小窓
蘇我蝦夷

作成日:2023/2/22

蘇我蝦夷
そがのえみし
時代  飛鳥時代
生年  西暦686年 ???
没年  西暦645年7月11日)
皇極天皇4年6月13日)
別名  豊浦大臣、武蔵大臣
官位  大臣
主君  推古天皇舒明天皇
皇極天皇
氏族  蘇我氏
祖父  蘇我稲目
父親  蘇我馬子
母親  太媛
物部鎌足姫大刀自連公
配偶者
 
蘇我蝦夷(そがのえみし)は、 飛鳥時代の政治家・貴族。 大臣として権勢を振るうが乙巳の変で自害した。 豊浦大臣と呼ばれ、毛人とも書く。
兄弟には河上娘善徳刀自古郎女法提郎女、川堀、倉麻呂 子は蘇我入鹿、物部大臣、手杯娘(舒明天皇妻)

推古天皇が皇嗣を定めることなく崩御したため、 聖徳太子の子・山背大兄王と敏達天皇の孫・田村皇子(のちの舒明天皇)の間で皇位継承問題が起り、 蝦夷は叔父・境部摩理勢らの反対を強引に押切って、 田村皇子(のちの舒明天皇)を皇位につかせた。これが舒明天皇である。 蝦夷は 西暦636年舒明天皇8年)に大派 (おおまた) 王に参朝の怠慢を指摘されたが従わず、 皇極天皇即位後も大臣としてとどまり、子の入鹿が国政をとった。

西暦642年皇極天皇元年)祖廟を葛城高宮に建て、 天下の民部曲 (かきべ) 、 さらに聖徳太子一族の私有民まで使役して今来に2つの墓を造り、 これを大陵 (おおみささぎ) 、小陵と称した。 翌年、入鹿に紫冠を授けて大臣とし、弟を物部大臣と称した。 翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て、「宮門 (みかど) 」と称した。 前年、山背大兄王を殺した入鹿が、 4年の三韓朝貢の日に中大兄皇子に殺され、 みずからも誅せられるにのぞみ自邸に放火し自殺した。 このとき『天皇記』『国記』などを同時に焼失した。 彼らの誅伐によって、 蘇我氏の宗族は滅亡し、大化改新が断行されることとなった。 『扶桑略記』には、 斉明天皇のときに、彼の霊威についての風説があったことを記している。

年表

784年允恭天皇10年)