蘇我入鹿は(そがのいるか)は、
飛鳥時代の豪族。
蘇我蝦夷の子。
古代の中央豪族。蝦夷 (えみし) の子。鞍作臣とも呼ばれた。
皇極天皇のときの権臣で、その権力は
大臣の父蝦夷よりまさっていたといわれる。
入鹿は
聖徳太子の死後、
上宮王家を排斥し、皇極2年(西暦643年)舒明天皇の皇子で、
馬子の娘の生んだ古人大兄王を即位させるために、
太子の子
山背大兄王の一族を斑鳩に襲って斑鳩寺 (
法隆寺) で自殺させた。
翌3年甘橿丘 (あまかしのおか) に家を建て並べ、
父の家を「宮門 (みかど) 」、自分の家を「谷 (はざま) の宮門」と呼び、
子を王子と称して家を武力で固めた。
この強圧政策のため人心は動揺した。
この前後から、
中大兄皇子 (のちの天智天皇) と
中臣鎌子 (のちの藤原鎌足) は、
反対派の豪族たちと
蘇我氏討滅の計を進めていたが、
三韓
朝貢の日、ついにクーデター(
乙巳の変)を断行。
入鹿は飛鳥板蓋宮の大極殿で殺された。