小窓
寺社(小窓集)

作成日:2022/9/9

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延暦寺

延暦寺(えんりゃくじ、正字: 延曆寺)は、 滋賀県大津市坂本本町にある、 標高848mの比叡山全域を境内とする天台宗の総本山の寺院。 山号は比叡山。 本尊は薬師如来。 正式には比叡山延暦寺と号する。 比叡山、または叡山とも呼ばれる。 平安京(京都)の北にあったので南都の興福寺と対に北嶺(ほくれい)と称された。
平安時代初期の僧・最澄(西暦767年 - 西暦822年)により開かれた日本天台宗の本山寺院である。 住職(貫主)は天台座主と呼ばれ、末寺を統括する。 横川中堂は新西国三十三箇所第18番札所で本尊は聖観音である。 西暦1994年(平成6年)には、古都京都の文化財の一部として、 (1,200年の歴史と伝統が世界に高い評価を受け)ユネスコ世界文化遺産にも登録された。 寺紋は天台宗菊輪宝。

最澄の開創以来、高野山金剛峯寺と並んで平安仏教の中心寺院であった。 天台法華の教えのほか、密教、禅(止観)、念仏も行なわれ仏教の総合大学の様相を呈し、 平安時代には皇室や貴族の尊崇を得て大きな力を持った。 特に密教による加持祈祷は平安貴族の支持を集め、 真言宗の東寺の密教(東密)に対して延暦寺の密教は「台密」と呼ばれ覇を競った。

「延暦寺」とは単独の堂宇の名称ではなく、 比叡山の山上から東麓にかけて位置する東塔西塔横川などの区域(これらを総称して「三塔十六谷」と称する)に所在する150ほどの堂塔の総称である。 「日本仏教の礎」(佼成出版社)によれば、 比叡山の寺社は最盛期は三千を越える寺社で構成されていたと記されている。

延暦7年(西暦788年)に最澄が薬師如来を本尊とする一乗止観院という草庵を建てたのが始まりである。 開創時の年号をとった延暦寺という寺号が許されるのは、 最澄没後の弘仁14年(西暦823年)のことであった。...

延暦寺は数々の名僧を輩出し、 日本天台宗の基礎を築いた円仁、円珍、 融通念仏宗の開祖良忍、 浄土宗の開祖法然、 浄土真宗の開祖親鸞、 臨済宗の開祖栄西、 曹洞宗の開祖道元、 日蓮宗の開祖日蓮など、 新仏教の開祖や、 日本仏教史上著名な僧の多くが若い日に比叡山で修行していることから、 「日本仏教の母山」とも称されている。
比叡山は文学作品にも数多く登場する。西暦1994年(平成6年)に、 ユネスコの世界遺産に古都京都の文化財として登録されている。

また、「十二年籠山行」「千日回峰行」などの厳しい修行が現代まで続けられており、 日本仏教の代表的な聖地である。

なお、長野県境に近い岐阜県中津川市神坂(みさか)に最澄が弘仁8年(西暦817年)に設けた「広済院」があったと思われる所を寺領とした「飛び地境内」がある。

開山

開山(かいさん) [仏教用語]

開山とは、寺院を創始することを指す仏教用語である。 仏道修行の場として閑静な地が望ましいことから、 しばしば山間に道場や寺院が建立され、 山号を有したことに由来する。
転じて寺院を開創した僧侶すなわち初代住持職(住職)を指す語ともなる。

類義語として「開基(かいき)」があり、 後に同義語として用いられるようになったが、 厳密には両者は別のものである。 「開基」は、寺院の創始にあたって必要な経済的支持を与えた者、 ないし世俗在家の実力者(大檀那)を指す語である。
例えば円覚寺の場合、 寺院建立の事業を担った北条時宗が開基であり、 時宗に招請されて住持となった無学祖元師が開山である。

ただし、宗旨や宗派によって、これらの語の用法には相違がある。 宗派を開くに際して総本山をひらくことから生じる転用として、 宗祖を特に「開山」と呼ぶ宗派もある。

浄土真宗では、 宗祖とされる親鸞を「開山」(「御開山」)とも呼ぶことから、 末寺の創始者を「開基」と呼んで区別する。

曹洞宗では、道元を「開山禅師」と呼んでいる。

また、禅宗における用法として、寺院を創始した僧侶自身が、 師への尊崇の念から自らではなく師を開山とする「勧請開山」(かんじょうかいさん)があり、 この場合、 実際の創始者たる僧侶自身を「創建開山」(そうけんかいさん)と称する。

