小窓
【未】蘇我入鹿(そが の いるか)

作成日:2020/7/5

蘇我入鹿
そがのいるか
時代 飛鳥時代
生年 西暦611年
推古天皇19年)
没年 西暦645年7月10日
皇極天皇4年6月12日)
別名 林大臣鞍作大郎
墓所 飛鳥寺
官位 大臣
主君 皇極天皇
氏族 蘇我氏
祖父 蘇我馬子
父親 蘇我蝦夷
母親
配偶者
 
蘇我入鹿は(そがのいるか)は、 飛鳥時代の豪族。 蘇我蝦夷の子。

古代の中央豪族。蝦夷 (えみし) の子。鞍作臣とも呼ばれた。 皇極天皇のときの権臣で、その権力は大臣の父蝦夷よりまさっていたといわれる。
入鹿は聖徳太子の死後、上宮王家を排斥し、皇極2年(西暦643年)舒明天皇の皇子で、 馬子の娘の生んだ古人大兄王を即位させるために、 太子の子山背大兄王の一族を斑鳩に襲って斑鳩寺 (法隆寺) で自殺させた。

翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て並べ、 父の家を「宮門 (みかど) 」、自分の家を「谷 (はざま) の宮門」と呼び、 子を王子と称して家を武力で固めた。

この強圧政策のため人心は動揺した。 この前後から、中大兄皇子 (のちの天智天皇) と中臣鎌子 (のちの藤原鎌足) は、 反対派の豪族たちと蘇我氏討滅の計を進めていたが、 三韓朝貢の日、ついにクーデター(乙巳の変)を断行。
入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で殺された。

蘇我氏系譜

蘇我氏系譜

年譜

青少年期は僧・旻に学問堂で学び、「吾が堂に入る者に宗我大郎(蘇我入鹿のこと)に如くはなし」と言われる程の秀才だったと言われる。
西暦642年皇極天皇元年)
皇極天皇の即位に伴い、大臣であった父・蘇我蝦夷に代わって国政を掌理する。
7月23日。従者が白色の雀の雛を手に入れた。雀は祖父の蘇我馬子を表された事があるとされている。
西暦643年皇極天皇2年)
蝦夷が非公式に「紫冠」を入鹿に授け、 大臣(オホマヘツキミ)としたとされ、 蘇我氏の「専横」の一例とされるが、 近年の研究によれば、 蘇我氏内部の氏上の継承はあくまで氏族内部の問題であり、 冠位十二階から独立した存在である「紫冠」は、 蘇我氏内部で継承したとしても何ら問題はなかったとされる。
西暦643年(皇極天皇2年)
12月20日(11月1日)。入鹿は巨勢徳多、土師猪手、大伴長徳および100名の兵に、斑鳩宮山背大兄王を襲撃させた。
12月30日(11月11日)。山背大兄王と妃妾など一族はもろともに首をくくって自害し、上宮王家はここに絶えることとなる。
蘇我蝦夷は、入鹿が山背大兄王を殺害したことを聞き、激怒したという。
西暦645年(皇極天皇4年)
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  • 中大兄皇子中臣鎌足ら、蘇我入鹿を宮中で暗殺する。
  • 蘇我蝦夷自殺する(乙巳の変)。
  • 軽皇子即位。孝徳天皇となる。

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