蘇我蝦夷(そがのえみし)は、
飛鳥時代の政治家・貴族。
大臣として権勢を振るうが
乙巳の変で自害した。
豊浦
大臣と呼ばれ、毛人とも書く。
兄弟には
河上娘、
善徳、
刀自古郎女、
法提郎女、川堀、
倉麻呂
子は
蘇我入鹿、物部
大臣、手杯娘(
舒明天皇妻)
推古天皇が皇嗣を定めることなく崩御したため、
聖徳太子の子・
山背大兄王と敏達天皇の孫・
田村皇子(のちの
舒明天皇)の間で皇位継承問題が起り、
蝦夷は叔父・
境部摩理勢らの反対を強引に押切って、
田村皇子(のちの
舒明天皇)を皇位につかせた。これが舒明天皇である。
蝦夷は
西暦636年(
舒明天皇8年)に大派 (おおまた) 王に参朝の怠慢を指摘されたが従わず、
皇極天皇即位後も
大臣としてとどまり、子の入鹿が国政をとった。
西暦642年(
皇極天皇元年)祖廟を葛城高宮に建て、
天下の民
部曲 (かきべ) 、
さらに聖徳太子一族の私有民まで使役して今来に2つの墓を造り、
これを大陵 (おおみささぎ) 、小陵と称した。
翌年、入鹿に紫冠を授けて
大臣とし、弟を物部
大臣と称した。
翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て、「宮門 (みかど) 」と称した。
前年、
山背大兄王を殺した入鹿が、
4年の三韓
朝貢の日に
中大兄皇子に殺され、
みずからも誅せられるにのぞみ自邸に放火し自殺した。
このとき『天皇記』『国記』などを同時に焼失した。
彼らの誅伐によって、
蘇我氏の宗族は滅亡し、大化改新が断行されることとなった。
『扶桑略記』には、
斉明天皇のときに、彼の霊威についての風説があったことを記している。