高句麗は別名を貊(はく)と言う。 日本では「高麗」と書いても「貊(狛)」と書いてもこまと読む。 現在では高麗との区別による理由から「こうくり」と読む慣習が一般化しているが、 本来、百済・新羅の「くだら」・「しらぎ」に対応する日本語での古名は「こま」である。
高句麗の名前の由来について確実なことはわかっていない。 高句麗(句驪)という固有名詞が登場する最も古い記録は『漢書』「地理志」に 「玄菟・楽浪郡は武帝の時においた(前107年)。みな朝鮮・濊貊・句驪の蛮夷の地である」とあるもので、 玄菟郡の首県として高句驪、上殷台、西蓋馬が言及されている。 驪は麗と同音であり、漢人の蔑視による表現であって意味上の差異はない。 高句麗の名称の由来については諸説あり、 かつて白鳥庫吉はこれを「高」と「句麗」に分解し、 句麗はコル(城)、高はコ(大きい)であるから、 原義は「大城」であるとした。 李丙燾はコルを白鳥と同じく理解するが、高はスリ(神聖な/首位の)であり、 「首邑」「上邑」の意味であるとした。
高句麗は文献記録上は貊族として現れる。 そして8世紀に突厥で造られたオルホン碑文にはボクリ(bokli)という東方の国が登場する。 岩佐精一郎はこのボクリが高句麗を指すものであると見、 「貊句麗」の音を表したものであろうとした。 それに対して護雅夫はこれはbok eliと読むべきで、 高句麗を指すものには違いないが、意味は「貊の国」であるとする。 だが、貊という種族は古く周代から中国の史料に登場し、 時代や筆者によって異なる実体を指し示したと考えられる語であるため、 高句麗を指す「貊」を漢代より前に登場する「貊」と単純に繋がりのあるものとすることはできない。
なお、高句麗は『南斉書』「高麗伝」に「高麗」という国名で表記されており、 隋唐代の史書でも高麗と表記する。 冊封の際の正式名が「高句麗王」から「高麗王」となったのは520年の梁の冊封が最初であり、 高句麗が意識的に高麗へと改名したとする説もある。 だが改名したとする決め手もなく、 単に省略形が定着しただけである可能性もある。 矢木毅は、冊封体制における慣例として国号の字数を2文字に揃えた物であるとしている。
詳細は「東明聖王#建国神話」を参照 『三国史記』「高句麗本紀」冒頭の神話によれば、高句麗は朱蒙(東明聖王)により建てられたという。朱蒙は河神の娘である柳花の息子であるとされる。その神話では顛末は以下のようなものである。夫余王の金蛙が大白山(白頭山)の南の優渤水で柳花に出会い話しかけると、彼女は天帝の子と称する解慕漱と愛し合ったが、解慕漱はどこかへいなくなってしまい、父母は媒酌人もなく人に従ったことを責め、彼女を幽閉したと言った。金蛙がこの話を不思議に思って家に柳花を閉じ込めると、日光が彼女を照らし彼女は身籠った。そして大きな卵を産み、やがて中から男の子が生まれた。これが朱蒙である。幼少より卓越した才能を見せた朱蒙は、夫余の王子たちの誰よりも優れていた。不安を覚えた夫余の王子たちは朱蒙を除くように主張したが聞き入れられず、最終的に暗殺を試みたが、危険を察知した母柳花の助言によって朱蒙は国外へ脱出し、卒本川に至って建国した。なお、「高句麗本紀」の分注異伝では、朱蒙が卒本夫余に来た時、男子のいなかった夫余王が朱蒙の才を見て王女と結婚させ、後に朱蒙が王になったとする。そして国号を高句麗としたので高を氏の名前としたという[5]。『三国史記』に従うならば、この建国は前漢の元帝建昭2年のことであり、西暦に直すと前37年となる[6]。
高句麗という固有名詞に言及する最も古い記録は先述の通り『漢書』「地理志」に玄菟郡の首県として高句驪県が言及されているもので、玄菟郡の設置は前漢の武帝の時代、前107年である[1]。このため、どの段階を「建国」として扱うかという問題はあるものの、高句麗の政治的な結集は『三国史記』に記録されているよりも早い段階に行われたと考えられる[1]。 漢は日本海側へ続く流通路(玄菟回廊)を確保すべく?貊の地に玄菟郡を設置した[1]。これを第一玄菟郡と呼ぶ[1]。最初に郡治が置かれた場所は、現在の北朝鮮の咸鏡南道咸興地方であると考えられている[1]。この時周辺地域を統治するために高句麗人の居住地を含む複数の地域に県城が置かれた。後に高句麗の首都が置かれる現在の中国領吉林省集安では、高句麗時代の王城の地下に土塁が確認されており、恐らくは高句麗県城であると考えられている[1]。同じく後に高句麗の首都がおかれる遼寧省桓仁にも、土城が確認されており、こちらも玄菟郡の県城であると考えられている[1]。この様に、漢は当初高句麗人の郡県統治を目指した[1]。