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山背大兄王(やましろのおおえのおう)

作成日:2023/2/28

山背大兄王
やましろのおおえのおう
生年  不詳
没年  西暦643年12月30日
      皇極天皇2年11月11日
配偶者 舂米女王
父親  厩戸皇子(聖徳太子
      第一王子
母親  蘇我刀自古郎女
子女  難波麻呂古王、麻呂古王、
      弓削王、甲可王、尾治王、
      佐々女王、三嶋女王
 
山背大兄王(やましろのおおえのおう) 生年不詳 - 西暦643年12月30日(皇極天皇2年11月11日)

山背大兄王は、『日本書紀』によれば7世紀前半の皇族。
『上宮聖徳法王帝説』によると厩戸皇子(聖徳太子)の子。
母は蘇我馬子の娘・刀自古郎女で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。

西暦643年12月30日(皇極天皇2年11月11日)。
蘇我入鹿に攻められ、 斑鳩寺(法隆寺)で一族もろとも首をくくって自害した。
上宮王家はここで絶えることとなる。

生涯

日本書紀』皇極紀によると、 推古天皇が病死後にその後継問題が発生し、 蘇我氏の庶流境部摩理勢らは山背大兄王を擁立する。 その結果、蘇我蝦夷の擁立する田村皇子(のちの舒明天皇)らと皇位を争うが、 蝦夷から山背大兄王に対して自重を求める意見をされたこともあって皇位は田村皇子(のちの舒明天皇)が継承することとなり、 西暦629年に即位(舒明天皇)する。

山背大兄王が皇位継承を望まれなかったのは、 山背大兄王が用明天皇の2世王に過ぎず、 既に天皇位から離れて久しい王統であったからであり、 加えて、このような王族が、斑鳩と言う交通の要衝に多数盤踞して、 独自の政治力と巨大な経済力を擁しているというのは、 天皇や蘇我氏といった支配者層全体にとっても望ましいことではなかった。

他にも、まだ若く未熟であった、あるいは山背大兄王の人望を嫌ったという説、 彼の母親が大王家ではない蘇我家の出という卑しい出自、 推古天皇に続いて蘇我氏系の皇族である山背大兄王を擁立することで反蘇我氏勢力との対立が深まる事を避けたかったためという説がある[要出典]。

だが、蘇我氏の実権が蘇我蝦夷の息子の蘇我入鹿に移ると、 蘇我入鹿はより蘇我氏の意のままになると見られた古人大兄皇子の擁立を企て、 その中継ぎとして皇極天皇を擁立した。 このため、山背大兄王と蘇我氏の関係は決定的に悪化した。

西暦643年12月20日(皇極天皇2年11月1日)、 ついに蘇我入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、 斑鳩宮の山背大兄王を襲撃させる。
山背大兄王の奴三成と舎人10数人が矢で土師娑婆連を殺し、 馬の骨を残し一族と三輪文屋君(敏達天皇に仕えた三輪君逆の孫)、 舎人田目連とその娘、菟田諸石、伊勢阿倍堅経らを連れ斑鳩宮から脱出し、 生駒山に逃亡した。
家臣の三輪文屋君は、 「乘馬詣東國 以乳部爲本 興師還戰 其勝必矣」(東国に難を避け、そこで再起を期し、入鹿を討つべし)と進言するが、 山背大兄王は戦闘を望まず

「如卿所 其勝必然 但吾情冀 十年不役百姓 以一身之故 豈煩勞萬民 又於後世 不欲民言由吾之故 喪己父母 豈其戰勝之後 方言丈夫哉 夫損身固國 不亦丈夫者歟」

われ、兵を起して入鹿を伐たば、その勝たんこと定し。しかあれど一つの身のゆえによりて、百姓を傷りそこなわんことを欲りせじ。このゆえにわが一つの身をば入鹿に賜わん

と言った。
山中で山背大兄王発見の報をうけた蘇我入鹿は高向国押に逮捕するように命ずるが断られる。

結局、山背大兄王は生駒山を下り斑鳩寺に入り、 西暦643年12月30日(皇極天皇2年11月11日)に山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、 上宮王家はここに絶えることとなる。 蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒した。

当時の皇位継承は単純な世襲制度ではなく、 皇族から天皇に相応しい人物が選ばれていた。 その基準は人格のほか年齢、代々の天皇や諸侯との血縁関係であった。 これは天皇家の権力が絶対ではなく、 あくまでも諸豪族を束ねる長(おさ)という立場であったためである。 また、推古天皇の後継者争いには敏達天皇系(田村皇子(のちの舒明天皇))と用明天皇系(山背大兄王)の対立があったとも言われている。

さらに山背大兄王の襲撃には、軽皇子(のちの孝徳天皇)など、 多数の皇族が加わっていたと言われており、 山背大兄王を疎んじていた蘇我入鹿と、 皇位継承における優位を画策する諸皇族の思惑が一致したからこそ発生した事件ともいわれている。

山背大兄王が逃げるよう進言された深草屯倉は、 上宮王家が所有し、秦氏が管理経営した屯倉であり、 東国の乳部を頼るように言われたのは、 秦氏が上宮王家の所有した乳部の管理者だったからである。

上宮王家滅亡事件の真の首謀者は、 皇極天皇であり、 動機は敏達天皇後裔王統の復活や、 上宮王家から仏教興隆の権威や建築技術、 経済開発の主導権を奪うことにあったとする説が存在する。