百済の歴史は、 その首都の移動によって、 大きく漢城時代(475年まで)、 熊津時代(475-538年)、 泗?時代(538年から)に分類される。 漢城期には現在の京畿道を中心としていたが、 高句麗の攻撃によって首都漢城が陥落し、 一時的に滅亡した後は、 現在の忠清南道にあった熊津(現:公州)へと遷って再興した。 熊津時代の百済は弱体化していたが、 武寧王が高句麗を撃退したことにより次第に国力を回復し、 南方の伽耶(加羅)地方へと勢力を拡張した。 538年には新たな首都として泗?を建設し、 一層、伽耶地方を含む周囲への拡大を図った。 百済が存続していた時代には、 朝鮮半島北部から満州地方にかけての地域に高句麗、 朝鮮半島南東部に新羅、 半島南部には多数の伽耶諸国が存在していた。 この時代は朝鮮史の枠組みにおいて三国時代と呼ばれている。 中国の南朝と密接な関係を結び、 仏教や各種の南朝文化・学問を導入して栄え、 周辺諸国とも交流を持った。 現在、百済の歴史は高麗時代に編纂された歴史書『三国史記』や、 日本の『日本書紀』、 中国の歴代の正史などによって知られており、 また墓や寺院跡のような考古学的遺物からも学術的な調査が行われている。 宋山里古墳群(朝鮮語版)にある武寧王陵は百済の最も著名な墳墓で、 20世紀に未盗掘のまま発見されたため、 往時の文化遺産が多数残された。 中国で南北朝時代が終焉を迎え、 統一王朝の隋が成立するといち早く関係を結んだが、 ついで唐が成立すると、 唐は高句麗を制圧するためその背後を抑えるべく百済攻略を企図し、 新羅を支援して百済を攻撃した。 これによって660年に百済は滅亡し、 王族や遺臣たちは倭国(日本)の支援を受けて百済復興運動を起こしたが、 663年の白村江の戦いにおける敗戦とともに鎮圧された。 その後、 唐は旧百済領の経営に乗り出したが、 本国における問題と新羅による攻撃の結果、 最終的に朝鮮半島から撤退し、 百済の故地は新羅に組み入れられた。
百済の国名の由来はわかっていない。 『三国史記』「百済本紀」に記載される神話では初代王である温祚王が夫余の地から遷って建国した際、 10人の家臣の助力を得たことから国号を十済とし、 その後温祚王の兄の沸流に従っていた人々が温祚王の国に合流した際に、 百姓が楽しみ従ったことから国号を百済と改めたという。 朝鮮史研究者の井上秀雄は、 『三国史記』の訳注にて、 これを事実とは認めがたいとしている。 詳細は「建国神話節」を参照。 また、『隋書』「百済伝」は、移動の際に百家で海を済ったので、 それに因んで百済という国名となったと伝えている。 日本語における慣用呼称「クダラ」の起源については長く議論があり、古くは鮎貝房之進[6]や白鳥庫吉が文献史学や発音等の観点から推論を行っているが、今も正確なところは不明である。
百済は中国の歴史書『三国志』に見える馬韓諸国のなかの伯済国を母体として、漢城(現在のソウル)を中心として、少なくとも4世紀前半頃までには成立していたと見られ、日本の学界ではこの4世紀前半頃の成立とする説が定着している[7]。 後に編纂された『三国史記』(1143年成立)の記載に基づくと、百済の建国は紀元前18年となり、韓国の学界では1976年に千寛宇、李鍾旭らがこれを史実と定義して以来、現在でも有効な説の1つである[7]。ただし、李丙燾が1985年に3世紀後半の成立とする説を提唱して以来、3世紀後半に置く説が現在の韓国で最も有力な説となっている[7]。更に4世紀前半とする説もあるが[7]、どちらの場合でも、中央集権的な国家の出現は4世紀半ば以後のことと見られている[7]。 漢城を都とした百済の初期の歴史を記す史料は主として『三国史記』である。『三国史記』「百済本紀」の記事では、第12代契王以前の記録は伝説的・神話的な説話や後世の創作であることが疑われる記事が中心であり、そこから歴史上の出来事を復元するのは困難である[8]。
