豊浦宮(とゆらのみや)とは、
奈良県
明日香村豊浦付近にあったと推定される
推古天皇の宮室。
西暦592年(
崇峻天皇5年)12月に
推古天皇が豊浦宮に即位してから、
小墾田宮に遷都するまでの宮室である。
飛鳥の地に次々と宮殿が作られる端緒となった宮室で、
飛鳥時代はこの宮の造営に始まったともいわれる。
豊浦の地は、
推古天皇の母方の祖父・
蘇我稲目の向原家のあったところであり、
早くから
蘇我氏の本拠地であった。
物部氏を滅ぼして絶大な権力を得た稲目の子・
蘇我馬子は、
飛鳥の中心・真神原に
飛鳥寺を建立する一方、
皇居をも自らの本拠地に遷移させたのである。
だが、豊浦宮は、
中国を中心とする国際社会に飛躍する推古朝の宮室としては手狭であり、
西暦603年(
推古天皇11年)にすぐ近くの
小墾田宮に遷都することとなった。
(『日本書紀』は、豊浦宮から
小墾田宮へ遷った年を
西暦603年(
推古天皇11年)とするが、
『元興寺縁起並流記資財帳』は「等由良(とゆら)宮」を施入して「等由良(とゆら)寺」とした年を
西暦593年(
推古天皇元年)のこととしている。)
西暦1985年の春、豊浦にある向原寺の境内の発掘調査が行われた。
この調査により、
7世紀前半建立の豊浦寺の講堂と思われる大規模な瓦葺きの礎石建物が発見され、
その下層からは石敷を伴う掘立柱建物が掘り出された。
建物の周囲を石敷舗装するのは飛鳥の宮殿遺跡の特徴であり、
発掘遺構の構造や年代から、豊浦宮と推定された。