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作成日:2024/7/24

ユダヤ教、キリスト教、イスラーム、ヒンドゥー教、仏教

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イスラム教

イスラム教

イスラム[教] / イスラーム[教]  [教]を付ける必要はないが、一般にその宗教体系をイスラム教という

アラビアで7世紀の初め、 ムハンマドが創始した一神教で、 強大な宗教国家を建設し、世界宗教に発展した。
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 イスラーム教は、「神(アッラー)は唯一にして、ムハンマドはその使徒である」ということを信じ、 ムハンマドのことば(『コーラン』)を神の言葉と認める宗教である。 7世紀の初め、アラビアでイスラーム教が成立し西アジアに急速に広がった。 「イスラーム」(またはイスラム)とは、その言葉だけで神への絶対的な帰依、服従を意味するので、 「教」をつける必要はないが、 一般にその宗教体系を「イスラーム教」と言っている。 以前は「イスラム」と表記されたが、 最近はなるべく原発音に近い表記にしようというので「イスラーム」とされることが多くなった。 別な言い方では、「マホメット教」とか「回教(かいきょう)」、「回回教(フイフイ教)」などとも言われるが、 マホメットはムハンマドのことで、イスラーム教では個人崇拝はしないので誤った言い方である。 また回教は中央アジアに住むウィグル民族を中国で「回?」の文字を当て、 彼らがイスラーム教徒であったので、 13世紀ごろからイスラーム教を意味する語を回教というようになったものであるが、 これもイスラーム教を特定の民族と結びつけるのは誤っている。 世界宗教としてのイスラーム教  イスラームは当初はアラブ人の信仰であったが、ムハンマドの貧富や民族を超えた人間の神の前での平等を説く教えはまたたくまにアラブ人の枠を超えて広がり、ムスリム=神に身を捧げた者、といわれるその信者は西アジアを中心に世界に広がり、仏教・キリスト教とともに三大世界宗教とされるに至った。その世界宗教としての優れた普遍性と明快さが西アジアの多数の民族、とくにイラン人、トルコ人に広がって、現在に至るまで世界史の大きな軸の一つとなっている。ムハンマドの死後はその教えは代々のカリフに継承され、その間も拡大を続け、アフリカ内陸部、中央アジア、インド、東南アジアに広がっていく。その間、正統性と教義をめぐって分裂が始まり、現在のイスラーム教はいくつかの宗派に分かれているが、世界全体で約12億人の信者がいるとされている。キリスト教徒は約20億、ヒンドゥー教徒(インドの民族宗教)が8.2億、仏教徒が3.6億なので、イスラーム教は第2位の信者数を持っているといえる。その主な分布は、西アジア・中央アジア・アフリカ・東南アジアであるが、最近はその地域から移住した人々が増加したため、アメリカやヨーロッパでのイスラーム教徒数が急増している。
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イスラム教(イスラムきょう)、イスラーム教、イスラム、イスラーム(アラビア語:???????, al-Isl?m, アル=イスラーム[2])は 中東で生まれた一神教の名称。 唯一絶対の神(アッラー)を信仰し、神が最後の預言者を通じて人々に下した(啓示した)とされるクルアーンの教えを信じ、従う一神教である。漢字圏においては回教(かいきょう)または回々教(フイフイきょう)と呼ばれる。 ユダヤ教やキリスト教と同じセム系の一神教で、偶像崇拝[注釈 1]を徹底的に排除し、神への奉仕を重んじるとともに、全ての信徒がウンマと呼ばれる信仰共同体に属すると考えて、信徒同士の相互扶助関係や一体感を重んじる点に大きな特色があるとされる。 一般には法律と見做される領域まで教義で定義している、信者の内心が問われない、正しい行いをしているか、天国に行けるかは神が決めることで死ぬまでは(国家がイスラム教について規定する場合はともかくとして、少なくとも本質的には)人間の間で問題にされないなどの点で、仏教やキリスト教とは大きく異なる[3]。

