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安閑天皇(あんかんてんのう)

作成日:2026/2/11

《紀》:日本書紀による記述  《記》:古事記による記述
日本の第27代天皇 安閑天皇(あんかんてんのう)

[在位] 西暦531年3月10日 - 西暦536年1月25日
    継体天皇25年2月7日 - 安閑天皇2年12月17日
[生没] 西暦466年? - 紀元前536年1月25日?)70歳没?
[時代] 古墳時代
[先代] 継体天皇   [次代] 宣化天皇
[和風諡号] 広国押武金日天皇《紀》
[] 勾
[別称] 広国押建金日命
[父親] 継体天皇(長子)   [母親] 尾張目子媛
[皇后] 春日山田皇女《紀》
[子女] なし
[皇居] 勾金橋宮
[陵所] 古市高屋丘陵

年表

天皇の系譜(第26代から第37代)
『日本書紀』の伝えるところによれば、以下のとおりである。
なお、継体・欽明朝の内乱にあるとおり、 それぞれの事象が起こった年は不明確である。 そこでやむを得ず事象内の記載等を拠り所にして年表を作成した。
西暦466年雄略天皇10年)
勾大兄皇子(のちの安閑天皇)誕生
西暦513年継体天皇7年)
立太子され、48歳で皇太子となる。(48歳なら計算上西暦514年になるが)
西暦532年安閑天皇元年)
継体天皇の後を受け、66歳で即位。
西暦534年安閑天皇元年)
春日山田皇女を皇后に、紗手媛香香有媛宅媛を后とする。
西暦536年1月25日(安閑天皇年)
70歳で崩御。記事内では西暦535年3月13日崩御とある

諱・諡号

日本書紀』では、 を勾大兄皇子(まがりのおおえのみこ)としている(「まがりのおいねのみこ」とも読む)。

和風諡号は、 『古事記』に広国押建金日命(ひろくにおしたけかなひのみこと)、 『日本書紀』に広国押武金日天皇とある。 漢風諡号「安閑天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により名付けられたとされる。

系譜

紗手媛

紗手媛(さてひめ)

許勢男人大臣の女。
安閑天皇元年(西暦534年)に妹の香香有媛と共に安閑天皇の妃となった。 『日本書紀(巻第十八 安閑天皇元年三月戊子条)』
同年に小墾田屯倉(おはりだのみやけ)と諸所の田部(たべ)を与えられた。日本書紀(巻第十八 安閑天皇元年十月甲子条)
『日本書紀(巻第十八 安閑天皇元年十月甲子条)』
天皇は大伴大連金村に勅して「朕は四人の妻を召し入れたが、 今に至るまで嗣子がいない。 万世の後に朕の名は絶えてしまう。 大伴の伯父よ。一計を案じてくれ。 いつもこれを思うと憂慮に堪えないのだ」と。
大伴大連金村が奏上して「このことはまた私が憂い申し上げていることでございます。 我が国家の天下に王たる者は、 お世継ぎの有無を論じるのではなく、 必ず物によって名を為します。 どうか皇后や次の妃の為に屯倉の地を建て、 後世に留めて跡に顕しましょう」と。
詔して「よろしい。速やかに設けよ」と。
大伴大連金村が奏上して「小墾田屯倉と国ごとの田部を紗手媛に賜りますよう。 桜井屯倉(ある本では茅渟山屯倉を加え賜うという)と国ごとの田部を香香有媛に賜りますよう。 難波屯倉と郡ごとの钁丁を宅媛に賜りますよう。 これらを以て後に示し、昔を思うようにしましょう」と。
詔して「申すままに施行せよ」と。

香香有媛

香香有媛(かかりひめ)

許勢男人大臣の女。
紗手媛の妹。
安閑天皇元年(西暦534年)3月6日に姉の紗手媛と共に安閑天皇の妃となった。
桜井屯倉(みやけ)と諸国の田部をあたえられた。日本書紀(巻第十八 安閑天皇元年十月甲子条)

宅媛

宅媛(やかひめ)

物部木蓮子の女
安閑天皇元年(西暦534年)3月6日に安閑天皇の妃となった。
難波屯倉と郡ごとの钁丁をあたえられた。日本書紀(巻第十八 安閑天皇元年十月甲子条)

許勢男人

巨勢男人(こせのおひと)

巨勢男人は、 古墳時代の人物。 氏は許勢とも記される。 許勢小柄の曾孫。巨勢河上の子。
『紀氏家牒』では巨勢小柄-建彦宿禰-巨勢川辺宿禰(軽部宿禰)-巨勢川上宿禰-巨勢男人という系譜を記している。
武烈天皇崩御後の皇嗣選出にあたって男人は大臣であったが、 大連・大伴金村が推薦した男大迹王について、 皇統の子孫を調べると賢者は男大迹王しかいないとして、 大連・物部麁鹿火と共に支持する。 男大迹王が皇位についた(継体天皇)のちも、 男人は引き続き大臣に任ぜられた。

継体天皇21年(西暦527年)に発生した磐井の乱に際して、 大連・大伴金村、大連・物部麁鹿火と共に将軍の適任者について諮問を受け、 金村らと共に麁鹿火を推薦している。