だが、高句麗人は容易に服属しなかったと見られ、前75年には郡治を桓仁西北の永陵鎮に遷した[1][7]。これが第二玄菟郡である[1][7]。玄菟郡は旧来の高句麗県を廃止し、新たな郡治に高句麗県の名前を残した[8]。文献史学的には高句麗の興隆はこの前107年から前75年の間、概ね前1世紀前半頃であると考えられる[8][9]。一方、考古学見地からは高句麗の故地における新しい墓形式である積石塚の登場をもって高句麗のはじまりとするのが一般的となる[9]。積石塚とは、各種の石を積み上げ、中央に埋葬主体を儲ける形式の古墳であり、しばしば平面プランは方形となるものである[9]。具体的な年代割り当ては諸説あり、最も原始的な形態である無基壇式石槨積石塚のうち、あるものは紀元前3世紀に遡るとする説もあるがはっきりしない[10]。この形式の積石塚の中には五銖銭が出土しているものがあることから、紀元前後の時期までは遡ると思われる[10]。 高句麗の最初期の中心地は卒本(忽本とも、現在の遼寧省本渓市桓仁満族自治県)のある渾江流域から集安のある鴨緑江流域にかけての地域であった。高句麗人たちは那、または奴とよばれる多数の地縁的政治集団を形成し、各那集団には大加、諸加とよばれる首長層がいた[11]。こうした那集団は首長連合を形成していたと考えられ、『三国志』「魏志[注釈 1]」や『魏略』など中国の史書は有力な那集団として桓奴部、絶奴部、消奴部、灌奴部、桂婁部と言う五族(五部)の存在を伝えている[11][注釈 2]。 那集団の連合体であったと考えられる高句麗は、漢の郡県と抗争を繰り返した[14]。興隆期の高句麗の動向は主に中国の史料によって伝わる。西暦8年に漢の平帝を殺害し帝位を簒奪して新たに新王朝を開いた王莽は、高句麗を含む東夷諸族に新たな印綬を配布した[15]。この時従来まで王を名乗っていた高句麗の君主は高句麗侯へと格下げされた[15]。西暦12年に王莽が匈奴出兵のために高句麗侯?(すう)に出兵を命じた際には、?がこれに応じなかったために捕らえられて処刑されたという[15]。更に王莽は高句麗の国名を「下句麗」として卑しめた[15]。この?が名前と具体的な行動が伝わる最古の高句麗の人物である[16]。王莽が倒され光武帝によって後漢が開かれると、「下句麗」侯は西暦32年にこれに朝貢し、高句麗王へと戻された[16][14]。 その後、高句麗の勢力は拡張し、これに圧迫された漢の玄菟郡は再び後方へと移転した[17]。これを第三玄菟郡と言うが、具体的な移転先についての記録はない[17]。ただし、現代の研究によって移転は105年から106年頃、移転先は遼寧省撫順にある永安台古城とするのが定説となっている[17]。この移転の後も、1世紀ほどの期間にわたり、高句麗王の宮(太祖大王)、遂成(次大王)、伯固(新大王)らが繰り返し遼東、玄菟などを襲撃し続けた[17]。
2世紀末の黄巾の乱とその後の中央政府の統制力の低下によって後漢が分裂状態に陥ると、遼東地方では公孫度によって公孫氏政権が打ち立てられた[17][14]。一方の高句麗では高句麗王伯固の死後、その息子延優(山上王、在位:197年-227年)が即位したが、これに反発した兄の発岐は公孫氏を頼って延優に対抗し、卒本に息子を残して自らは遼東へ移り住んだ[18][14]。延優は公孫氏と発岐から逃れて南に移動し、古くからの重要拠点である国内城(集安)で「新国」を建てた[14][19][20]。この「新国」がその後の高句麗の歴史を担うことになり、国内城は高句麗の王都となった[14][19]。国内城は旧高句麗県の県城を居城として転用したもので、背後の山には緊急用の大規模な山城(丸都城、山城子山域)が築かれた[14]。山城の丸都城と平城の国内城とは一体となって王都を構成した[20]。その後の発岐とその息子の動向は不明である[19]。 高句麗は漢の滅亡の後に中原を支配した魏と結び、司馬懿率いる魏軍が公孫氏を討伐する際には援兵も出したが、公孫氏滅亡後間もない242年には延優の跡を継いだ憂位居(東川王[21])が西安平を寇掠し魏と衝突するようになった[21][22][20]。魏は将軍?丘倹の指揮の下で数度に渡り高句麗への遠征を行った。280年から291年のあいだに編纂されたとされる『三国志』「魏志」の記載によれば1回目の侵攻は244年に行われたが[21]、20世紀に発見された碑文の記録を信ずるならば242年中に既に出陣していた可能性もある[23]。東川王は20,000の兵を率いて迎え撃ったが敗退し、丸都城を落とされ1,000人が斬首された[24]。?丘倹は将兵に墳墓破壊を禁じ捕虜と首都を返還したが高句麗は服属せず、魏は245年に再び侵攻した[23]。