川原寺

川原寺(かわらでら)    飛鳥にあった仏教寺院。 跡地は国の史跡に指定されている。

飛鳥寺(法興寺)・薬師寺・大官大寺(大安寺)と並び「飛鳥の四大寺」の1つに数えられた大寺院であったが、 中世以降衰微し廃寺となった。 現在は跡地にある真言宗豊山派の弘福寺(ぐふくじ)が法燈を継承する。
川原寺は、飛鳥寺、薬師寺、大官大寺と並ぶ飛鳥の四大寺に数えられ、 7世紀半ばの天智天皇の時代に建立されたものと思われるが、 正史『日本書紀』にはこの寺の創建に関する記述がない。 そのため創建の時期や事情については長年議論され、 さまざまな説があり、「謎の大寺」とも言われている。 平城京遷都とともに他の三大寺(飛鳥寺、薬師寺、大官大寺)はその本拠を平城京へ移したが、 川原寺は移転せず、飛鳥の地にとどまった。

『日本書紀』の白雉4年(653年)条には「僧旻の死去にともない、 追善のため多くの仏像を川原寺に安置した」との記事があるが、 『書紀』の編者は「川原寺でなく山田寺であったかもしれない」との注を付しており、 『書紀』編纂の時点ですでにこの話はあやふやなものであったことがわかる。 川原寺の史料上の初見として確実なものは、 『書紀』の天武天皇2年(673年)3月の記事よれば、この時、 「書生(書き手)を集めて川原寺において初めて一切経を書写した」という。 この記事は、日本における一切経書写事業の初見として著名なものであるが、 川原寺の名はこの記事で唐突に現れ、 その創建事情については『書紀』は述べていない。 そのため、川原寺の創建については複数の説がある。

『諸寺縁起集』には敏達天皇13年(584年)創建とあるが、 出土遺物(瓦など)の年代から見て、 そこまで遡るとは考えられない。 前述の『書紀』の記述から見て、 天武天皇2年(673年)以前の創建であることは確かであると思われ、 天智天皇が母の斉明天皇(皇極天皇重祚)が営んだ川原宮の跡地に創建したとする説が有力となっている。 川原宮は、斉明天皇元年(655年)に飛鳥板蓋宮が焼失し、 翌斉明天皇2年(656年)に岡本宮へ移るまでの間に使用された仮宮である。

興福寺

興福寺(こうふくじ)は、奈良県奈良市登大路町(のぼりおおじちょう)にある法相宗の大本山の寺院。 山号はなし。 本尊は中金堂の釈迦如来。 南都七大寺の一つ。 藤原氏の祖・藤原鎌足とその子息・藤原不比等ゆかりの寺院で藤原氏の氏寺であり、 古代から中世にかけて強大な勢力を誇った。 「古都奈良の文化財」の一部として世界遺産に登録されている。
南円堂(本尊・不空羂索観音)は西国三十三所第9番札所、 東金堂(本尊・薬師如来)は西国薬師四十九霊場第4番札所、 菩提院大御堂(本尊・阿弥陀如来)は大和北部八十八ヶ所霊場第62番札所となっている。 また、境内にある一言観音堂は南都七観音巡拝所の一つである。

藤原鎌足夫人の鏡王女が夫の病気平癒を願い、 鎌足発願の釈迦三尊像を本尊として、 天智天皇8年(西暦669年)に山背国山階(現・京都府京都市山科区)で創建した山階寺(やましなでら)が当寺の起源である。 壬申の乱のあった天武天皇元年(西暦672年)、 山階寺は藤原京に移り、 地名の高市郡厩坂をとって厩坂寺(うまやさかでら)と称した。

和銅3年(西暦710年)の平城京への遷都に際し、 鎌足の子不比等は厩坂寺を平城京左京の現在地に移転し「興福寺」と名付けた。 この西暦710年が実質的な興福寺の創建年といえる。 中金堂の建築は平城遷都後まもなく開始されたものと見られる。
その後も、天皇や皇后、また藤原氏によって堂塔が建てられ、伽藍の整備が進められた。 不比等が没した養老4年(西暦720年)には「造興福寺仏殿司」という役所が設けられ、 元来、藤原氏の私寺である興福寺の造営が国家の手で進められるようになった。 天平10年(西暦738年)3月28日には山階寺(興福寺)に食封千戸が朝廷から施入されている。...