ムハンマド

ムハンマド / マホメット  西暦570年頃 - 西暦632年6月8日 アラブ人

イスラム教を創始した預言者。 メッカの大商人の家に生まれ、 40歳でアッラーの啓示を受け、 布教を開始した。 ムハンマドの全名は「ムハンマド・イブン=アブドゥッラーフ・イブン=アブドゥルムッタリブ」であり、 「アブドゥルムッタリブの息子アブドゥッラーフの息子ムハンマド」の意味。

西暦622年メッカで迫害されメディナに移り、 教団(ウンマ)を形成、 西暦630年メッカを征服してカーバを一神教の神殿とした。 その結果、 諸部族が次々と帰順しアラビア半島の政治的・宗教的統一を果たし、 西暦632年に死去した。

その言行録『コーラン』はイスラーム教の聖典とされている。

生涯

啓示

ムハンマドは、 アラビア半島の商業都市メッカで、 クライシュ族のハーシム家に生まれた。 父アブド・アッラーフ(アブドゥッラーフ)は彼の誕生する数か月前に死に、 母アーミナもムハンマドが幼い頃に没したため、 ムハンマドは祖父アブドゥルムッタリブと叔父アブー・ターリブの庇護によって成長した。

成長後は、一族の者たちと同じように商人となり、 シリアへの隊商交易に参加した。 25歳の頃、富裕な女商人ハディージャに認められ、 15歳年長の寡婦であった彼女と結婚した。 ハディージャは、ムハンマド最愛の妻として知られる。 ムハンマドはハディージャとの間に2男4女をもうけるが、 男子は2人とも成人せずに夭折した。

西暦610年8月10日、 40歳ごろのある日、 悩みを抱いてマッカ郊外のヒラー山の洞窟で瞑想にふけっていたムハンマドは、 そこで大天使ジブリール(ガブリエル)に出会い、 唯一神(アッラーフ)の啓示(のちにクルアーンにまとめられるもの)を受けたとされる。 その後も啓示は次々と下されたと彼は主張し、 預言者としての自覚に目覚めたムハンマドは、 近親の者たちに彼に下ったと彼が主張する啓示の教え、 すなわちイスラーム教を説き始めた。 最初に入信したのは妻のハディージャで、 従兄弟のアリーや友人のアブー・バクルがそれに続いた。

西暦613年頃から、 ムハンマドは公然とマッカの人々に教えを説き始めが、 最初はメッカの有力者であるクライシュ族の裕福な商人を含め、 地元住民たちはムハンマドに反感らしき感情を持たなかった。 しかし、ムハンマドがアッラー以外の神々に対して罵倒を始めたとき、 クライシュ族の有職者はムハンマドの思想を危険思想だと受け止めた。 というのも、クライシュ族はカーバ神殿を管理しており、 巡礼者が落とすお金は生活基盤となっており、 また結縁関係を重視した民族であるため、 生活基盤をひっくり返す危険性、 血縁関係を壊すようなムハンマドの教えは、 一族の基盤を覆しかねないと危惧されたのだ。 アラビア人伝統の多神教の聖地でもあったメッカを支配する有力市民たちは、 ムハンマドとその信徒(ムスリム)たちに商取引を禁じるなど経済的な激しい迫害を加え、 窮地に追い込んでいった。 伯父アブー・ターリブは、 ハーシム家を代表してムハンマドを保護しつづけたが、 西暦619年頃亡くなり、 同じ頃妻ハディージャが亡くなったので、 ムハンマドはメッカでの布教に限界を感じるようになった。
聖遷