漢城時代( - 475年) 現在のソウル市にある石村洞3号墳。 高句麗の影響を受けたと見られる積石塚。 三国時代の朝鮮半島。 漢城時代の百済は北側で勢力を拡大する高句麗と武力衝突を繰り返した。371年、近肖古王(『三国史記』によれば第13代)の治世下、高句麗の平壌城を陥落させ、故国原王を戦死させる戦果をあげた。この頃から百済は外国史料に登場しはじめる。平壌占領の翌年には百済の使者が初めて東晋に入朝し、近肖古王は鎮東将軍領楽浪太守として封建された[8][9][10]。ほぼ同時期に倭国との通交も始まり、七支刀(七枝刀 ななつさやのたち)と呼ばれる儀礼用の剣が倭国へ贈られたことが『日本書紀』に見える[11][12]。 この刀は現存しており、銘文の分析から369年(近肖古王治世第24年)に作成されたと考えられている[注釈 1]。同じく『日本書紀』に見える百済の照古王は近肖古王を指すと考えられる。また、『三国史記』によれば近肖古王の治世に博士高興が百済に文字を伝え、初めて記録がされるようになったという[8][14]。 これらから、近肖古王の治世は百済が朝鮮半島における有力な国家の1つとして台頭する画期であり、国家体制が整備された時代と見なされている[8]。時代が進むと、周辺諸国との関係を通じて百済には多様な集団が関わるようになった。後の時代には倭国との連携強化と関わって百済の権力層に倭国系の姓氏を帯びる集団(倭系百済官僚)が登場し[15]、また楽浪遺民・帯方遺民などの中国系人士をはじめとする外来の多様な集団を権力内部に取り込まれ、これらを通じて百済は発展を遂げた[15]。 第15代枕流王の治世には南朝を経由して西域の僧侶摩羅難陀が百済に渡り、王から丁重な歓待を受けた。翌年には彼のために漢城(漢山)に仏寺が建設され、これが公式には最初の百済への仏教伝来とされている[16]。
高句麗と百済の戦争 391年に高句麗で広開土王(好太王)が即位し、百済に占領された領土の回復を図り、396年には漢江以北、大同江以南の地域を奪回した[16]。 百済は、高句麗の圧力増大の中、倭国に支援を求めた。阿?王6年(397年)には太子腆支が倭国へ人質として出され、引き換えに倭国の軍事的な介入が行われたと見られる。百済は、新羅とも結んで高句麗へ対抗した。 この間の事情は広開土王碑文に詳しく、それによれば391年以来、倭が海を渡り百済と新羅を臣民としたが、高句麗は396年に百済を破り百済王を服属させた。しかし399年に百済王が誓約を破り倭国と和通したため、翌400年には新羅へ出兵して倭軍を駆逐し、404年には帯方に侵入した倭を撃退、407年にも百済へ出兵して6城を奪ったという[17]。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが[注釈 2]、百済と高句麗が倭国も交えて長期に亘り戦いを続けていたこと自体は間違いがない。 高句麗の長寿王は奪回した平壌へ遷都し(427年)、本格的に朝鮮半島方面への経営に乗り出した[20]。華北の北魏との関係が安定するといよいよ百済に対する圧力は強まり、455年以後、高句麗による百済への侵攻が繰り返された[21]。