施薬院

施薬院(せやくいん)

天平二年(西暦730年)光明皇后によって創設された病者の施療施設。 初め、藤原氏が経費を負担する施設であったが、のち役所となり、 別当・使・判官・主典の四等官および医師が任命された。
諸国より薬種を貢上させて、収容された京中の病人を治療したり、 京中の孤児・貧窮者を救済したりするため、 左右両京に設けられた悲田院(ひでんいん)と並んで救護活動をした。

このほか、諸国、諸寺にも同様の施設が設けられた。

(『続日本紀』‐天平二年(730)四月一七日「辛未、始置二皇后宮職施薬院一」)

国分寺

国分寺(こくぶんじ)は、西暦741年(天平13年)に聖武天皇仏教による国家鎮護のため、 当時の日本の各国に建立を命じた寺院であり、 国分僧寺(こくぶんそうじ)と国分尼寺(こくぶんにじ)に分かれる。
正式名称は、 国分僧寺が「金光明四天王護国之寺(こんこうみょうしてんのうごこくのてら)」、 国分尼寺が「法華滅罪之寺(ほっけめつざいのてら)」。 なお、壱岐や対馬には「島分寺(とうぶんじ)」が建てられた。

日本の国分寺・国分尼寺の先例として、 隋王朝を建てた文帝・楊堅による大興国寺(大興善寺)があった。 その後の唐王朝では、則天武后による大雲寺、中宗による竜興寺観、 玄宗による開元寺があった。

聖武天皇は、 天平9年(西暦737年)には国ごとに釈迦仏像1躯と挟侍菩薩像2躯の造像と『大般若経』を写す詔、 天平12年(西暦740年)には『法華経』10部を写し七重塔を建てるようにとの詔を出している。 ...

続日本紀』『類聚三代格』によれば、 天平13年(西暦741年)2月14日(日付は『類聚三代格』による)、 聖武天皇から「国分寺建立の詔」が出された。 その内容は、 各国に七重塔を建て、 『金光明最勝王経(金光明経)』と『妙法蓮華経(法華経)』を写経すること、 自らも金字の『金光明最勝王経』を写し、 塔ごとに納めること、 国ごとに国分僧寺と国分尼寺を1つずつ設置し、 僧寺の名は金光明四天王護国之寺、 尼寺の名は法華滅罪之寺とすることなどである。
寺の財源として、 僧寺には封戸50戸と水田10町、尼寺には水田10町を施すこと、 僧寺には僧20人・尼寺には尼僧10人を置くことも定められた。

国司の怠慢のために、多くの国分寺の造営は滞った。 天平19年(西暦747年)11月の「国分寺造営督促の詔」により、 造営体制を国司から郡司層に移行させるとともに、 完成させたら郡司の世襲を認めるなどの恩典を示した。 これにより、ほとんどの国分寺で本格的造営が始まった。

国分寺の多くは国府区域内か周辺に置かれ、 国庁とともにその国の最大の建築物であった。 また、大和国の東大寺・法華寺は総国分寺・総国分尼寺とされ、 全国の国分寺・国分尼寺の総本山と位置づけられた。

律令体制が弛緩して官による財政支持がなくなると、 国分寺・国分尼寺の多くは廃れた。 ただし、中世以後も相当数の国分寺が、 当初の国分寺とは異なる宗派あるいは性格を持った寺院として存置し続けたことが明らかになっており、 国分尼寺の多くは復興されなかったが、 後世に法華宗などに再興されるなどして現在まで維持している寺院もある。
なおかつての国分寺跡地近くの寺や公共施設(発掘調査など)で、 国分寺の遺品を保存している所がある。

四天王寺

四天王寺(してんのうじ) 西暦593年に造立が開始

四天王寺は、大阪市天王寺区四天王寺にある和宗の総本山の寺院。 山号は荒陵山(あらはかさん)。 本尊は救世観音(ぐぜかんのん)。 聖徳太子建立七大寺の一つとされている。 新西国三十三箇所第1番札所のほか多数の霊場の札所となっている。

『日本書紀』によれば推古天皇元年(西暦593年)に造立が開始されたという。 当寺周辺の区名、駅名などに使われている「天王寺」は四天王寺の略称である。 また、荒陵寺(あらはかでら)・難波大寺(なにわだいじ)・御津寺(みとでら)・堀江寺(ほりえでら)などの別称が伝えられている。

宗派は天台宗に属していた時期もあったが、 元来は特定宗派に偏しない八宗兼学の寺であった。 日本仏教の祖とされる「聖徳太子建立の寺」であり、 既存の仏教の諸宗派にはこだわらない全仏教的な立場から、 西暦1946年(昭和21年)に「和宗」の総本山として独立している。

四天王寺は蘇我馬子法興寺(飛鳥寺)と並び、 日本における本格的な仏教寺院としては最古のものである。...