今度はより広範囲が戦場となり[23]、高句麗は南北の2方向から侵攻した魏軍との激しい戦いの末に敗れた[23]。東川王は沃沮・不耐の故地にまで逃がれて魏軍の追撃から身を隠した[25]。 一連の戦いで丸都城は蹂躙され高句麗は多大な損害を受けたが[25]、東川王は魏の攻撃が一段落した後、間もなく復興に手を付けた[25]。『三国史記』「東川王紀」は丸都城が破壊されたために新たに平壌城を築いて新たに首都としたと伝える[26]。だが、実際にこの頃に高句麗が遷都を行った形跡はなく[25]、仮に実施されていたとしてもこれは後世に高句麗が都を置いた平壌城とは異なる。この遷都についての記録は、後世の平壌を神聖視する観念を反映して後に挿入された挿話であるか[27]、または丸都城の別名か集安市付近の域名であると考えられる[28]。 高句麗はこの戦争の敗北から立ち直り、美川王(乙弗、在位:300年-331年)が即位したころには、従来からの五部体制を維持しつつも国王権力の集中が推し進められ官位制度が整備されるなど内政面の強化が行われた[29]。そして対外的には、中国を統一した西晋で発生した八王の乱やその後の分裂などの混乱に乗じて遼東地方への進出を図った。311年には丹東を攻略して朝鮮半島の郡県を中国本国から切り離し[29]、盛んに楽浪郡や帯方郡を攻撃した[30]。313年にはこれに耐えられなくなった楽浪郡の郡民の多くが鮮卑の慕容氏の下へ移住し、楽浪・帯方両郡は行政機能を事実上喪失した[30]。同年中に高句麗は楽浪郡を占領し朝鮮半島北部の支配を確立した[30]。それでも楽浪郡の故地には多くの漢人が残留し、新たに中国の戦乱を逃れて流入した漢人もこれに加わった。彼らは南北に分裂しつつあった中国の正統王朝として東晋を支持し、その年号を使用し続けるなど回帰の願望を持っていた[30]。高句麗は平壌を新たな拠点として確保する一方で、彼ら漢人に対しては緩やかな支配で臨んだ[30]。更に北方では夫余を攻撃してその本拠地を支配下に置いた[30]。 同時期に勢力を大幅に強めていた鮮卑の慕容氏もまた、319年には晋の平州刺史崔毖を破って遼東に勢力を拡張し高句麗と直接対峙するようになった[31][32]。高句麗は撫順に移転していた玄菟郡を倒し、その地に新城(高爾山城)を築いて西方の拠点とした[32]。しかし、慕容氏の慕容?は337年に燕王(前燕)を称し、342年には大軍をもって高句麗に侵攻した[32]。高句麗はこの戦いに敗れ丸都城が再び失陥した[32][33][34]。高句麗王釗(しょう、故国原王。在位:331年-371年)は翌年、前燕に臣下の礼を取り王弟を入朝させることによって難局を乗り切ったが、高句麗は大きな打撃を受けた[35][32][34]。350年代には前燕に人質を入れて戦争中に捕らわれていた王母を取りもどし、征東大将軍・営州刺史・楽浪公として冊封された[35][32]。この頃、朝鮮半島中央部で新たに馬韓諸国が統合して形成されていた百済[注釈 3]の近肖古王によって旧帯方地域が奪われた。故国原王は369年に百済攻撃に乗り出したが敗退し、371年にも大同江を越えて再び百済を攻撃したがこれにも敗れ、逆に平壌を攻撃した百済軍との戦いで流れ矢にあたり戦死した[35][34][32]。 国王戦死によって高句麗は混乱し、跡を継いだ小獣林王(在位:371年-384年)と故国壌王(在位:384年-391年)の兄弟は国制の立て直しに邁進しなければならなかった[36][34]。小獣林王は前燕を滅ぼした前秦との関係強化に努めた[36]。372年に秦王苻堅(在位:357年-385年)から僧順道や仏典・仏像が贈られ、375年には寺院が建立された[36]。これが高句麗への仏教公伝である[36][34][32][37]。また同じ年には教育機関として太学(大学)が設けられ、具体的な内容は伝わらないものの律令が制定されたという[36][34]。更に故国壌王時代には国社・宗廟、礼制の整備が行われた[34]。こうした積極的な国内政策を通じて国力の回復が図られた[38]。