西暦622年、 ムハンマドは、 ヤスリブ(のちのメディナの住民からアラブ部族間の調停者として招かれた。 これをきっかけに、 マッカで迫害されていたムスリムは、 次々にヤスリブに移住した。 マッカの有力者達は、 ムハンマドがヤスリブで勢力を伸ばすことを恐れ、 刺客を放って暗殺を試みた。 これを察知したムハンマドは、 甥のアリーの協力を得て、 新月の夜にアブー・バクルと共にマッカを脱出した。 マッカは追っ手を差し向けたが、 ムハンマドらは10日ほどかけてヤスリブに無事に辿り着いた。 この事件をヒジュラ(元来移住という意味だが聖遷や遷都と訳されることが多い)と言い、 この年はのちにヒジュラ暦元年と定められた。 また、ヤスリブの名をマディーナ・アン=ナビー(預言者の町、略称マディーナ)と改めた。

マディーナでは、 マッカからの移住者(ムハージルーン)とヤスリブの入信者(アンサール)を結合し、 ムハンマドを長とするイスラーム共同体(ウンマ)を結成した。
敵対者との戦争

ムハンマド率いるイスラーム共同体は、 周辺のベドウィン(アラブ遊牧民)の諸部族と同盟を結んだり、 ムハンマドに敵対するマッカの隊商交易を妨害したりしながら、 急速に勢力を拡大した。 こうして両者の間で睨み合いが続いたが、 ある時、マディーナ側はマッカの大規模な隊商を発見し、これを襲撃しようとした。 しかし、それは事前にマッカ側に察知され、 それを阻止するために倍以上の部隊を繰り出すが、バドルの泉の近くで両者は激突、 マディーナ側が勝利した。 これをバドルの戦いと呼び、以後イスラム教徒はこれを記念し、 この月(9月、ラマダーン月)に断食をするようになった。

翌年、バドルの戦いで多くの戦死者を出したマッカは、 報復戦として大軍で再びマディーナに侵攻した。 マディーナ軍は、戦闘前に離反者を出して不利な戦いを強いられ、 マッカ軍の別働隊に後方に回り込まれて大敗し、 ムハンマド自身も負傷した(ウフドの戦い)。 これ以後、ムハンマドは、組織固めを強化し、 マッカと通じていたユダヤ人らを追放した。

西暦627年、 マッカ軍と諸部族からなる1万人の大軍がムスリム勢力の殲滅を狙って侵攻してきた。 このときムハンマドは、 ウフドの戦いを教訓にサハーバの一人であり、 ペルシャ人技術者のサルマーン・アル=ファーリスィーに命じて、 マディーナの周囲に塹壕を掘らせた。 それにより、敵軍の侵攻を妨害させ、 また敵軍を分断し撤退させることに成功した。 アラビア語で塹壕や防御陣地の掘のことをハンダクと呼ぶため、 この戦いはハンダクの戦い(塹壕の戦い)と呼ばれる。 マッカ軍を撃退したイスラム軍は、武装を解かず、 そのままマッカと通じてマディーナのイスラーム共同体と敵対していた、 マディーナ東南部のユダヤ教徒、 クライザ族の集落を1軍を派遣して包囲した。

西暦628年、 ムハンマドは、フダイビーヤの和議によってマッカと停戦した。 この和議は当時の勢力差を反映してマディーナ側に不利なものであったが、 ムスリムの地位は安定し、 以後の勢力拡大にとって有利なものとなった。 この和議の後、 先年マディーナから追放した、 同じくユダヤ教徒系のナディール部族の移住先ハイバルの二つの城塞に遠征を行い、 再度の討伐によってこれを降伏させた。 これにより、ナディール部族などの住民はそのまま居住が許されたものの、 ハイバルのナツメヤシなどの耕地に対し、 収穫量の半分を税として課した(ハイバル遠征)。 これに伴い、ムスリムもこれらの土地の所有権が付与されたと伝えられ、 このハイバル遠征がその後のイスラーム共同体における土地政策の嚆矢、 征服地における戦後処理の一基準となった言われている。 しかし、ユダヤ教徒側と結んだ降伏条件の内容や、 ウマルの時代に彼らが追放された後ムスリムによる土地の分配過程については、 様々に伝承されているものの詳細は不明な点が多い。 この遠征の後、 ファダク、ワーディー・アル=クラー、タイマーといった周辺のユダヤ教徒系の諸部族は、 相次いでムハンマドに服従する事になった。 自信を深めたムハンマドは、 ビザンツ帝国やサーサーン朝など周辺諸国に親書を送り、 イスラム教への改宗を勧め、 積極的に外部へ出兵するなど対外的に強気の姿勢を示した。

