小窓
天智天皇(てんぢてんのう、てんじてんのう)

作成日:2020/6/4

  《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第38代天皇 天智天皇(てんぢてんのう、てんじてんのう)

[在位] 西暦668年2月20日(天智天皇7年1月3日) - 西暦672年1月7日(天智天皇10年12月3日)
斉明天皇が崩御した西暦661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)に、 中大兄皇子称制した。
越年改元とし、称制した翌年が天智天皇元年となった。
ただし、実際に天智天皇へ即位した西暦668年2月20日(天智天皇7年1月3日)を在位開始日としている。

[生没] 西暦626年推古天皇34年) - 西暦672年1月7日(天智天皇10年12月3日) 46歳没《紀》
[時代] 飛鳥時代
[先代] 斉明天皇   [次代] 弘文天皇
[和風諡号] 天命開別天皇
[] 葛城皇子   [別称] 中大兄皇子
[父親] 舒明天皇(第2皇子)   [母親] 皇極天皇
[皇后] 倭姫王
[皇居] 近江大津宮
[陵所] 山科陵(御廟野古墳

年表

天皇の系譜(第38代から第50代)
西暦626年推古天皇34年)
西暦641年舒明天皇13年)
西暦642年皇極天皇元年)
西暦643年皇極天皇2年)
西暦644年皇極天皇3年)
西暦645年皇極天皇4年)
西暦645年大化元年)
西暦646年大化2年)
西暦647年大化3年)
西暦648年大化4年)

---------------------------------------------------------------
西暦649年大化5年)孝徳天皇
西暦653年白雉4年)孝徳天皇
西暦654年白雉4年)孝徳天皇
西暦655年斉明天皇元年)
西暦656年斉明天皇2年)
西暦658年斉明天皇4年)
西暦659年斉明天皇5年)
西暦660年斉明天皇6年)
西暦661年斉明天皇7年)
西暦663年天智天皇2年)
西暦664年天智天皇3年)
西暦667年天智天皇6年)
西暦668年天智天皇7年)
西暦669年天智天皇8年)
西暦670年天智天皇9年)
西暦670年天智天皇9年)
西暦671年天智天皇10年)
西暦672年天智天皇10年)

親族

祖父:押坂彦人大兄皇子    祖母:糠手姫皇女
父親:舒明天皇(第二皇子)  母親:皇極天皇
皇后倭姫王 - 古人大兄皇子
夫人:蘇我遠智娘(おちのいらつめ) - 蘇我倉山田石川麻呂女
夫人:蘇我姪娘(めいのいらつめ、桜井娘) - 蘇我倉山田石川麻呂娘
:蘇我常陸娘(ひたちのいらつめ) - 蘇我赤兄女
:阿倍橘娘(たちばなのいらつめ) - 阿倍倉梯麻呂(内麻呂)の女
夫人:道君伊羅都売(いらつめ) - 道君氏女
采女:宅子娘(やかこのいらつめ) - 伊賀国造某女?
宮人:忍海造色夫古娘(しこぶこのいらつめ) - 忍海造小竜女
宮人:栗隈首黒媛娘(くろひめのいらつめ) - 栗隈首徳万女
他にも藤原不比等は天智天皇の落胤という説が『興福寺縁起』『大鏡』『公卿補任』『尊卑分脈』などに見られる。

大化の改新と即位

舒明天皇の第二皇子。母は皇極天皇重祚して斉明天皇)。
皇后は異母兄・古人大兄皇子の娘・倭姫王
ただし皇后との間に皇子女はない。

西暦645年7月10日(皇極天皇4年6月12日)、 中大兄皇子天智天皇)は中臣鎌足らと謀り、 皇極天皇の御前で蘇我入鹿を暗殺するクーデターを起こす(乙巳の変)。
入鹿の父・蘇我蝦夷は翌日自害した。
更にその翌日、皇極天皇の同母弟を即位させ(孝徳天皇)、 自分は皇太子となり中心人物として様々な改革(「大化の改新」)を行なった。
また有間皇子など、 有力な勢力に対しては種々の手段を用いて一掃した。

