出雲国造は都の太政官の庁舎で任命が行われる。
任命者は直ちに出雲国に戻って1年間の潔斎に入り、
その後国司・出雲大社祝部とともに改めて都に入り、
吉日を選んで天皇の前で奏上したのが神賀詞である。
『六国史』などによれば、
霊亀2年(西暦716年)から天長10年(西暦833年)までの間に15回確認できる。
その性格としては服属儀礼とみる見方と復奏儀礼とする見方がある。
『延喜式』にその文章が記述され、
『貞観儀式』に儀式の内容が記されているが、
前者の文章は8世紀中期以後の内容であると推定されている。
内容は天穂日命以来の祖先神の活躍と歴代国造の天皇への忠誠の歴史とともに、
明つ御神と表現される天皇への献上物の差出と長寿を祈願する言葉が述べられている。
「国引き神話」を始めとして出雲に伝わる神話などが記載され、
記紀神話とは異なる伝承が残されている。
現存する風土記の中で一番完本に近い。
西暦713年(和銅6年)に太政官が発した風土記編纂の官命により、
出雲国国司は出雲国庁に出雲国造の出雲臣果安(いずもおみはたやす)を招き、
出雲国風土記の編纂を委嘱した。
西暦733年(天平5年)になって、 出雲国造の出雲臣広島の監修のもと、 秋鹿郡(あいかのこおり)の人、 神宅臣金太理(かんやけのおみかなたり)の手によって出雲国風土記は編纂された。
総記、意宇・島根・秋鹿・楯縫・出雲・神門・飯石・仁多・大原の各郡の条、
巻末条から構成されている。
各郡の条には現存する他の風土記にはない神社リストがある。
神祇官に登録されている神社とされていないものに分けられ、 社格順に並べられていると推察される(島根郡を除く)。 自然の地形の項ではその地形の様子と特産品の情報が記されている。
正和3年(1314年)に橘寺の法空が著した。