391年に即位した広開土王(好太王、在位:391年-412年)はいわゆる広開土王碑を残したことで名高い[37]。この碑文は彼の死後にその功績を称揚する目的で建立されたものであり、4世紀末から5世紀初頭における東アジア史の重要史料となっている[39]。彼の諡号である広開土王(広く領土を開いた王)の名は彼が各方面で大きな戦果を挙げ領土を拡大した事に因んでいる[38]。彼は395年には北西の稗麗(契丹の部族)を撃破し、翌396年には朝鮮半島中部の百済へ親征してその王都漢城に迫った[38][40]。これによって百済王を臣従させ58城邑の700村を奪取した[38]。398年には東北の粛慎を攻撃して朝貢させ[注釈 4]、また誓約を破って倭と和通した百済を再度攻撃するため平壌まで進軍した[38]。そこで倭の攻撃を受けていた新羅が救援を求めてきたため、400年に新羅領へ出兵しその王都を制圧していた倭軍を駆逐した[38][43]。更に敗走する倭軍を追って朝鮮半島南端部にあたる任那加羅まで進み、倭人と共にいた安羅兵も討ったという[38][43][42][40]。404年には倭が海路で帯方地方に侵入したがこれも撃退した[38]。407年にも百済へ侵攻して6城を奪い、続いて410年には東扶余(北沃沮)にも侵攻してその王都に迫った[38]。このような征服活動についての記録は前述の通り主に広開土王碑文の情報に基づいている。この碑文の解釈を巡っては諸説入り乱れており、史実性を巡って議論があるが、重要性の高い同時代史料として現代では高く評価される傾向にある[注釈 5]。 また、碑文の記録にはないが前秦の崩壊に乗じて慕容氏が復興した後燕とも戦い、402年には遼東郡を奪って遼河以東の地域に支配権を確立した[46][42]。その後、高句麗人で慕容宝の養子となっていた慕容雲(高雲)が後燕の将軍であった漢人馮跋に擁立されると、広開土王は即座に使者を送り慕容雲を宗族待遇とした[46]。更に同じく慕容氏の政権である南燕にも遣使し、これらを通じて高句麗の西部国境の安定が達成された[46]
広開土王によって拡大された領土を引き継ぎ、高句麗の全盛期を現出したのが長寿王(在位:413年?-491年)である[47][42]。その諡号の通り、79年に亘って在位したと伝えられる[47][42]。彼は即位直後の413年、東晋に初めて朝貢した[47]。この頃、鮮卑族拓跋氏の北魏が中原を支配下に収めると、北魏に敗れた北燕から天王馮弘が高句麗に亡命した。当初長寿王は馮弘を保護したが、北魏からの強い要求の前に折れ彼を殺害した[47]。長寿王はその後南北に分裂した中国の両朝に遣使を行い、特に国境を接する北魏との関係構築に腐心した[48]。南北両王朝とも高句麗の存在を高く評価し、424年には宋、435年には北魏からそれぞれ冊封を受けた[49]。高句麗に授けられた将軍号、官位は当時の東アジア諸国の中でも最上位級となった[48]。 長寿王はまた、朝鮮半島方面の経営と勢力拡大に本格的に乗り出し、427年に南方の拠点であった平壌へ遷都した[50][47]。この時遷都が行われた平壌城は現在の平壌市街ではなく、そこから6キロメートルほど北東にある大城山城一帯にあった[47]。南進路線をはっきりさせた高句麗は、対北魏関係の安定とともに南方への勢力拡大を続けた。この時期の高句麗の朝鮮半島における大きな影響力を示す記録が中原高句麗碑であり、新羅王を召喚して衣服の授与を行い、新羅の人夫を徴発して高句麗軍官の下に組織していたことを伝える[49][注釈 6]。更に455年以降、長期にわたり繰り返し百済を攻撃した[48][52]。高句麗の圧迫に耐えかねた百済は北魏に救援要請を行ったが、高句麗の北魏との親善策も功を奏し北魏が介入することはなかった[53]。 475年、長寿王は百済の首都漢城を襲ってこれを奪う事に成功した。そして逃走を試みた百済の蓋鹵王も捕らえて殺害し、事実上百済を滅亡させた[54][48][52][55]。その後、援軍を求めて新羅に派遣されていた文周王が南方の熊津(現・忠清南道公州市)で百済を再興した[56][57]。高句麗軍は更に南下し、現在の忠清南道北部まで進んだ[48]。また東方向に慶尚北道北部まで勢力を拡大し、遼東、満州南部、朝鮮半島の大部分を支配するに至った[58]。
広開土王、長寿王、そしてその跡を継いだ文咨明王(在位:492年-519年)の間は高句麗の対外活動が最も盛んな時期であった[52]。その次の安臧王(在位:519年-531年)は531年に殺害され、王弟が安原王(在位:531年-545年)として即位したが、この王が病に倒れると、2年に亘って王位継承を巡る外戚の争いが繰り広げられた[52][58]。その末に8歳の陽原王(在位:545年-559年)が擁立されたが、丸都城主朱理の乱を始めとして支配層は動揺し王権は弱体化した[52][59]。このような体制の動揺に加え、5世紀末になると再建を果たした百済と朝鮮半島南東部の新羅がそれぞれ国家体制を整えて国力を増し、連合して高句麗に対抗する姿勢を示した[60][59]。6世紀に入ると、朝鮮半島の東海岸を北上する新羅によって高句麗の前線は押し戻されるようになり、551年にはかつて百済から奪った漢城が百済と新羅の連合軍によって占領された[60][59]。最終的にこの都市は新羅が占有した[60][59]。 