これに対して百済は、この頃に高句麗の影響力の低減を目指していた新羅と結び、蓋鹵王の18年(472年)には北魏にも高句麗攻撃を要請した[22]。 醜類漸盛,遂見凌逼,構怨連禍,三十餘載,財殫力竭,轉自孱?,若天慈曲矜,遠及無外,速遣一將,來救臣國 醜類(高句麗)はようやく隆盛になり、ついに(我が百済を)侵略するようになりました。(このように)怨みを重ね禍いを連ねること三十余年になり、(百済は)財力も戦力も使いはたし、しだいに弱り苦しんでいます。 もし天子が弱くあわれな者に慈悲深く、(その慈愛が)はてしなく遠くまで及ぶのでしたら、速やかに一人の将軍を派遣して、臣の国を救ってください。 -『三国史記』百済本紀/蓋鹵王18年 井上秀雄訳[23]。 しかし、中国が南北朝時代にあった当時、百済は伝統的に中国の南朝と通交していた。北魏は高句麗がより熱心に遣使していることに触れ、百済への支援は提供されなかった。蓋鹵王21年(475年)には高句麗の長寿王が自ら率いた大軍によって王都漢城を包囲され、敗勢が決定的となった。蓋鹵王は脱出を試みたが捕縛され殺害された[24]。漢城陥落は『三国史記』と『日本書紀』、そして書紀が引用する『百済記』で言及されている。 二十一年,秋九月,麗王巨璉,帥兵三萬,來圍王都漢城,王閉城門,不能出戰,麗人分兵爲四道夾攻,又乘風縱火,焚燒城門,人心危懼,或有欲出降者,王窘不知所圖,領數十騎,出門西走,麗人追而害之 二十一年(475年)秋九月、(高句)麗王巨璉(長寿王)は三万人の軍隊を率いて、王都の漢城を包囲した。 王は城門を閉ざし、(城を出て)戦うことができなかった。麗軍は、軍隊を分けて、四つの街道を通って、挟み撃ちにした。 また風に乗じて火を放ち、城門を焼いたので、(城内の)人たちはあやぶみ懼れ、あるものは(城を)出て降伏しようとする者もいた。王は追い詰められてどうしてよいかわからず、(ついに、)数十騎を率いて(城)門を出、西方に逃走した。麗軍が(王を)追撃して、これを殺害した。 -『三国史記』百済本紀/蓋鹵王21年 井上秀雄訳[23] 廿年冬,高麗王,大發軍兵,伐盡百濟,爰有小許遺衆,聚居倉下,兵糧既盡,憂泣茲深...百濟記云,蓋鹵王乙卯年冬,狛大軍來,攻大城七日七夜,王城降陷,遂失尉禮,國王及大后,王子等,皆沒敵手 (雄略天皇)二十年冬、高(句)麗王が大軍をもって攻め、百済を滅ぼした。その時少しばかりの生き残りが倉下(へすおと)に集っていた。 食料も尽き憂え泣くのみであった。...百済記に云わく「蓋鹵王の乙卯年冬、狛(高句麗)の大軍が来た。大城を攻めること七日七夜、王城は陥落し遂に尉礼(百済)の国を失った。王及び大后王子たちは皆、敵の手に没した。」 -『日本書紀』巻14/大泊瀬幼武天皇(雄略天皇)/20年冬 学者の中にはこの時一度百済は滅亡したと評する者もおり[24]、そうでなくても首都失陥は百済の歴史上重大な出来事であり、現代では475年を百済史の区切りとしている。
中期:熊津時代(475?538年) 王都漢城を失った475年当時、王子文周は救援を求めるために新羅に派遣されていた。彼は新羅の援軍を連れて帰還したが、既に漢城は陥落しており、翌月に文周王として即位した。 彼は都を南方の熊津(現・忠清南道公州市)に遷し、百済を復興した[25][26]。この時、高句麗から逃れた貴族たちが熊津に流入し、王族と共に主要官職を抑えていた解氏なども加わっていた[25]。文周王は王弟昆支を内臣佐平、解仇を兵官佐平にあてたが、昆支が死ぬと解仇が実権を握り、478年には解仇によって暗殺された[25]。太子三斤が即位したが、わずかに13歳であり、軍事的、政治的な権限は完全に解仇の手に渡った[25]。