇我稲目の子、馬子の弟(一説に馬子の従弟ともいう)。 正しくは蘇我境部臣摩理勢。 軽の境部(現在の橿原市白橿町、または大軽町)に居住したために境部臣と呼ばれた。

推古天皇8年(西暦600年)、 征新羅大将軍に任ぜられる(ただし、実際に赴任はしていない)。 大臣である兄・蘇我馬子と共に推古天皇・厩戸皇子(聖徳太子)の執政を支えるが、 その過程で聖徳太子一族(上宮王家)との結びつきを深めた。 馬子の死後は、 子の蘇我蝦夷大臣を継いで朝政を主導するが、 摩理勢も蘇我氏族内の有力一門として発言力を保ち、 蘇我氏内部においても朝廷政治においても蝦夷の対抗勢力となり、 次第に対立を深めていく。

推古天皇36年(西暦628年)3月、 推古天皇は崩御の直前、 有力な皇位継承候補となる2人の皇子を病床に呼び寄せた。 押坂彦人大兄皇子の子田村皇子(のちの舒明天皇)と、 聖徳太子の子山背大兄王である。 田村皇子(のちの舒明天皇)に対しては「慎み深く言動に気をつけよ」と諭し、 山背大兄に対しては「あなたはまだ若く未熟なので群臣の意見を聴きなさい」と遺言した。 蘇我蝦夷は、 この遺詔から、 推古の思惑は田村皇子(のちの舒明天皇)後継にあったと考え、 田村皇子(のちの舒明天皇)を次期大王として擁立する。 しかし上宮王家の後見人である境部摩理勢は、 これに真っ向から反対し、 山背大兄を推薦し、 山背大兄も大王継承に積極的に名乗りをあげた。 しかし摩理勢に同調する勢力は伯瀬仲王(山背大兄の異母弟)や佐伯東人ら僅かであり、 蝦夷の懐柔政策も功を奏したため、 結局山背大兄は大王継承を辞退する。 この情勢に怒った摩理勢は、 従事中であった馬子の墓造営の任務を放棄し、 「蘇我の田家」なる施設に立て籠もって公然と蝦夷に反旗を翻した。 その後、摩理勢は伯瀬仲王邸へ入り抵抗を続けた。 やがて山背大兄の説得により自邸に戻るが、 ほどなく伯瀬仲王が死去し、 後ろ盾を失った。 蝦夷は摩理勢を攻め、摩理勢は来目物部伊区比なる者に絞殺されたという。

父:蘇我稲目、母:不詳、妻:不詳、子:境部毛津(さかいべ の けつ)、境部阿椰(さかいべ の あや)

年表

西暦784年允恭天皇10年)

親族

祖父:   祖母:
父親:   母親:
皇后:


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関連項目
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