西暦630年にマッカとマディーナで小競り合いがあり停戦は破れたため、 ムハンマドは1万の大軍を率いてマッカに侵攻した。 予想以上の勢力となっていたムスリム軍に、 マッカは戦わずして降伏した。 ムハンマドは、 敵対してきた者達に当時としては極めて寛大な姿勢で臨み、 ほぼ全員が許された。 しかし、数名の多神教徒は処刑された。 カアバ神殿に祭られる360体の神像・聖像はムハンマド自らの手で破壊された。

晩年

ムハンマドは、マッカをイスラム教の聖地と定め、 異教徒を追放した。 ムハンマド自身は、その後もマディーナに住み、 イスラーム共同体の確立に努めた。 さらに、1万2000もの大軍を派遣して、 敵対的な態度を取るハワーズィン、 サキーフ両部族を平定した。 以後、アラビアの大半の部族からイスラム教への改宗の使者が訪れ、 アラビア半島はイスラム教によって統一された。

また東ローマ帝国への大規模な遠征もおこなわれたが失敗した。

西暦632年、 マッカへの大巡礼(ハッジ)をおこなった。 このとき、 ムハンマド自らの指導により五行(信仰告白、礼拝、断食、喜捨、巡礼)が定められた。 大巡礼を終えてまもなく、 ムハンマドの体調は急速に悪化した。 ムハンマドは、 アラビア半島から異教徒を追放するように、 また自分の死後もクルアーンに従うようにと遺言し、 マディーナの自宅で没し、 この地に葬られた。 彼の自宅跡と墓の場所は、 マディーナの預言者のモスクになっている。

ヒンドゥー教

ヒンドゥー教は、 インドやネパールで多数派を占める民族宗教、 またはインド的伝統を指す。 西欧で作られた用語である。 ヒンドゥー教徒の数はインド国内で10億人、 その他の国の信者を合わせると約11億人以上とされ、 キリスト教、 イスラム教に続いて、 人口の上で世界で第3番目の宗教である。

狭い意味でのヒンドゥー教は、 バラモン教から聖典やカースト制度を引き継ぎ、 土着の神々や崇拝様式を吸収しながら徐々に形成されてきた多神教である。 紀元前2000年頃にアーリア人がイランからインド北西部に侵入した。 彼らは紀元前1500年頃ヴェーダを成立させ、 これに基づくバラモン教を信仰した。

慣用表記でヒンズー教、ヒンヅー教、ヒンド教、ヒンドゥ教。

仏教

仏教(佛敎)は、 インドの釈迦を開祖とする宗教。 仏陀(仏、目覚めた人、梵: Buddha)の説いた教え。 キリスト教・イスラム教に次ぐ世界宗教の1つで、 世界で4番目に大きな宗教である(信者の数はヒンドゥー教の方が多いが、ヒンドゥー教は信者がほぼインドに限られているため、世界宗教とは言いがたい)。 世界人口の7%である5億2000万人以上が仏教徒(信者)であり、 特に東アジア、東南アジア、南アジアで広まっている。

仏陀の滅(仏滅という)後、 100年ないしは200年後には拡大しすぎた教団に分裂が起こり、 保守派の上座部(じょうざぶ)と進歩派の大衆部(だいしゅぶ)とに分かれ、 その後さらに細分裂が進行する。 こうして生じた部派のうち、上座部系の長老部の仏教が紀元前3世紀なかばにスリランカに伝えられて、 いわゆる南伝仏教(または南方仏教)を形成する。 しばらくしておよそ紀元前後ごろから大乗仏教がおこり、 ここにあまたの大乗の諸仏が新たに出現した。