百済が西暦660年に唐・新羅に滅ぼされたため、 朝廷に滞在していた百済王子・扶余豊璋を送り返し、 百済復興を図って白村江の戦いを起こすも敗戦した。
百済救援を指揮するために斉明天皇と供に筑紫の朝倉宮に滞在したが、 西暦661年8月24日(斉明天皇7年7月24日)斉明天皇崩御した。
即日、中大兄皇子称制した。

なお、斉明天皇崩御後に即日、中大兄皇子称制したため暦が分かりにくくなっているが、 『日本書紀』では越年称元(越年改元とも言う)年代での記述を採用しているため、 斉明天皇崩御の翌年(西暦662年)が天智天皇元年に相当する。
(上記はWikipediaの文章。これは 「称制した西暦661年が天智天皇元年となるはずだが、越年改元が理由となり、西暦662年が天智天皇元年となった」 という意味のようだ)
(つまり、 「本来は即位したときではなく、称制したときに改元するのが当然である」 との前提があるようだ)

その後、長い間皇位に即かず皇太子のまま称制した(天智天皇元年)。 西暦663年8月28日(天智天皇2年7月20日)に白村江の戦いで大敗を喫した後、 唐に遣唐使を派遣する一方で、 西暦667年4月17日(天智天皇6年3月19日)に近江大津宮遷都し、 西暦668年2月20日(天智天皇7年1月3日)、 ようやく即位した。
西暦668年4月10日(天智天皇年2月23日)には、 同母弟の大海人皇子(のちの天武天皇)を皇太弟とした。
しかし、 西暦671年1月2日(天智天皇9年11月16日)に第1皇子・大友皇子(のちの弘文天皇)を史上初の太政大臣としたのち、 西暦671年11月23日(天智天皇10年10月17日)に大海人皇子が皇太弟を辞退したので代わりに大友皇子を皇太子とした。

白村江の戦い以後は、国土防衛の政策の一環として水城や烽火・防人を設置した。
また、冠位もそれまでの十九階から二十六階へ拡大するなど、行政機構の整備も行っている。
即位後(西暦670年)には、 日本最古の全国的な戸籍「庚午年籍」を作成し、 公地公民制が導入されるための土台を築いていった。

中大兄皇子時代の西暦660年(斉明天皇6年)に漏刻(ろうこく、水時計のこと)を作り、 西暦671年(天智天皇10年)には大津宮大津宮の新台に置いて鐘鼓を打って時報を開始したとされる。
西暦671年での日付(4月25日)に対応するグレゴリオ暦ユリウス暦ではないことに注意)の6月10日は時の記念日として知られている。

崩御とその後

西暦669年11月13日(天智天皇8年10月15日)、 中臣鎌足が亡くなる前日に内大臣に任じ、藤原の姓を与えた。

西暦671年10月(天智天皇10年9月)、病に倒れる。
なかなか快方に向かわず、 10月には重態となったため、 弟の大海人皇子に後事を託そうとしたが、大海人は拝辞して受けず剃髪して僧侶となり、 吉野へ去った。

西暦672年1月7日(天智天皇10年12月3日)、 天智天皇は近江大津宮崩御されたと云われている。
(扶桑略記では天智天皇は山中で行方不明になったと記されており、これらには四国の山中での崩御説や天武天皇側による暗殺説などがある。)。宝算46。

天智天皇は、大友皇子に皇位を継がせたかった(『日本書紀』)。
しかし、 天智天皇の崩御後に起きた壬申の乱において大海人皇子が大友皇子に勝利して即位し天武天皇となる。
以降、天武系統の天皇が称徳天皇まで続く。

