敏達天皇の孫で押坂彦人大兄皇子の王子、茅渟王の長男。
母は欽明天皇の孫で桜井皇子の王女、吉備姫王。
皇極天皇(斉明天皇)の同母弟。
天智天皇(中大兄皇子)・間人皇女・天武天皇(大海人皇子)の叔父。
姪・間人皇女を皇后にした。
阿倍倉梯麻呂(阿倍内麻呂)の娘の小足媛を妃として、有間皇子を儲けた。
他に子女は確認されていない。
蘇我倉山田石川麻呂の娘の乳娘(ちのいらつめ)を妃とした。
『日本書紀』の評によれば、
天皇は仏法を尊び、
神道を軽んじた。柔仁で儒者を好み、
貴賎を問わずしきりに恩勅を下した。
また、
蘇我入鹿を避けて摂津国三島に引きこもっていた中臣鎌子(後の藤原鎌足)が即位前の軽皇子時代に接近していたことが知られる(『日本書紀』皇極天皇3年正月乙亥朔条)。
皇極天皇4年6月12日(645年7月10日)に「乙巳の変」が起きると、
翌々日に皇極天皇は中大兄皇子に位を譲ろうとした。
中大兄は辞退して軽皇子を推薦した。
軽皇子は三度辞退して、
古人大兄皇子を推薦したが、
古人大兄皇子は辞退して出家した。
14日の内に皇極天皇から譲位を受け、軽皇子が即位した。
大王の譲位は前代未聞であった。
前の大王である皇極天皇に皇祖母尊(すめみおやのみこと)という称号を与え、
中大兄を皇太子とした。
阿倍内麻呂(阿倍倉梯麻呂)を左大臣に、
蘇我倉山田石川麻呂を右大臣にした。
中臣鎌子(藤原鎌足)を内臣とした。
僧旻と高向玄理を国博士とした。
孝徳天皇元年6月19日(645年7月17日)、
史上初めて元号を立てて大化元年6月19日とし、
大化6年2月15日(650年3月22日)には白雉に改元し、
白雉元年2月15日とした。
『日本書紀』が伝えるところによれば、
大化元年から翌年にかけて、
孝徳天皇は各分野で制度改革を行なった。
この改革を、後世の学者は「大化の改新」と呼ぶ。
この改革につき書紀が引用する改新之詔4条のうち、
第1条と第4条は、
後代の官制を下敷きにして改変されたものであることが分かっている。
このことから、
『日本書紀』が述べるような大改革はこのとき存在しなかったのではないかという説が唱えられ、
大化改新論争という日本史学上の一大争点になっている。
孝徳天皇の在位中には、高句麗・百済・新羅からしばしば使者が訪れた。
従来の百済の他に、朝鮮半島で守勢にたった新羅も人質を送ってきた。
日本は、形骸のみとなっていた任那の調を廃止した。
多数の随員を伴う遣唐使を唐に派遣した。
北の蝦夷に対しては、渟足柵・磐舟柵を越国に築き、柵戸を置いて備えた。
史料に見える城柵と柵戸の初めである。
孝徳天皇は難波長柄豊碕宮(大阪市中央区)を造営し、そこを都と定めた。
白雉4年(653年)に、皇太子(=中大兄皇子)が大王に対して倭京に遷ることを求めた。
大王がこれを退けると、
皇太子は皇祖母尊と大后(皇后・間人皇女)、
大海人皇子を連れて倭に赴いた。
臣下の大半も皇太子に随って去ってしまい、
気を落とした大王は、翌年病気になって崩御した。宝算59。
近年[いつ?]では、
軽皇子が中大兄皇子を教唆して「乙巳の変」を引き起こした黒幕であるという説を唱える歴史学者もいる。
しかし、軽皇子が即位して後重用したのは蘇我氏系豪族が多く、今後の議論が待たれる。
陵(みささぎ)は、
宮内庁により大阪府南河内郡太子町大字山田にある大阪磯長陵に治定されている。
宮内庁上の形式は円丘。
遺跡名は「山田上ノ山古墳」で、直径32メートルの円墳である。
『日本書紀』では天皇は白雉5年(654年)10月の崩御後、
同年12月に「大坂磯長陵」に葬られたとする。
『延喜式(諸陵寮)』では孝徳天皇陵は遠陵の「大坂磯長陵」として記載され、
河内国石川郡の所在で、
兆域は東西5町・南北5町で守戸3烟を毎年あてるとする。
その後、
元禄の探陵の際に現陵に治定され(他に古市にも孝徳天皇陵伝承地が存在した)、
元治元年(1864年)に修復および拝所整備等が実施された。
現在の陵号には「坂」でなく「阪」の字が使用される。
また皇居では、 皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。