あああ

中宮寺

中宮寺(ちゅうぐうじ)は、 奈良県生駒郡斑鳩町法隆寺北にある聖徳宗の寺院。 山号は法興山。

本尊は如意輪観音。 法隆寺に隣接し、 聖徳太子母后・穴穂部間人皇女のために創建した尼寺である。
開基(創立者)は聖徳太子または間人皇后とされる。 現存で日本最古の刺繍「天寿国繡帳」(天寿国曼荼羅、国宝)を所蔵する。 ...

歴史
中宮寺は、現在は法隆寺東院に隣接しているが、 創建当初は500メートルほど東の現・中宮寺跡史跡公園にあった。
現在地に移転したのは中宮寺が門跡寺院(代々皇族、貴族などが住持となる格式の高い寺のこと)となった16世紀末頃のことと推定される。 旧寺地の発掘調査の結果から、 法隆寺と同じ頃の7世紀前半の創建と推定されるが、 創建の詳しい事情は不明である。
天平19年(747年)の『法隆寺縁起』や『上宮聖徳法王帝説』には、 「聖徳太子建立七寺」の一つとされるが、確証はない。 中宮寺独自の創立縁起は伝わらず、 『日本書紀』にも中宮寺創建に関する記載はない。 ただ、発掘調査で尼寺である向原寺(桜井尼寺)と同系統の瓦が出ていることから、 当初から尼寺であったようである。 寺伝では現在の本尊である如意輪観音は当初からの金堂の本尊であるとしている。

平安時代の『聖徳太子伝暦』は、 中宮寺は聖徳太子が母・穴穂部間人皇女(間人皇后)の宮殿を寺としたと伝え、 後には間人皇后自身が発願者であるという伝承も生まれる。 鎌倉時代の顕真が著した『聖徳太子伝私記』の裏書には、 「葦垣宮、岡本宮、鵤宮(いかるがのみや)の3つの宮の中にあった宮なので中宮といい、それを寺にした時に中宮寺と号した」との説が記載されている。

中宮寺は平安時代以降衰微していったが、 鎌倉時代には中興の祖とされる信如比丘尼によって復興が図られた。 信如は文永11年(1274年)、 法隆寺の綱封蔵から聖徳太子ゆかりの「天寿国?帳」を再発見したことで知られる。
この頃の宗旨は法相宗であったが、その後は真言宗泉涌寺派となっている。

その後、戦国時代に中宮寺は炎上したため、 ついに現在地にあった法隆寺の子院に避難し、 そのままそこに寺基を移すこととなった。
江戸時代初期の慶長7年(1602年)、慈覚院宮を初代門跡に迎え、 以後は尼門跡斑鳩御所として明治時代を迎え、今日に至っている。
太平洋戦争後、 法隆寺を総本山とする聖徳宗に合流した。 法要に際して法隆寺の僧に助力を乞うなど、 創立から現代に至るまで法隆寺と一体ともいえる寺である。
境内
創建当時の中宮寺跡は現境内の東方約500メートル、 斑鳩町法隆寺東2丁目にあり、国の史跡に指定されている。 この地はかつての地名を大字法隆寺字旧殿(くどの)といい、 伽藍跡とおぼしき土壇が残っていた。 1963年(昭和38年)より石田茂作らによる発掘調査が行われ、 金堂と塔の跡を検出。 大阪の四天王寺と同様に、 金堂を北、塔を南に並べる伽藍配置であったことが分かっている。 ただし、講堂、回廊等の遺構は未検出である。 この伽藍の特徴の一つは、金堂と塔の距離が近く、 軒を接するように建っていたと推定される点である。 塔の心礎は地中に深く埋める形式とする。 これは四天王寺、飛鳥寺、法隆寺などの塔心礎と同様で、 創建時代が古いことを示唆する。

その後数次の発掘調査により、 寺地を区画する築地の跡が検出され、 境内地は東西約130メートル、 南北約165メートルの規模であったことが判明した。 東西の130メートルは高麗尺の1町にほぼ相当する。 2018年(平成30年)5月、伽藍跡が整備され中宮寺跡史跡公園として完成した。

