欽明天皇の代に仏教が伝来(仏教公伝)すると、
仏教を積極的に取り入れようとする「崇仏派」と、
日本古来の神の怒りを買うと反対する「排仏派」が現れてくる。
崇仏派の蘇我稲目と排仏派の物部尾輿が激しく対立するようになってくる。
敏達天皇の代になると蘇我稲目は子の大臣・蘇我馬子が継ぎ、 物部尾輿は子の大連・物部守屋が継いで、 崇仏派と排仏派の仏教信仰に対する対立が本格化してくる。
西暦587年5月21日(用明天皇2年4月9日)に用明天皇が崩御。
蘇我馬子は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)を天皇に立てようとするが、
物部守屋は泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)の同母兄・穴穂部皇子を立てようとする。
蘇我馬子は同年6月7日、
物部守屋が立てようとした穴穂部皇子(母は小姉君)を攻め滅ぼしてしまった。
翌6月8日には宣化天皇の皇子・宅部皇子も誅殺する。
そして7月、遂に「丁未の乱」が勃発する。
西暦587年(用明天皇2年7月)、
蘇我馬子は群臣と謀り、
物部守屋追討軍の派遣を決定した。
蘇我馬子は厩戸皇子、泊瀬部皇子(のちの崇峻天皇)、竹田皇子などの皇族や諸豪族の軍兵を率いて河内国渋川郡の物部守屋の館へ進軍した。
大和国から河内国へ入った蘇我陣営の軍は、
餌香川の河原で物部軍と交戦し、
戦後の河内国司の言によれば双方合わせての戦死者は数百に上ったという。
物部守屋は一族を集めて稲城を築き、守りを固めた。
軍事を司る氏族として精鋭の戦闘集団でもあった物部氏の軍勢は強盛で、
物部守屋自身も朴の木の枝間によじ登り雨のように矢を射かけ、大いに奮闘した。
皇子ら追討軍の軍兵は恐怖し、退却を余儀なくされた。
これを見た厩戸皇子は、仏法の加護を得ようと白膠木を切り、
四天王の像をつくり、戦勝を祈願して、
勝利すれば仏塔をつくり仏法の弘通に努めると誓った。
蘇我馬子は軍を立て直して進軍させた。
迹見赤檮が大木に登っている物部守屋を射落として殺し、
総大将を失った物部軍は総崩れとなる。
この好機に追討軍の寄せ手は攻めかかり、
物部守屋の一族らを殺し、結果物部守屋の軍は敗北して離散した。
生き残った物部守屋の一族は葦原に逃げ込んで、 ある者は名を代え、ある者は行方知れずとなった。
この結果、
蘇我氏は親子2代にわたって対立してきた宿敵・物部氏の勢力を中央から完全に排除することに成功し、
厩戸皇子と連携してさらに権勢を強めていく。
また、物部氏を中心としていた仏教反対派の発言力が衰え、
仏教の国内浸透も本格化していくこととなった。
この頃、厩戸皇子は摂津国に四天王寺を建立した。
物部氏の領地は両分され、半分は蘇我馬子のものになった。
蘇我馬子の妻が物部守屋の妹であり相続権があると主張したためである。
また、半分は四天王寺へ寄進された。
八尾市南太子堂には、 迹見赤檮が物部守屋を射たときの矢を埋めたとされる鏑矢塚、 その南西には弓を埋めたとされる弓代塚がある(迹見赤檮発箭地史蹟、とみのいちいはっせんちしせき)。