この事態に対応するため、陽原王は552年に現在の平壌市内に当たる地域を新たな王都とすることを決定した[60][59]。遷都後もその名前として平壌城という名が使用されたが、長安城とも呼ばれる[59]。この都市は高句麗の伝統的なスタイルではなく、中国式の条坊制を取る計画都市であった。本格的な工事は次の王である平原王(在位:559年-590年)治世中の566年から始められ、その最終的な完成には43年の歳月を費やすことになる[60][59]。この遷都は勢力を増す新羅の攻撃に対応する体制を整えると共に、朝鮮半島における不退転の決意を示すものであった[60][59]。新羅の拡張を受けて、570年には初めて倭国へ使者を送って対新羅での連携を探った[61][59]。 中国においては南北両朝の双方に朝貢を行って友好を保ち[59]、581年に隋の文帝が即位すると、隋からもすぐに冊封を受けた[61][62]。しかし、589年に隋が南朝の陳を平定して中国が統一されたことにより長きにわたる南北朝時代が終了し、東アジアの国際情勢は根本的な変化を迎えた[63][61][62][64]。その距離的な近さ故に、隋による中国統一に高句麗と百済は迅速に反応し、589年中に百済が、翌年には高句麗が隋への遣使を行っている[65][63]。やや遅れて594年には新羅も隋へ朝貢して冊封を受け、東アジア諸国が隋を中心とした一元的な国際秩序の中に組み込まれて行くこととなった[62][65][注釈 7]。 このような変化は、中国と国境を接しこれまで南北両朝の存在を前提に北朝の脅威に対応してきた高句麗にとっては深刻な事態であった[65]。この頃、高句麗は靺鞨を攻撃して支配下においていたが、靺鞨の中でも西端に位置した粟末靺鞨のみは高句麗の支配に服さず、首長の突地稽らは隋を頼んで遼西地方に移動し、隋領内から高句麗への反撃を行った[62]。更に突厥に押されて高句麗領内に寄居していた契丹人も高句麗から離反して隋へ服属する動きを見せた[62]。高句麗の平原王は契丹の離反を阻止するとともに、隋領内の突地稽ら粟末靺鞨との戦いを続け、隋の脅威に対応するために軍の増強と食料の備蓄を行った[62]。隋の文帝は高句麗の行動について状況を確認するための使節を派遣したが、高句麗は厳重な警戒の下で使節に応対した[66]。文帝は一連の高句麗の行動と使者の取り扱いに強い不快感を示し、平原王を問罪する璽書を送ったが、平原王が死亡したために沙汰止みとなった[62]。
高句麗と突地稽ら粟末靺鞨との抗争はその後も続き、 598年には突地稽らの根拠地営州(朝陽)を高句麗が襲撃した[62]。 これは隋から見た場合、 領内への侵略行為であり、 文帝はこれを契機として高句麗に水陸30万と号する遠征軍を派遣した[62][65][67]。 この隋による最初の高句麗征討は、 遼河の洪水によって兵糧の補給が途絶えるなどしたため隋側に大きな損害が出たこと[注釈 8]、 また隋との全面衝突を恐れた高句麗の嬰陽王(在位:590年-618年)が謝罪したことで一旦終息した[62][65][67]。 この頃、中央アジアからモンゴル高原にいたる地域に突厥が巨大勢力を築いていた[68]。 隋の調略もあって突厥は東西に分裂し、 東突厥は隋に臣従したものの、なお強大な力を持っていた[68]。 文帝の死後に隋の帝位を継いだ煬帝は607年の長城巡幸の際に東突厥の啓民可汗の下に高句麗の使者が来訪していることを発見し、 両者の間に連携の動きがあることを知って脅威を覚えた[68][62][69][67]。 またこの頃には百済、新羅が隋に高句麗征討の要請を行ってもいた[67]。 文帝時代の失敗に鑑みて十分な準備期間がとられ、 煬帝は612年に100万とも200万とも称する大軍を率いて高句麗に親征した[70][62]。 隋軍は各地の城を攻略し、 首都平壌も襲撃したが最終的に撃退された[71][72]。 煬帝は翌613年にも再度高句麗に親征を行ったが[71][70]、 この遠征は補給基地であった黎陽の提運楊玄感の反乱の知らせと、 兵部侍郎斛斯政が高句麗に逃亡したという報告によって再び退却に追い込まれた[71][70][67]。 更に煬帝は614年にも遠征を行った。 この時は水軍が卑沙城(現代の旅順近郊)を攻略したが、 隋軍の士気は低く逃亡兵が続出した上、国内での反乱が相次いだ[71][70]。 一方で高句麗も連年の戦争によって極めて疲弊していた[73]。 このため、高句麗の嬰陽王が自ら朝貢し、 斛斯政を引き渡すという条件で和議が結ばれた[71][70][73]。 高句麗はしかし、 王自らが朝貢するという約束を守ることはなかった[71][67][73]。 このため煬帝は617年には4度目の高句麗遠征を企画したが[73]、 楊玄感の反乱以来国内各地で反乱が大規模に発生していた最中であり、 その実行はもはや不可能であった[73][74]。 618年、煬帝が近衛軍団によって殺害され、 その後の内乱を勝ち抜いた李淵(高祖)によって建てられた唐が隋に取って代わった[74]。 こうして隋による一連の高句麗遠征は最終的に失敗に終わった。 このことは隋滅亡の重要な要因の1つと考えられている[71][74][75]。