日本において、仏教という言葉は、明治時代に始まった。 江戸末期までは仏法、仏道とよばれた。 仏陀の教えという意味で仏法、仏陀となるための修行を含む意味で仏道という。 仏教が日本に伝来したのは西暦538年あるいは西暦552年とされる(仏教公伝)。 その後、 蘇我氏の崇仏と物部氏・中臣(なかとみ)氏の排仏の争いがあったが、 聖徳太子によって仏教の受容が確定し、 日本に仏教が根を下ろすことになったと伝えられている。

釈迦

釈迦(しゃか)  旧字体:釋迦

釈迦は、北インドの人物で、仏教の開祖。 ただし、 存命していた時代については紀元前7世紀紀元前6世紀紀元前5世紀など複数の説があり、 正確な生没年は分かっていない。

姓名はサンスクリット語の発音に基づいた表記ではガウタマ・シッダールタ、 パーリ語の発音に基づいてゴータマ・シッダッタとも表記される。 漢訳では瞿曇悉達多(くどんしっだった)などがある。

仏舎利と言われる遺骨は真身舎利、 真正仏舎利として今も祀られ、 信仰を集めている。

仏教公伝

仏教公伝(ぶっきょうこうでん)とは、公的に仏教が伝えられたことを意味する。

従来は単に仏教伝来と称されたが、 公伝以前にすでに私的な信仰としては伝来していたと考えられるため、 区別のため「公伝」と称されることが多い。

日本においては6世紀半ばの欽明天皇期、百済から古代日本(大和朝廷)への仏教公伝のことを指すのが一般的である。
有力な説として西暦552年(『日本書紀』の説)と西暦538年の2説がある。 ...

公伝以前の状況

ネパールのルンビニで生まれた仏教は、 主として東南アジア方面(クメール王朝、シュリーヴィジャヤ王国)に伝播した南伝仏教と、 西域(中央アジア)を経由して中国から朝鮮半島などへ広がった大乗仏教(北伝仏教)に分かれる。
古代の日本に伝えられたのは、 主に北伝仏教である。
中国において紀元1世紀頃に伝えられた仏教は、 原始ネパール仏教の忠実な継承にこだわることなく、 戒律や教義解釈などで独自の発展を遂げた。
特に4世紀における鳩摩羅什(クマーラジーヴァ)の翻訳による漢訳仏典の充実は、 漢字を共通の国際文字として使用する周辺諸国への北伝仏教を拡大した。
南北朝時代には三論宗・成実宗などの経学が流行し、 これらの流れがさらに東へ伝播していく。
北魏の孝文帝や「皇帝菩薩」と称された梁の武帝など、 仏教拡大に熱心な皇帝も現れ、 周辺諸国への普及も加速した。
朝鮮三国における仏教受容
古代、 三国に分かれていた朝鮮半島においては、 それぞれ各個に仏教が公伝された。
最も北にあり、 中国に近かった高句麗へは西暦372年、 小獣林王の時代に前秦から伝えられたとされる。
西暦375年には肖門寺・伊弗蘭寺などが建立された。

大和朝廷と盟友関係となる百済では、 これより若干遅れて、 西暦384年に枕流王が東晋から高僧の摩羅難陀を招来し、 西暦392年には阿莘王(阿華王)が仏教を信仰せよとの命を国内に布告している。
ただし、 百済国内に本格的に仏教が普及するのはそれより1世紀ほど遅れた6世紀初頭である。

