小窓
古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)

作成日:2023/6/21

古人大兄皇子
ふるひとのおおえのみこ
生年  不詳
没年  西暦645年10月7日
      大化元年9月12日
父親  舒明天皇
母親  法提郎女
子女  倭姫王
 

古人大兄皇子(ふるひとのおおえのみこ)
  生年不詳 - 大化元年9月12日(西暦645年10月7日)

古人大兄皇子は、飛鳥時代の皇族。 舒明天皇の第一皇子。 母は蘇我馬子の娘・法提郎女で大臣・蘇我入鹿とは従兄弟に当たる。 娘は倭姫王(天智天皇の皇后)。 古人皇子・古人大市皇子・吉野太子とも呼称される。

大臣・蘇我入鹿は、古人大兄皇子皇極天皇の次期天皇に擁立しようと望んだ。 そのため、有力な皇位継承資格者・山背大兄王(『上宮聖徳法王帝説』では厩戸皇子(聖徳太子)の子であるとされるが、『日本書紀』にはそのような記述はない。 厩戸皇子自身が蘇我氏の一族であり、 山背大兄王の母は入鹿の叔母(刀自古郎女)であり入鹿とは従兄弟に当たる)の存在が邪魔になり、 西暦643年11月、 入鹿斑鳩宮を襲い山背大兄王とその一族を滅ぼした。

西暦645年6月、 三韓から進貢の使者が来日し、 宮中で儀式が行なわれた。 古人大兄皇子皇極天皇の側に侍していたが、 その儀式の最中、 異母弟・中大兄皇子天智天皇)、中臣鎌子(藤原鎌足)らが蘇我入鹿を暗殺する事件が起きた。
古人大兄皇子は私宮(大市宮)へ逃げ帰り「韓人が入鹿を殺した。私は心が痛い」(「韓人殺鞍作臣 吾心痛矣」)と言った。 入鹿の父・蘇我蝦夷も自邸を焼いて自殺して蘇我本家は滅び、 古人大兄皇子は後ろ盾を失った(乙巳の変)。

事件後、 皇極天皇退位を受けて皇位に即く事を勧められたがそれを断り、 出家して吉野へ隠退した。
しかし、 同年9月12日 吉備笠垂(きびのかさのしだる)から「古人大兄皇子が謀反を企てている」との密告を受け、 中大兄皇子が攻め殺させた。 実際に謀反を企てていたかどうかは不明である。