にもかかわらず、翌年には解仇が恩率(第二等官位)燕信とともに反乱を起こした。三斤王はかつて腆支王の即位に反対したため権力から遠ざけられていた別の貴族真氏を登用してこれを討伐した[27]。この時の反乱で動員された百済の兵力は、『三国史記』の記述によるならば2,500名あまりであり、反乱した解仇側の兵力は不明であるがこれと大差ないものと見られている[28]。この兵力の少なさは、漢城周辺を失った百済がいかに弱体化していたかを証明しているものであろう[28]。 479年、東城王が即位すると、百済は復興へ向けて大きく変化し始めた。一つは漢城時代に権勢をふるった解氏、真氏などの伝統的な中央氏族に代わり、新たな氏族が多数高位官職に進出し始めるとともに、王権が強化され王族や貴族への王の統制力が向上したと見られることであり[29]、今一つは南方地域への拡大である[29]。東城王は新羅と結んで高句麗の軍事的圧迫に対抗する一方、小国が分立していた伽耶地方への拡大を図った[29]。 権力闘争の中で東城王が暗殺された後、501年に即位したのが武寧王である。彼は1971年に発見された武寧王陵から多様な副葬品が出土した事で名高い。熊津を中心とする百済を更に発展させるため、武寧王は南朝および倭国との関係を深め、更に領内の支配強化を目指した[30]。彼は領内に22の拠点を定め、王の宗族を派遣して地域支配の強化を進め、南西方面での勢力拡張を図った[30]。『日本書紀』には、この頃に日本から百済へ任那四県[注釈 3]を割譲したという記録があり、これは百済の政策と関係するものと考えられている[30]。ただしこの頃に実際に倭国が任那四県に支配力を及ぼしていたかどうかについては、懐疑的な見方が強い[注釈 4]。513年には伽耶地方の有力国伴跛から己?、帯沙を奪い[32][30]、朝鮮半島南西部での支配を確立すると東進して伽耶地方の中枢に迫った[33]。 武寧王はこの時期には対外活動も活発に行っており、南朝の梁に新羅使を同伴して入朝し、新羅や伽耶諸国を付庸していることを語り、倭国へは南方進出の了解や軍事支援と引き換えに五経博士を派遣し始めた[33]。以後、倭国への軍事支援要請と技術者の派遣は百済の継続的な対倭政策となっていく[33]。
後期:泗?時代(538?642年) 伽耶争奪と遷都 武寧王の跡を継いだ聖王は回復した国力を背景に538年都を熊津から泗?(現・忠清南道扶余郡)に遷した[34][35]。泗?は熊津と同じく錦江沿いにある都市であるが、山に迫る要害の地であり防御に適した熊津に対し、泗?は錦江下流域の沖積平野を見下ろす丘陵地帯であり、水陸の交通の要衝であった[34]。国号も南扶余と改められた。この国号は国際的に定着することはなかったが、百済には高句麗と同じく夫余を祖とするという伝承があり、高句麗への対抗意識を明瞭にした国号であった[35]。 また、伽耶地方では百済が西側から勢力を広げる一方、同じく伽耶の東方から勢力を拡張していた新羅との間で軋轢が生まれた。更に伽耶地方を一種の藩屏と見做す倭国、生き残りを図る伽耶諸国の間で複雑な外交が繰り広げられたと考えられる[36]。伽耶地方の中心的国家であった金官国は524年に始まった新羅の伽耶地方侵攻に対し、倭国へ救援要請を行った。これを受けた倭国は近江毛野臣を派遣したが、527年に九州で発生した磐井の乱により渡海できず、到着は529年になった。同じく伽耶の一国である安羅に到着した毛野臣は調停を目指して百済と新羅の双方に参会を求めたが、百済は新羅共々、倭国の調停に大きな期待を置いておらず[37]、毛野臣は最終的に有効な手段を講じることはできないまま、532年には金官国が滅亡した。