残る新羅においては上記2国よりも遅れ、 西暦5世紀始めごろに高句麗から伝えられたという。
法興王の時代に公認された後は、 南朝梁との交流もあり、 国家主導の仏教振興策がとられるようになっていた。
渡来人による私的崇拝
古代の日本には、 古くから多くの渡来人(帰化人)が連綿と渡来してきており、 その多くは朝鮮半島の人間であった。
彼らは日本への定住にあたり氏族としてグループ化し、 氏族内の私的な信仰として仏教をもたらし、 信奉する者もいた。
彼らの手により公伝以前から、 すでに仏像や経典はもたらされていたようである。
西暦522年に来朝したとされる司馬達等(止利仏師の祖父)はその例で、 すでに大和国高市郡において本尊を安置し、 「大唐の神」を礼拝していたと『扶桑略記』にある。
仏教公伝と当時の国際環境
4世紀後半以降、 高句麗百済新羅は互いに連携・抗争を繰り返していた。
6世紀前半即位した百済の聖明王(聖王)は、 中国南朝梁の武帝から「持節・都督・百済諸軍事・綏東将軍・百済王」に冊封され、 当初新羅と結んで高句麗に対抗していた。
が、次第に新羅の圧迫を受け、西暦538年には都を熊津から泗沘へ移すことを余儀なくされるなど、 逼迫した状況にあり、 新羅に対抗するため、 さかんに大和朝廷に対して援軍を要求していた。
百済が大和朝廷に仏教を伝えたのも、 大陸の先進文化を伝えることで交流を深めること、 また東方伝播の実績をもって仏教に心酔していた梁武帝の歓心を買うことなど、 外交を有利にするためのツールとして利用したという側面があった。

公伝年代をめぐる諸説

日本への仏教伝来の具体的な年次については、 古来から有力な説として西暦552年と西暦538年の2説あり、 現在では 西暦538年が有力とされている。
ただ、 これ以前より渡来人とともに私的な信仰として日本に入ってきており、 さらにその後も何度か仏教の公的な交流はあったと見て、 公伝の年次確定にさほどの意義を見出さない論者もいる。
以下では、 政治的公的に「公伝」が行われた年次確定の文献による考察の代表的なものを挙げるが、 いずれにおいても6世紀半ばに、 継体天皇没後から欽明天皇の時代に百済の聖王により伝えられた。
西暦552年(壬申)説
『日本書紀』(西暦720年成立、以後、書紀と記す)では、 欽明天皇13年(西暦552年、壬申)10月に百済の聖明王(聖王)が使者を使わし、 仏像や経典とともに仏教流通の功徳を賞賛した上表文を献上したと記されている。
この上表文中に『金光明最勝王経』の文言が見られるが、 この経文は欽明天皇期よりも大きく下った西暦703年(長安2年)に唐の義浄によって漢訳されたものであり、 後世の文飾とされ、 上表文を核とした書紀の記述の信憑性が疑われている。

伝来年が「欽明十三年」とあることについても、 南都仏教の三論宗系の研究においてこの年が釈迦入滅後1501年目にあたり末法元年となることや、 『大集経』による西暦500年ごとの区切りにおける像法第二時(多造塔寺堅固)元年にあたることなどが重視されたとする説があり、 これも後世の作為を疑わせる論拠としている。

また、 当時仏教の布教に熱心であった梁の武帝は、 太清2年(西暦548年)の侯景の乱により台城に幽閉され、 翌太清3年(西暦549年)に死去していたため、 仏教伝達による百済の対梁外交上の意義が失われることからも、 『日本書紀』の西暦552年説は難があるとされる。

しかしながら上表文の存在そのものは、 十七条憲法や大化改新詔と同様、 内容や影響から書紀やその後の律令の成立の直前に作為されたとは考えにくいとされ、 上表文そのものはあったとする見方がある。
西暦538年(戊午)説
『上宮聖徳法王帝説』(西暦824年以降の成立)や『元興寺伽藍縁起并流記資財帳』(西暦724年)には、 欽明天皇御代の「戊午年」に百済の聖明王から仏教が伝来したとある。
しかし書紀での欽明天皇治世(西暦540年 - 西暦571年)には戊午の干支年が存在しないため、 欽明以前で最も近い戊午年である西暦538年(書紀によれば宣化天皇3年)が有力と考えられた。 これら二書は書紀以前の作為のない典拠であると思われていたことも説の支持理由としていたが、 その後の研究でこれら二書の記述に淡海三船によって後世に追贈された歴代天皇の漢風諡号を含むことから書紀編纂以降の成立が明らかとなり、 論拠としては弱くなってしまった。
現在は両書に共通する「戊午年」を以って西暦538年とする説が有力である。