継体天皇23年(西暦529年)9月薨去。

安閑天皇元年(西暦534年安閑天皇が即位すると、 娘の紗手媛香香有媛は共に妃に立てられた。

続日本紀(天平勝宝3年(751年)2月己卯条)』には、 雀部真人が、 巨勢男人は本来「雀部男人」であったのを誤って巨勢と記されたと奏上し、 時の大納言であった巨勢奈弖麻呂もその主張を支持したため、 訂正したと記されている。 なお、この記事によれば、 男人継体安閑朝に大臣であったと記されているが、 『日本書紀』では、 継体天皇23年(西暦529年)9月に亡くなったと記されており、 『日本書紀』とは異なる史料が存在していたことがわかる。
系譜

物部木蓮子

物部木蓮子(もののべのいたび)

物部木蓮子は、 古墳時代の豪族。 物部氏十二世。物部布都久留の子。
先代旧事本紀(天孫本紀)』は、 宇摩志麻治命12世の孫で、 仁賢天皇の時代の大連とし、 石上神宮を奉斎した、とする。 また、『日本書紀』では、 安閑天皇の妃に娘・宅媛をあげる。 なお、安閑天皇の妃には、 宅媛の他に皇后の春日山田皇女と、 許勢男人大臣の女紗手媛香香有媛の姉妹がいた。
系譜

事績

西暦513年に立太子され、 48歳で皇太子となる。

継体天皇の後を受けて、 66歳にして即位したが、わずか4年で崩御した。 『古事記』では、 乙卯年(西暦535年)3月13日に崩じたとされる。

安閑天皇の治世の出来事として『安閑記』に、 関東から九州までの屯倉の大量設置と、 41箇所の屯倉の名が列挙され、 これに伴う犬養部の設置が記されている。

なお、『日本書紀』に引く「百済本記」(「百濟本記爲文 其文云 大歳辛亥三月 軍進至于安羅 營乞?城 是月 高麗弑其王安 又聞 日本天皇及太子皇子 倶崩薨 由此而言 辛亥之歳 當廿五年矣」)によれば、 西暦531年頃に、 天皇と太子・皇子が共に薨去したという所伝があるという。 このことから、 継体天皇の崩御後、 安閑天皇宣化天皇の朝廷と欽明天皇の朝廷が並立し、 二朝間で内乱があったのではないかとする説もある(「辛亥の変」説)。

後世、神仏習合の教説で蔵王権現と同一視されたため、 明治時代の神仏分離以降に、 従来蔵王権現を祭神としていた神社で安閑天皇を祭神とし直したところが多い。

皇居

都は勾金橋宮(まがりのかなはしのみや。現在の奈良県橿原市曲川町か)。
なお、 西暦1889年から西暦1956年まで存続した「金橋村(高市郡)」(現、橿原市)は、 この宮号による近代の復古地名であった。
金橋村がなくなった今でも駅名(JR金橋駅)や小学校名、 郵便局名等々にその名を留めている。

陵・霊廟

陵(みささぎ)は、 宮内庁により大阪府羽曳野市古市5丁目にある古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)に治定されている。 宮内庁上の形式は前方後円。 遺跡名は「高屋築山古墳」で、 墳丘長122メートルの前方後円墳である。

一方、近年研究者の間で、安閑天皇の真陵とする説が出されているのが、 羽曳野市と松原市の境界にあり、 宮内庁によって雄略天皇の陵墓参考地とされている「河内大塚山古墳」である。 この古墳は日本全国で第5位の規模の巨大古墳でありながら盛土の低さや周濠の浅さ、 埴輪の未設置などから被葬者が完成前に死去してそのまま葬られたことをうかがわせる特徴があり、 在位期間の短かかったために十分な造営期間が取れず、 なおかつ暗殺説もある安閑天皇の陵墓であるとされている。
ただし、こうした特徴を6世紀後半の古墳の形態の1つとみなして未完成説とそれを根拠とした安閑天皇陵説に反対する研究者もいる。

また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
西暦1936年昭和11年)1月27日、 安閑天皇千四百年式年祭につき、 皇霊殿において天皇が拝礼。 また、山陵において祭典を行い、勅使を派遣した。

古市高屋丘陵

古市高屋丘陵(ふるちのたかやのおかのみささぎ)

安閑天皇の陵墓。
所在地:大阪府羽曳野市古市5丁目
陵形:前方後円
古墳:高屋築山古墳

日本書紀』によると、 皇后の春日山田皇女および異母妹の神前皇女と合葬された。

在位年と西暦との対照表

日本書紀』における安閑天皇の在位年には不自然な点があり、安閑天皇在位紀年には『日本書紀』のほかにも諸説がある。詳細は「継体・欽明朝の内乱」を参照。
年代は『日本書紀』に記述される在位を機械的に西暦に置き換えたもの。 太字は太歳干支の年。

『日本書紀』(本文)における紀年
安閑天皇    元年 2年
西暦 532年533年534年535年
干支 壬子 癸丑 甲寅 乙卯

(参考)『日本書紀』或本におけるこの時期の紀年(継体天皇安閑天皇の先代の天皇)
継体天皇26年 27年 28年
西暦 532年533年534年
干支 壬子 癸丑 甲寅


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