一方、安羅は倭国に頼るのを諦め毛野臣を排除するとともに、百済に援軍を要請し、結果531年に百済軍が安羅に駐屯することとなった[36][37]。 新羅の強大化と外交関係 伽耶を巡って新羅との利害関係の不一致が顕在化する一方、北側では550年頃、国境地帯の城の奪い合いを切っ掛けに高句麗と全面的な衝突に入り、百済の情勢は極めて悪化した。この時期に倭国に向けて兵糧、武具、軍兵の支援を求める使者が矢継ぎ早に派遣されたことが『日本書紀』に見える[38][39]。551年には一時的にかつての都、漢城を高句麗から奪回することに成功した[35]。しかし翌552年、理由不明ながら百済は漢城の放棄に追い込まれた[35][38]。変わって新羅が漁夫の利を得る形で漢城を占領した[35][38]。このことは百済と新羅の関係を大きく悪化させたと推定される[38]。新羅に対抗するため、聖王は倭国からの支援を強固にすべく諸博士や仏像・経典などを送る一方で、見返りとしてより一層の軍事支援を求めた。大伽耶、倭国からの援軍を得た聖王は554年に新羅の函山(管山)城を攻撃したが、伏兵にあって戦死した[40][41]。 十五年,秋七月,修築明活城,百濟王明?加良,來攻管山城,軍主角干于德伊耽知等,逆戰失利,新州軍主金武力,以州兵赴之,及交戰,裨將三年山郡高干都刀,急撃殺百濟王,於是,諸軍乘勝,大克之,斬佐平四人士卒二萬九千六百人,匹馬無反者 (真興王)十五年(554年)秋七月、明活城を修繕した。(この月)百済王明?(聖王)は加羅と連合して管山城を攻撃してきた。軍主の角干の于徳や伊?の耽知らがこれを迎え撃ったが、戦いに敗れた。(そこで)新州軍主の金武力が州兵を率いて救援に向かった。戦闘がはじまると、副将の三年山郡の高干の都刀が奇襲攻撃で百済王を殺した。かくして諸軍が勝ちに乗じて、大いに(この連合軍を)討ち負かし、佐平四人、士率二万九千六百人を切り殺し、一匹の馬も帰るものがなかった。 -『三国史記』新羅本紀/真興王15年/秋7月 井上秀雄訳[42]。 百済では新たに威徳王が即位したが、国王戦死の失態は百済に大きな打撃を与え、王権の混乱を招き、562年までに伽耶地方の大半が新羅の手に落ちることとなった[43][36][41]。威徳王は王弟恵を倭国に派遣し、親百済政策の維持と援軍の出兵を働きかけたが、倭国の有力者蘇我稲目は親百済姿勢は維持したものの国内を重視し、援軍の派兵には同意しなかった[41]。とは言え、新羅の強大化は百済のみならず、倭国にとっても好ましいものとは映らなかったため、伽耶地方の制圧を巡り倭と新羅の関係は悪化し、小競り合いが発生していた[41]。百済も伽耶地方の奪回を目指したため倭国との伝統的な関係は維持された[41]。しかし、新羅が「任那の調(みまなのみつき)」を倭国に送付するようになると[注釈 5]、倭国は当面これに満足し、百済が577年に新羅に侵攻した際には軍事援助は得られなかった[45]。威徳王は結局伽耶の奪回を果たすことはできず、579年を最後に新羅への積極策を改め、以後武力行動に慎重になった[45]。 隋唐の成立と朝鮮半島情勢 589年に隋が中国を統一し、長きに亘って続いた南北朝時代が終わると、朝鮮半島情勢も大きな影響を受けた。百済は589年にいち早く使者を建てて隋の統一を慶賀して隋との関係構築に努め、598年の隋の高句麗遠征の際にはそれに参加した[46]。しかし、隋軍を撃退した高句麗は百済領への侵攻を行うようになり、百済は隋に対して更なる高句麗征討を要請した[46]。