ただし、 西暦538年が実際に欽明天皇の御代であったかは疑問が残っている。

『百済本記』(ただし書紀のみに見られる逸書)を含む書紀や古事記の記載から、 継体 ― 安閑 ― 宣化 ― 欽明 と続く皇統年次が複数説あるため、 欽明天皇が在位していたとしても、 これを継体以降に空位を含んで短期間に皇位交代が行われたとする説、 継体直後に天皇出自を背景として欽明朝が並立していたとする説(喜田貞吉)、 さらに蘇我氏物部氏・大伴氏などとの他豪族どうしの対立を背景としていたとする説(林屋辰三郎)があり、 判然としないためである。
このため年次確定ができず、 「戊午年」は無視して「 志帰嶋[要説明](欽明)天皇の御代」だけにとどまる説もある。
その他の諸説
かつて百済の聖王の即位年代は、 『三国史記』、書紀、『梁書』、『周書』、『北史』によって西暦513年から西暦527年に至る諸説が存在した。
諸説あった当時は、 伝来年を西暦538年としたときと西暦552年としたとき、 これを聖王の即位から26年とすると、即位年がそれぞれ西暦513年、 西暦527年とどれも諸説に当てはまる共通性を見出して「聖王26年」を百済側から見た日本への伝来年として確定できるとの説があった。
しかし現在は聖王即位は西暦523年とほぼ確定していることから、 これを先の聖王26年[要説明]に当てはめ伝来公伝年を西暦548年とする説がある。
書紀には、 西暦545年9月に百済王が日本の天皇のために丈六(一丈六尺)の仏像を作成し、 任那に贈ったとの記述もあり、 事実とすればこの時期に大和朝廷の側に仏教受け入れの準備ができていたことを示すことから、 この年を重視する説がある。

受容の推移

上記の経緯によって百済から公式に伝来した仏教ではあったが、 その後の日本における受容の経緯は必ずしも順調とは言えなかった。
蕃神・今来神
仏教が伝来する以前、 日本には土着の宗教(信仰)として原始神道(古神道)が存在したと思われる。
新たに伝来した仏教における如来・菩薩・明王などの仏も、 これらの神といわば同列の存在と把握された。
これらは一般的な日本人にとって「蕃神ばんしん(あだしくにのかみ)」「今来の神(いまきのかみ)」「仏神」として理解されたようである。
受容の過程が下記のように紆余曲折を経たこともあり、 神道とは違う仏教の宗教としての教義そのものの理解は、 主として7世紀以降に進められることとなる。
崇仏論争
大和朝廷の豪族の中には原始神道の神事に携わっていた氏族も多く、 物部氏・中臣氏などはその代表的な存在であり、 新たに伝来した仏教の受容には否定的であったという。
いっぽう大豪族の蘇我氏は渡来人勢力と連携し、 国際的な視野を持っていたとされ、 朝鮮半島国家との関係の上からも仏教の受容に積極的であったとされる。

欽明天皇百済王からの伝来を受けて、 特に仏像の見事さに感銘し、 群臣に対し「西方の国々の『仏』は端厳でいまだ見たことのない相貌である。これを礼すべきかどうか」と意見を聞いた。
これに対して蘇我稲目は「西の諸国はみな仏を礼しております。日本だけこれに背くことができましょうか」と受容を勧めたのに対し、 物部尾輿中臣鎌足らは「我が国の王の天下のもとには、天地に180の神がいます。今改めて蕃神を拝せば、国神たちの怒りをかう恐れがあります」と反対したという(崇仏すうぶつ・廃仏論争)。
意見が二分されたのを見た欽明天皇は仏教への帰依を断念し、 蘇我稲目に仏像を授けて私的な礼拝や寺の建立を許可した。
しかし、 直後に疫病が流行したことをもって、 物部・中臣氏らは「仏神」のせいで国神が怒っているためであると奏上。
欽明天皇もやむなく彼らによる仏像の廃棄、寺の焼却を黙認したという。