現在の境内は夢殿のある法隆寺東院のすぐ東に接する子院地を拝借している。

2021年(令和3年)にかけて、 本尊などを「奈良・中宮寺の国宝」展(宮城県美術館および九州国立博物館)で貸し出し、 その間にクラウドファンディングを含む寄付で募った資金により本堂を改修。 同年4月5日から拝観を再開した。

唐招提寺

唐招提寺(とうしょうだいじ)

奈良市五条町にある律宗総本山。 本尊は盧舎那仏(るしゃなぶつ)。 西暦756年(天平勝宝8年)、 聖武天皇孝謙上皇の勅願により来朝した唐僧過海(かかい)大師鑑真和上(がんじんわじょう)が新田部(にいたべ)親王の旧宅を譲り受けて建立した寺で、 戒壇(かいだん)を設け律宗の根本道場とした。

初めは唐律招提寺(とうりつしょうだいじ)、 唐寺(とうじ)、 律寺などと称され、 延喜(えんぎ)式十五大寺、南都七大寺の一つに数えられた。 西暦759年(天平宝字3年)「唐招提寺」の勅額が下賜されたが、 その勅文には、 「招提是諸寺本寺十方僧依所、日域七衆根本寺、故號唐招提寺」とあり、 四方僧坊の義をとり、諸寺の根本とした。 以後、天皇・皇后以下百官も皆ここで受戒し、 帰依(きえ)も厚かった。

『大般若経(だいはんにゃきょう)』『金光明(こんこうみょう)経』を読ませ、 鎮護国家金光明建初律唐招提寺と号したこともあった。 王朝とともに隆盛を極めていた唐招提寺はやがて勢力を失い、 平安末期には興福寺(法相(ほっそう)宗)の末寺となった。 その後、嘉禎(かてい)年間(西暦1235年~西暦1238年)覚盛上人(かくじょうしょうにん)が中興第1世となって戒律を復興し寺域を整えたが、 ふたたび戦国の兵乱、地震による倒壊などで衰えた。

江戸時代に徳川5代将軍綱吉(つなよし)、 その生母桂昌院(けいしょういん)らの帰依により大規模な修理がなされた。
西暦1900年(明治33年)独立して律宗総本山となる。

東大寺

東大寺(とうだいじ)

奈良県奈良市雑司町にある華厳宗の大本山の寺院。 山号はなし。 本尊は奈良大仏として知られる盧舎那仏開山(初代別当)は良弁である。
大華厳寺金光明四天王護国之寺ともいい、 奈良時代(8世紀)に聖武天皇が国力を尽くして建立した寺である。

奈良時代には中心堂宇の大仏殿(金堂)のほか、 東西2つの七重塔(推定高さ約70メートル以上)を含む大伽藍が整備されたが、 中世以降、2度の兵火で多くの建物を焼失した。 現存する大仏は、度々修復を受けており、 台座(蓮華座)などの一部に当初の部分を残すのみであり、 また現存する大仏殿は江戸時代中期の宝永6年(西暦1709年)に規模を縮小して再建されたものである。 「大仏さん」の寺として、古代から現代に至るまで広い信仰を集め、 日本の文化に多大な影響を与えてきた寺院であり、 聖武天皇が当時の日本の60余か国に建立させた国分寺の中心をなす「総国分寺」と位置付けされた。

聖武天皇による東大寺大仏造立後に、 国内では鎌倉大仏(現存)、 雲居寺大仏(現存せず)、 東福寺大仏(現存せず)、 方広寺の京の大仏(現存せず)などの大仏も造立されたが、 先発して造立された東大寺大仏・大仏殿の造形、建築意匠・構造は、 それらの大仏・大仏殿に対し多かれ少なかれ影響を与えた。

江戸時代には、 東大寺大仏 (像高約14.7m)、 鎌倉大仏(像高約11.39m)、 方広寺大仏(京の大仏)(像高約19m) の三尊が、日本三大仏と称されていた。

東大寺は西暦1998年(平成10年)12月に古都奈良の文化財の一部として、 ユネスコより世界遺産に登録されている。 ...