高句麗は唐成立の翌年には遣使し、 621年には百済・新羅と揃って朝貢を行った[76]。 唐の高祖はなお国内に割拠する群雄との戦いに専念するために高句麗との関係の修復に努め、 しばらくの間高句麗の情勢は安定した[71][77]。 しかし、628年に太宗の下で国内の統一を完了すると唐は対外強硬策に転じ、 高句麗への圧力も増した[78]。 630年に東突厥を滅ぼした唐は、 631年に高句麗に対して隋による高句麗遠征の際の戦死者を埋葬した京観(敵の屍を積み上げて土を被せた戦勝記念碑)を破壊して遺骨を返還するよう要求した[71][76][79]。 唐の強硬姿勢を恐れた高句麗は国境沿いに千里余りに渡る長城を築いて唐からの侵攻に備えた[71][76]。 635年には吐谷渾が、640年には高昌国が唐に滅ぼされ、 高句麗国内では危機感が高まった[80][79]。 642年、当時長城の築城監督を任されていた大対盧の淵蓋蘇文(イリ・カスミ)は唐の侵攻に備えた権力の集中と国家体制の再編を目論んでクーデターに打って出た[80][79]。 彼はこのクーデターによって当時の栄留王(在位:618年-642年)と180人余りの臣下を殺害し、 王弟の子である宝蔵王(在位:642年-668年)を王座に就けた[80][79][81]。 そして自らは最高位の官位である大対盧を退き[82]、第二等の莫離支に身を置いて実権を握った。 淵蓋蘇文が権力を掌握した642年前後は、 百済、新羅、更には倭国でも政治体制の転換と権力の集中が進むとともに国際情勢も目まぐるしく変化し、 最終的な高句麗・百済の滅亡と新羅による朝鮮半島統一に帰結する東アジアの変動の起点であるとも評される[84]。 百済では義慈王(在位:641年-660年)が新羅に侵攻して伽耶地方を制圧すると共に専制体制の構築を図り[85]、 翌643年には長年戦いを続けてきた高句麗と百済の間で和睦が成立した[85]。 劣勢となった新羅でも642年に善徳女王を中心として金春秋、金?信の3名の結束による権力体制が静かに成立した[86]。 倭国においても舒明天皇が死に皇極天皇が即位するとともに蘇我蝦夷・蘇我入鹿親子が実権を握り、 「陵(みささぎ)」と称する墓の建設を開始している。 645年、高句麗と百済によって唐への入朝路が塞がれているという新羅の訴えや、新羅との和解を求める唐の要求を高句麗が拒絶したこと、唐が承認していた王である栄留王が殺害されたことなどを直接的な理由として、唐の太宗は10万余りとされる軍勢を率いて高句麗へ親征した[80][89]。高句麗は蓋牟城、遼東城、白巌城など10城を破られ、領土の一部を唐に奪われたものの、激戦の末に唐軍の撃退に成功した[80][89]。高句麗は647年、648年にも唐の攻撃を受け領土の一部を奪われたが、一連の攻撃をしのぎ切った[80][89]。その後、逆に周囲の諸国を攻撃して勢力拡大を図り、654年に契丹を攻撃し、655年には百済と共に新羅に出兵した[90]。契丹攻撃には失敗したものの、新羅からは33城を奪取することに成功した[90]。新羅はこの事態を打開するため、唐に百済の討伐を求めた。唐は658年から659年にかけて高句麗を攻撃したがこの遠征も失敗に終わり、高句麗を攻撃するにあたってその同盟国となっていた百済を先に滅ぼして高句麗の背後を抑えることを企図した[90][91]。この結果、唐は新羅の要請をのんで660年に水陸合わせ13万とする軍勢をもって海路百済へ侵攻した[90][91]。 主上欲呑滅高麗,先誅百濟。留兵鎮守,制其心腹 主上(高宗)は、高(句)麗を呑滅せんことを欲し、先ず百済を誅せり。兵を留めて鎮守し、その心腹を制す。 -『旧唐書』卷八十四/列伝第三十四/劉仁軌伝 百済はこれに対応することができず滅亡し、その後百済復興を目指した遺臣たちが反乱を起こし、倭国の支援を受けたが、663年の白村江の戦いの結果完全に制圧された[90][91]。 高句麗を包囲した唐は、新羅の兵力も加えて高句麗を再び攻撃した[90][92]。 661年と662年には既に高句麗への攻撃が開始され、 首都平壌は半年にわたって包囲されたが、 高句麗はこの新たな攻撃も防ぎ切った[92][93]。 