以上が通説であるが、 近年では物部氏の本拠であった河内の居住跡から、 氏寺(渋川廃寺)の遺構などが発見され、 神事を公職としていた物部氏ですらも氏族内では仏教を私的に信仰していた可能性が高まっており、 同氏を単純な廃仏派とする見解は見直しを迫られている。
一方、 蘇我氏の側も神事を軽視していたわけではなく、 百済の聖明王の死を伝えに訪日した王子・恵に対し、王が国神を軽んじたのが王の死を招いたと諌めたのは蘇我稲目であった。
結局のところ、 崇仏・廃仏論争は仏教そのものの受容・拒否を争ったというよりは、 仏教を公的な「国家祭祀」とするかどうかの意見の相違であったとする説や、 仏教に対する意見の相違は表面的な問題に過ぎず、 本質は朝廷内における蘇我氏物部氏の勢力争いであったとする説も出ており、 従来の通説に疑問が投げかけられている。
その後の受容状況
仏教をめぐる蘇我稲目物部尾輿の対立は、 そのまま子の蘇我馬子物部守屋に持ち越される。
馬子は渡来人の支援も受け、 仏教受容の度を深めた。
司馬達等の娘・善信尼を始めとした僧・尼僧の得度も行われた。
しかし敏達天皇の末年に再び疫病疫病が流行し(馬子自体も罹患)、 物部守屋・中臣勝海らはこれを蘇我氏による仏教崇拝が原因として、 大規模な廃仏毀釈を実施した。
仏像の廃棄や伽藍の焼却のみならず、 尼僧らの衣服をはぎ取り、 海石榴市で鞭打ちするなどしたという。
だがこれも、 仏教の問題というよりは、 次期大王の人選も絡んだ蘇我氏物部氏の対立が根底にあった。
続く用明天皇は仏教に対する関心が深く、 死の床に臨んで自ら仏法に帰依すべきかどうかを群臣に尋ねたが、 欽明天皇代と同様の理由により物部守屋は猛反対した(第二次崇仏論争)。
ここで注目されるのは、 用明天皇が正式に帰依を表明したきっかけが自身の病気であることである。
これは、 神祇・神道が持つ弱点であった穢れに対する不可触ーー病や死などに対処するための方策として仏教が期待され、 日本における仏教受容の初期的な動機になったことを示している]。
結局、蘇我・物部両氏の対立は西暦587年の丁未の乱により、 諸皇子を味方につけた蘇我馬子が、 武力をもって物部守屋を滅亡させたことにより決着する。
その後、 蘇我氏が支援した推古天皇が即位。
もはや仏教受容に対する抵抗勢力はなくなった。 推古朝では、 馬子によって本格的な伽藍を備えた半官的な氏寺・飛鳥寺が建立され、 また四天王寺法隆寺の建立でも知られる聖徳太子(厩戸皇子)が馬子と協力しつつ、 仏教的道徳観に基づいた政治を行ったとされる。
しかし、 この時期において仏教を信奉したのは朝廷を支える皇族・豪族の一部に過ぎず、 仏教が国民的な宗教になったとは言い難い(民衆と仏教が全く無関係であったわけではないが)。

奈良時代には鎮護国家の思想のもとに諸国に国分寺が設置されて僧・尼僧が配され、 東大寺大仏の建立、 鑑真招来による律宗の導入などが行われたが、 本格的な普及には遠かった。
平安時代には最澄による天台宗、空海による真言宗の導入による密教の流行、 末法思想・浄土信仰の隆盛などを契機として貴族層や都周辺の人々による仏教信仰は拡大しつつあったが、 全国にわたって庶民にまで仏教が普及するのは中世以降である。
鎌倉仏教の登場などにより全国の武士や庶民階層へ普及していき、 以後は日本独自の仏教が発展した。