8世紀前半には大仏殿の東方、若草山麓に前身寺院が建てられていたことが分かっている。 東大寺の記録である『東大寺要録』によれば、 天平5年(733年)、 若草山麓に創建された金鐘寺(または金鍾寺(こんしゅじ))が東大寺の起源であるとされる。 一方、正史『続日本紀』によれば、 神亀5年(西暦728年)、 第45代天皇である聖武天皇と光明皇后が幼くして亡くなった皇子・基王の菩提を弔うため、 若草山の麓に「山房」を設け、 9人の僧を住まわせたことが知られる、 これが金鐘寺の前身と見られる。 金鐘寺には、8世紀半ばには羂索堂、千手堂が存在したことが記録から知られ、 このうち羂索堂は現在の法華堂(=三月堂、本尊は不空羂索観音)を指すと見られる。 天平13年(西暦741年)には国分寺建立の詔が発せられ、 これを受けて翌天平14年(西暦742年)、 金鐘寺は大和国の国分寺兼総国分寺と定められ、 寺名は金光明寺と改められた。

大仏の鋳造が始まったのは天平19年(西暦747年)で、 この頃から「東大寺」の寺号が用いられるようになったと思われる。 なお、東大寺建設のための役所である「造東大寺司」が史料に見えるのは天平20年(西暦748年)が最初である。

聖武天皇が大仏造立の詔を発したのはそれより前の天平15年(西暦743年)10月15日である。 当時、都は山背国の恭仁京(現・京都府木津川市)に移されていたが、 天皇は恭仁京の北東に位置する紫香楽京(現・滋賀県甲賀市信楽町)におり、 大仏造立もここで始められた。 聖武天皇は短期間に遷都を繰り返したが、 2年後の天平17年(西暦745年)、 都が平城京に戻ると共に大仏造立も現在の東大寺の地で改めて行われることになった。 この大事業を推進するには幅広い民衆の支持が必要であったため、 朝廷から弾圧されていた行基を大僧正として迎え、協力を得た。 また、天平勝宝元年(西暦749年)には鎮守社として手向山八幡宮が創建されている。

難工事の末、 ようやく大仏の鋳造が終了し、 天竺(インド)出身の僧・バラモン僧正菩提僊那を導師として大仏開眼会(かいげんえ)が挙行されたのは天平勝宝4年(西暦752年)のことであった。 そして、大仏鋳造が終わってから大仏殿の建設工事が始められ、 竣工したのは天平宝字2年(西暦758年)であった。

東大寺では大仏創建に力のあった良弁、聖武天皇、行基、菩提僊那を「四聖(ししょう)」と呼んでいる。

毘盧遮那仏

毘盧遮那仏(びるしゃなぶつ)

大乗仏教における仏の1つ。華厳経において中心的な存在として扱われる尊格である。 密教においては大日如来と同一視される。 尊名は華厳経では「」の字を用いて毘盧那仏、 大日経では「」の字を用いて毘盧那仏と表記される。

「輝くものの子」を意味するサンスクリット語の音写。 毘盧舎那仏とも音写し、 略して盧舎那仏、 遮那、または「びるさな仏」「るさな仏」ともいう。

訳して光明遍照、遍一切処。 仏陀の智慧の広大無辺なことを象徴し、『華厳経』の本尊。
奈良の大仏はその造形で、右手は施無畏印、左手は与願印とされる。
法相宗では、盧舎那、釈迦仏を受用、変化二身とし、 毘盧舎那仏を自性身として区別する。
天台宗では毘盧舎那仏、盧舎那仏、釈迦仏を、 それぞれ法身、報身、 応身の三身に配して究竟の妙境に顕現するものを毘盧舎那仏とする。
密教ではこの仏陀を大日如来とみなして理智不二の法身であるとする。
日本では8世紀以来信仰され、造像されたが遺品はきわめて少い。

天平勝宝4年(西暦752年)に開眼供養会が行われ、後世に複数回焼損し、 翌元禄5年(西暦1692年)に再建され、開眼供養され現存している東大寺の大仏
右に薬師如来立像、左に千手観音立像にはさまれた唐招提寺金堂の本尊・盧舎那仏坐像
福岡県太宰府戒壇院の本尊が著名である。

薬師寺

薬師寺(やくしじ)は、奈良県奈良市西ノ京町にある法相宗の大本山の仏教寺院。
山号はなし。 本尊は薬師三尊。 南都七大寺の一つ。 開基は天武天皇。
西暦1998年平成10年)に「古都奈良の文化財」の構成資産の一つとして、 国際連合教育科学文化機関(ユネスコ)により世界文化遺産に登録されている。

西暦680年天武天皇9年)、 天武天皇の発願により、 飛鳥の藤原京(奈良県橿原市城殿〈きどの〉町)の地に造営が開始され、 平城京への遷都後の8世紀初めに現在地の西ノ京に移転したものである。 ただし、 飛鳥の薬師寺(本薬師寺)の伽藍も10世紀頃までは引き続き存続していたと見られる。...