一方で新羅への攻撃では百済は高句麗と連携し、更に倭国とも協力した。602年に百済は新羅の阿莫山城(全羅南道南原郡雲峰面)を攻撃する一方、603年には高句麗が新羅領北漢山城(ソウル市鍾路区新営)を攻撃し、倭国は「任那の調」の実施を求めて591年と602年に筑紫への駐兵を行い新羅への軍事的圧力をかけた。この時に倭国から百済と高句麗に新羅攻撃での連携を行うための使者が派遣されていることが『日本書紀』に見える[47]。 北方では、高句麗が突厥との同盟を意図したことから関係が悪化していた隋が、611年、613年、614年の3回に亘り高句麗への遠征を行ったがこれを制圧することはできなかった[48][46]。度重なる高句麗遠征と国内での大規模土木事業などへの不満から618年には隋朝が倒れ、唐にとって代わられた。百済は611年の隋による高句麗遠征の際には、高句麗が動けないことに乗じて新羅を攻撃し、一城を占領した[46]。624年には百済は高句麗、新羅と同じく唐に入朝し、冊封を受けている[49]。
642年は最終的に676年の新羅による朝鮮半島統一に帰着する東アジアの大変動が始まる画期となった[50]。この年、前年に即位した百済の義慈王が自ら兵を率いて新羅に侵攻し、40余りの城を陥落させて新羅に大打撃を与える事に成功した。この時落城したのは主に伽耶地方の城であったことが『三国史記』「新羅本紀」にあり、百済は長年追求してきた伽耶地方の奪取を達成することができた[50]。この時百済は後に新羅王となる金春秋の娘婿とその子供らを全員殺害し、精神的にも新羅に大きな打撃を与えた[51][50]。 翌643年には高句麗と和睦し、かつて高句麗との争奪戦の中で新羅に掠め取られた漢城の奪回を目指した[50]。義慈王は国内でも専制的な体制の構築を目指し、独裁権の強化と反対派の粛清を進めたと見られることが記録から読み取れる[50][52]。同じ642年には高句麗でも淵蓋蘇文がクーデターにより実権を握り、新羅でもやはり同じ年、善徳女王を中心として金春秋、金?信の3名の結束による権力体制が成立した[50][53]。倭国では舒明天皇が死に皇極天皇が即位するとともに蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が実権を握り、「陵(みささぎ)」と称する墓の建設を開始している[50][52]。こうして642年頃を境に各国で権力の集中が進んだ。 百済は高句麗と協同して新羅への侵攻を続け、善徳女王、そしてその死後に新羅王となった金春秋(武烈王)は唐への援軍要請を繰り返した[54]。これを受けた唐は、高句麗征討においてその同盟国となっていた百済を倒し、高句麗の背後を抑える意図もあり、遂に660年に水陸合わせ13万とされる大軍を百済へ向けて差し向けた。呼応した新羅も金?信の指揮の下出兵した[54][55]。660年3月、唐の蘇定方将軍の軍が山東半島から海を渡って百済に上陸し、百済侵攻を開始した。百済側は対応を巡って方針がまとまらず、有効な戦略を打ち立てることはできなかった[55]。個別の戦闘では奮闘した例もあったものの、7月には王都泗?が占領され、義慈王は熊津に逃れたが間もなく降伏した[55]。こうして百済は滅亡した。 百済復興運動 「白村江の戦い」を参照 唐軍の主力が旧百済領を離れると鬼室福信や黒歯常之、僧道?などの百済遺臣が反乱をおこした[56]。