舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇(重祚して斉明天皇)。
皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王。
ただし皇后との間に皇子女はない。
西暦645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、
中大兄皇子(天智天皇)は中臣鎌足らと謀り、
皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。
入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。
更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、
自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(「大化の改新」)を行なった。
また有間皇子など、
有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。
百済が西暦660年に唐・新羅に滅ぼされたため、
朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、
百済復興を図って白村江の戦いを起こすも敗戦した。
百済救援を指揮するために斉明天皇と供に筑紫の朝倉宮に滞在したが、
西暦661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇が崩御した。
即日、中大兄皇子が称制した。
その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。
西暦663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、
唐に遣唐使を派遣する一方で、
西暦667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮へ遷都し、
西暦668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、
ようやく即位した。
西暦668年4月10日(天智天皇年2月23日)には、
同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。
しかし、
西暦671年1月2日(天智天皇9年11月16日)に第1皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、
西暦671年11月23日(天智天皇10年10月17日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。
白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。
また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。
即位後(西暦670年)には、
日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、
公地公民制が導入されるための土台を築いていった。
中大兄皇子時代の西暦660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、
西暦671年(天智天皇10年)には大津宮大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。
西暦671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦 (ユリウス暦ではないことに注意)の6月10日は時の記念日として知られている。
西暦669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、 中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。
西暦671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。
なかなか快方に向かわず、
10月には重態となったため、
弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、
吉野へ去った。
西暦672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、
天智天皇は近江大津宮で崩御されたと云われている。
(扶桑略記では天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある。)。宝算46。
天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった(『日本書紀』)。
しかし、
天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。
以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。
称徳天皇崩御後に、 天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、 以降は天智系統が続く。
弟・大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。
宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。
また皇居では、
皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、
1月10日に御陵で正辰祭が行われる。(1月7日はユリウス暦)