しかし666年に淵蓋蘇文が死亡すると、その長子男生と、 弟の男建・男産が対立して分裂状態となり、 首都を追われた男生は国内城に立てこもって唐に救援を求めた[90][92][93]。 これを奇貨とした唐の高宗はただちに出兵を決定した。 唐は667年に高句麗の西の拠点である新城を攻略し、 合流した男生の先導で遼東半島も攻略すると、 668年には新羅と共に再び平壌を包囲した[90][94]。 男生の調略による城内の内応もあり[95]、 1ヶ月にわたる包囲ののち男産と宝蔵王は降伏した[90][94]。 男建はその後も抵抗を続けたが敗れて自殺未遂の末に捕らえられた[94]。 こうして668年に高句麗は滅亡した[90]。 『日本書紀』天智天皇紀は、高句麗の滅亡は「仲牟王」による建国からちょうど700年目のことだったと記している。 『新唐書』高麗伝、『唐会要』高句麗、『三国史記』高句麗宝蔵王本紀は高宗に問われた侍御史の賈言忠(賈曾の父、賈至の祖父)の言葉として、 漢代の建国から900年とする。 また『三国史記』新羅本紀で文武王10年(670年)安勝を高句麗王に封じた冊命書では「中牟王」による建国から800年とする。
唐軍を指揮していた李勣(徐懋功)は200,000人あまりの捕虜を引き連れて凱旋して宝蔵王らを昭陵(太宗の陵墓)に捧げ、新羅も7,000人の捕虜を引き連れて先祖廟に高句麗と百済の滅亡を報告した[94]。戦後、唐は平壌に安東都護府を設置し、旧高句麗領に9都督府・100県を置いて高句麗人を登用し、羈縻州として組み込んだ[94][96]。同じく旧百済領には熊津都督府が置かれており、更に高句麗遠征に際しては新羅の文武王(在位:661年-681年)を鶏林大都督としていた[96]。これは新羅もまた唐の羈縻州であることを意味したが、唐の支配下に置かれることを懸念した新羅は旧高句麗・百済領からの唐の排除を志向した[96]。670年に高句麗の酋長剣牟岑が唐の地方官を殺害し、宝蔵王の外孫とされる安勝を奉じて新羅に亡命すると、新羅は安勝を「高句麗王」(後に「報徳王」)に封じて高句麗の亡命政権を抱え込んだ[94]。新羅は翌年に高句麗の使者を倭国に朝貢させ、以後しばらくの間、新羅の使者が帯同して高句麗使が倭国へ送られた[96]。これは新羅が高句麗を保護下に置いていることを外交的に示威する行為であり、「報徳王」の冊立とともに、新羅王権の正統性を内外に示し、唐が設置した安東都護府に対抗する姿勢を明らかにするものであった[96]。 670年中には百済領をめぐって唐と新羅の衝突が始まった[97]。唐は新羅の行動を責めたが、新羅は侵攻と謝罪使の派遣を繰り返しつつ領土を蚕食した[97][98]。安勝の高句麗亡命政権もまた新羅軍の一翼としてこの戦闘に参加した[99]。唐は674年に新羅征討のため軍を派遣したが、676年には伎伐浦で新羅が唐軍を破り、旧百済領を確保して唐を朝鮮半島南部から駆逐することに成功した[97][100]。唐はこの年に熊津都督府を遼東の建安城に、安東都督府も遼東城に一旦遷して新羅の攻撃に備えた[97][100]。唐はその後も新羅による旧百済領支配を認めなかったが、チベット高原に本拠を置く西方の吐蕃の勢力拡張によって朝鮮半島情勢への介入継続が困難となり、678年に新羅征討を断念した[97][100]。この結果、安勝の高句麗亡命政権は存在価値を失い、684年に族人の謀反を切っ掛けに新羅に取り潰された[97][100]。こうして旧高句麗領の南端部を含む朝鮮半島は新羅の支配の下に入った[97]。 高句麗の遺民たちは様々な運命を辿った。高句麗が支配していた北部の領域ではその遺民の多くが唐によって営州(現在の遼寧省朝陽市)へ強制移住させられた[101]。そして唐は捕らえていた最後の高句麗王である宝蔵王を遼東州都督・朝鮮王に封じて遼東に戻し、現地を安撫させようとした[102]。しかし、宝蔵王は靺鞨と結んで反乱を企てたため四川に流されその地で死亡した[102]。一方、モンゴル高原で東突厥が自立して再び強大な力を持つようになったため(突厥第二帝国)、営州は唐にとって東北方面の一大拠点として重要な位置を占めるようになった[103]。 唐では690年に則天武后(武則天)が中国史上唯一の女帝として即位し、国号を周(武周)とした。696年に営州を契丹の族長李尽忠らが襲撃し、これを切っ掛けにして華北を席巻すると、武則天は突厥に助けを求め、その力によって契丹を撃破した[104]。しかし武周は営州の支配権を取り戻すことはできず、現地の契丹を討伐して遼東を奪回するために遠征軍を派遣した[104]。この討伐対象となった契丹反乱の余党の一部に乞乞仲象と大祚栄の親子が率いる一団があった[104]。