また百済滅亡を知った倭国でも、朝鮮半島からの貿易ルートの途絶の懸念や、百済への勢力拡張などの目論見から、百済復興を全面的に支援することを決定し、倭国に人質として滞在していた百済王子・扶余豊璋を急遽帰国させるとともに阿倍比羅夫らからなる救援軍を派遣し、斉明天皇は筑紫国朝倉橘広庭宮に遷った[56][55]。 帰国した豊璋は百済王に推戴されたが、実権を握る鬼室福信と対立し、遂にこれを殺害するという内紛が起きた。倭国は最終的には過去最大規模の軍勢を朝鮮半島へ派兵した。やがて唐本国から劉仁軌の率いる唐の増援軍が到着し、663年倭国の水軍と白村江(白馬江)で決戦に及んだ(白村江の戦い)[56][55]。これに大敗した倭国は、各地を転戦する軍を集結させると、亡命を希望する百済貴族を伴って帰国させ、豊璋は密かに高句麗に逃れた。しかし、高句麗もまた668年に唐の軍門に降った[56]。こうして百済は完全に滅亡した。 唐による半島支配と新羅による統一 唐は高句麗の都があった平壌に安東都護府を設置して朝鮮半島支配を目指し、百済の故地に熊津都督府をはじめとする5つの都督府を設置して熊津都督に全体の統轄を命じた。664年には劉仁軌の上表を受けて義慈王の太子だった扶余隆を熊津都督に任じ[57]、翌年の665年8月には唐は就利山において扶余隆と新羅の文武王に劉仁起の立会の下に熊津都督府支配地域(旧百済)と新羅の国境画定の会盟を行わせた[57]。後に扶余隆は百済の歴代国王が唐から与えられていた「帯方郡王」に任じられ、子孫に称号が継承されている。これは百済の亡国の太子が唐によって新羅王と同格と扱われたことを示すとともに、高句麗最後の王・宝蔵王の遼東都督任命と対比することができる。そのため、扶余隆の熊津都督任命が単に百済遺民の慰撫を目的としているだけではなく、百済や高句麗(安東都護府・遼東郡王)を滅亡前の冊封国ではなく羈縻州として組み込み、さらに残された新羅(鶏林州都督府・楽浪郡王)を羈縻体制に組み入れる「朝鮮半島全域の中華帝国への編入」を視野に入れたもので、後年実行に移されている[58]。 唐の支配に反発した新羅は、建前上は唐の臣下という立ち位置を維持しつつ、「百済と新羅は共に唐の領土なのであり、そこに国境はない」という論理の下、百済・高句麗の遺民を蜂起させつつ領土を蚕食する一方で、唐へは謝罪使を派遣するという方法で支配地を広げた[57]。唐側では繰り返される新羅の領土拡張と謝罪使に対し、新羅王の王位剥奪の問題にまで発展したものの、西方で国力をつけた吐蕃の侵入で都長安までもが危険に曝される状態となり、遠方に位置する朝鮮半島を維持できなくなり、最終的に百済の故地は新羅の支配下に入った[57]。 百済滅亡の後、多くの百済の高官たちが新羅に降った[59]。660年に行われた論功行賞では佐平の忠常、常永、達率の自簡などの百済遺臣に新羅の地位が与えられている[59]。白村江の戦いの後には、多数の百済人が倭国へ亡命した。百済王子豊璋の弟・善光(または禅広)の子孫は倭国の朝廷から百済王(くだらのこにきし)の姓を賜り、日本の氏族としての百済王氏を中心として倭国に根付いていった[60][61]。白村江で敗れた豊璋を始め、高句麗へも有力者が逃れた事が『日本書紀』や『旧唐書』に残る[62]。豊璋は高句麗の滅亡後に唐に捕縛され、流刑に処されたと見られる[62]。最終的に唐へと渡った百済王族、貴族もいたことが西安や洛陽で発見された入唐百済人の墓によって明らかとなっている。百済王子扶余隆や、百済の武将黒歯常之、祢軍など6人の百済人とその子孫たちの墓が2016年現在、合わせて10か所発見されている[63]。彼らは唐に仕え、3世代にわたりその動向が墓誌に残されていた[62]。