称徳天皇崩御後に、 天智の孫・白壁王(志貴皇子の子)が即位して光仁天皇となり、 以降は天智系統が続く。

弟・大海人皇子から額田王を奪ったので自分の皇女4人を大海人皇子に嫁がせたと言われている。

即位に関する諸説

中大兄皇子が長く即位しなかったことは、7世紀中葉の政治史における謎の一つである。これに関する説がいくつか存在する。
天武天皇を推す勢力への配慮。
すなわち、従来定説とされてきた、天武天皇は天智天皇の弟であるというのは誤りで、皇極天皇が舒明天皇と結婚する前に生んだ漢皇子であり、彼は天智天皇の異父兄であるとする説に基づくものである。確かに、『日本書紀』の天智天皇と一部の歴史書に掲載される天武天皇の享年をもとに生年を逆算すれば、天武が年長となってしまう。しかし、同一史料間には矛盾は見られず、8~9歳程度の年齢差を設けている史料が多い。これに対しては「『父親が違うとはいえ、兄を差し置いて弟が』ということでは体裁が悪いので、意図的に天智の年齢を引き上げたのだ」との主張があるが、「『日本書紀』に見える、天智の年齢16歳は父・舒明天皇が即位した時の年齢だったのを間違えて崩御した時の年齢にしてしまった。だから、本当の生年は『本朝皇胤紹運録』などが採用している614年だ」との反論、「古代においては珍しくなかった空位(実際、天武の前後に在位していた天智・持統も称制をしき、ただちに即位しなかった)のために誤差が生じたのだ」との反論、また『日本書紀』と指摘されているその他歴史書は編纂された時代も性質も異なるため、同一には扱えないとの意見もある(「天武天皇#出生」の項も参照)。
乙巳の変は軽皇子(孝徳天皇)のクーデターであり、中大兄皇子は母親である皇極天皇と共に地位を追われたという説。
近年、中大兄皇子と蘇我入鹿の関係が比較的良好であり、基本政策も似ていることが指摘されている。そうなると、中大兄皇子の変事の年齢は弱冠20と若く、皇極天皇以外に強力な後ろ盾がないことを考慮すると、親子ほど歳の差のある軽皇子と違い、皇位狙いであわてて入鹿を殺害する動機がなくなる。また、『日本書紀』の大化の改新の記述には改竄が認められることから、この説が唱えられるようになった。この説では皇極天皇の退位の理由や、入鹿以外の蘇我氏がクーデター後も追放されていない理由など、その他の疑問点も説明できるため注目を浴びている。
天智の女性関係に対しての反発から即位が遅れたとする説。
これは、『日本書紀』に記載された孝徳天皇が妻の間人皇女(天智の同母妹)にあてた歌に、彼女と天智との不倫関係を示唆するものがあるとするものである。異母兄弟姉妹間での恋愛・婚姻は許されるが、同母兄弟姉妹間でのそれは許されなかったのが当時の人々の恋愛事情だったとされる。
斉明天皇の死後に、間人皇女が先々代の天皇の妃として皇位を継いでいたのであるが、何らかの事情で記録が抹消されたという説。
これは『万葉集』において「中皇命」なる人物を間人皇女とする説から来るもので、「中皇命」とは天智即位までの中継ぎの天皇であるという解釈出来るという主張である。もし間人皇女=「中皇命」とすれば、なぜ彼女だけが特別にこうした呼称で呼ばれる必要性があったのかを考えられるが、斉明天皇だとする説もあり、必ずしも確証はない。
天智は元々有力な皇位継承者ではなかったために、皇太子を長く務めることでその正当性を内外に認知させようとした説。
舒明の后には敏達推古両天皇の皇女である田眼皇女がいるにもかかわらず、敏達の曾孫に過ぎない皇極が皇后とされている点を問題とするもので、『日本書紀』の皇極を皇后とする記事を後世の顕彰記事と考え、天智は皇族を母とするとしても皇極の出自では有力な継承者になりえず、皇極の在位も短期間でその優位性を確立出来なかったために、乙巳の変後にもただちに即位せず皇族の長老である孝徳を押し立てて、自らは皇太子として内外に皇位継承の正当性を認知させる期間を要したとする説。
乙巳の変」の意義を、蘇我大臣家のみならず同家に支えられた実母・皇極天皇率いる体制打倒にあったとする観点から、孝徳天皇との対立→崩御の後に自らの皇位継承の正統性を確保するため、皇極天皇の重祚という、乙巳の変の否認とも取られかねない行為を行ったことで群臣たちの信用を失った中大兄が、信頼を回復するまでに相当の期間を必要としたとする説。
政治史という性質・史料の制約などもあり、証明は困難ではあるが、考古学的成果との連携などとも含め、今後の研究の進展が待たれる。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により京都府京都市山科区御陵上御廟野町にある山科陵(やましなのみささぎ)に治定されている。
宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「御廟野古墳」。

また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
崩御の天智天皇10年12月3日はグレゴリオ暦672年1月10日に相当するので、 1月10日に御陵で正辰祭が行われる。(1月7日はユリウス暦


斉明天皇 [← 先代天皇]  [次代天皇 →] 弘文天皇