大祚栄の集団は営州に強制移住させられていた高句麗遺民であったが、それがいわゆる高句麗人であるのか、高句麗に従属していた粟末靺鞨人であるのかは不明である[104]。大祚栄の集団は、この戦乱を切っ掛けに靺鞨人乞四比羽らとともに粟末靺鞨の中心地東牟山(吉林省敦化市付近)、あるいは松花江水系から牡丹江上流域へと逃れ、この地で振(震)国王を称した(698年)[105][106]。この振国が後の渤海へと繋がっていく。 唐に移った高句麗の遺臣たちの墓も発見されている。中華人民共和国で西安、洛陽を中心に入唐高句麗人の墓が多数発見されており、2016年現在までに21点の墓誌が見つかっている[107]。この墓誌によって数世代にわたり唐に仕えた彼らの動向が記録されている[107]。この中には高句麗の内乱の中で唐軍を引き込んだ泉男生などの墓誌も含まれており、高句麗攻略に功績のあったことから唐でかなり厚遇されたことや、彼と唐の関係がスムーズに構築されたわけではないことなど、当時の外交関係の詳しい事情を伝えている[108]。高句麗の遺民の一部には倭へ逃れた者もいたという。『続日本紀』によれば、武蔵国高麗郡(現在の埼玉県日高市・飯能市)は高句麗の遺民たちを移して設置したとされており[109]、高麗神社・高麗川・日高市高麗本郷などの名にその名残を留めている。 その他多くの高句麗人がその後どのような歴史を歩んだかは明らかではない。 朝鮮半島では10世紀初め、新羅の王族の弓裔が高句麗の後継を主張し、後高句麗を建てて新羅北部の大半を占領して独自の勢力を築き上げた[110]。その後、王建(太祖)が後高句麗(当時は泰封と号していた)を乗っ取り、同じく高句麗の再興を意識した高麗が朝鮮半島を支配することになる[110][111]。
前107年 - 漢が玄菟郡設置。文献史料上の固有名詞高句麗の初出 前75年 - 漢が玄菟郡の郡治を永陵鎮に移転(第二玄菟郡) 前37年 - 『三国史記』の伝説に基づく高句麗の建国年 前32年 - 『日本書紀』天智天皇紀に基づく高句麗の建国年 12年 - 高句麗侯(君主)?が新の王莽に処刑される 105/106年頃 - 漢が玄菟郡の郡治を現在の遼寧省撫順市の永安台古城に移転(第三玄菟郡) 209年 - 高句麗王延優(山上王)が兄の発岐と争い、国内城(現在の吉林省集安市)で「新国」を建てる(以降の高句麗はこの「新国」である) 242年頃-245年 - 魏が複数回に渡り高句麗に侵攻、首都丸都城(国内城と対になった山城)が陥落する 313年 - 高句麗が朝鮮半島の楽浪郡を征服する 342年 - 前燕(慕容氏)の慕容?が高句麗に侵攻、首都丸都城が陥落し、高句麗は前燕に臣礼を取る 369年 - 高句麗の故国原王が百済を攻撃するが失敗。 371年 - 故国原王が百済との戦いで戦死。 375年 - 前秦から僧順道・仏典・仏像などが高句麗に贈られる(高句麗における仏教公伝) 396年 - 広開土王の下百済を攻撃して58城邑の700村を奪取(以降407年まで百済、倭などとの戦いが続く) 413年 - 広開土王死去、長寿王即位 427年 - 高句麗が平壌に遷都(現在の平壌市街ではない) 475年 - 高句麗が百済の王都漢城を攻略、百済を一時滅亡させる 551年 - 百済と新羅によって漢城が奪われる 552年 - 長安城に遷都(現在の平壌市街に相当) 581年 - 中国で隋が成立 589年 - 隋が陳を平定、中国を統一する 598年 - 隋が高句麗に侵攻、首都平壌まで隋軍が迫るが撃退 612年 - 隋が高句麗に侵攻 613年 - 隋が高句麗に侵攻 614年 - 隋が高句麗に侵攻 618年 - 隋の皇帝煬帝が殺害され、唐が成立 642年 - 淵蓋蘇文がクーデターを起こす。栄留王とその側近を殺害し、宝蔵王を王位につけ自らが実権を握る。 645年 - 唐が高句麗に侵攻 647年 - 唐が高句麗に侵攻 648年 - 唐が高句麗に侵攻 655年 - 高句麗が新羅に侵攻、33城を奪う 660年 - 唐が海路で百済に侵攻し、新羅も唐に呼応。百済が滅亡する。その後百済遺臣たちが反乱を起こす(倭国の支援を受けたが、663年の白村江の戦いの結果鎮圧) 661年 - 唐と新羅が高句麗に侵攻 666年 - 淵蓋蘇文死去。その長子男生と、弟の男建・男産が対立し、男生は国内城へ逃れる。男生は唐に支援を求める 667年 - 唐が高句麗に侵攻、男生と合流し遼東半島を征服 668年 - 唐軍が高句麗の首都平壌を包囲してこれを陥落させ、高句麗を滅亡させる 670年 - 高句麗王族とされる安勝が新羅に亡命、新羅によって「高句麗王」(後に「報徳王」)に封じられる 684年 - 安勝の亡命政権が新羅に取りつぶされる
「言語」以降省略。