持統天皇は、日本の第41代天皇。天武天皇の皇后。史上三人目の女性天皇。
諱は鸕野讚良(うののさらら、うののささら)。
和風諡号は2つあり、
『続日本紀』の703年(大宝3年)12月17日の火葬の際の「大倭根子天之廣野日女尊」(おほやまとねこあめのひろのひめのみこと)と、
『日本書紀』の720年(養老4年)に代々の天皇とともに諡された「高天原廣野姫天皇」(たかまのはらひろのひめのすめらみこと)がある(なお『日本書紀』において「高天原」が記述されるのは冒頭の第4の一書とこの箇所のみである)。
漢風諡号「持統天皇」は代々の天皇とともに淡海三船により、熟語の「継体持統」から持統と名付けられたという。
持統天皇の子は草壁皇子ただ1人のみであったが、
その系統は天皇家の嫡流として奈良時代における文化・政治の担い手となった。
しかしながら、
皇統の神聖さとその維持を目的として、
近親婚が繰り返されたために、
天武天皇と持統天皇の男系子孫の多くは病弱で短命であった。
そのような状況が、
奈良時代における、
皇位継承に関する様々な紛争の要因となった。
そして、
玄孫の基王と孝謙・称徳天皇が亡くなった後、
天智天皇系の光仁天皇が即位し、
天武・持統天皇の血統の天皇は途絶えた。
光仁天皇の皇后には、
称徳天皇の姉妹である井上内親王が立てられ、
その子の他戸親王(持統天皇の来孫)が立太子された。
しかし、他戸親王は謀反の罪に問われて庶人に落とされ、そのまま没した。
また、
他戸親王の姉・酒人内親王は桓武天皇の妃となり朝原内親王(平城天皇の妃)を産んだが、
朝原内親王は子を成さなかった。
臣籍降下した中では、
昆孫の峯緒王が承和11年(西暦844年)に高階真人姓を賜り高階氏の祖となった。
しかし、
子の高階茂範(持統天皇の仍孫)は養子に家督を継がせたため、
彼を最後に持統天皇の系統は断絶している。
但し、
皇族の身分をはく奪された来孫の氷上川継、
曾孫の説のある高円広成・高円広世など、
歴史からは姿を消したものの、
彼らを通じて持統天皇の血をひく子孫がいる可能性がある。
父は天智天皇(中大兄皇子)、母は遠智娘といい、母方の祖父が蘇我倉山田石川麻呂である。父母を同じくする姉に大田皇女がいた。
大化5年(649年)、 誣告により祖父の蘇我石川麻呂が中大兄皇子に攻められ自殺した。 石川麻呂の娘で中大兄皇子の妻だった造媛(みやつこひめ)は父の死を嘆き、 やがて病死した。 『日本書紀』の持統天皇即位前紀には、 遠智娘は美濃津子娘(みのつこのいらつめ)ともいうとあり、 美濃は当時三野とも書いたので、 三野の「みの」が「みや」に誤られて造媛と書かれる可能性があった。 美濃津子娘と造媛が同一人物なら、 ?野讃良は幼くして母を失ったことになる[注釈 1]。
斉明3年(657年)、 13歳で叔父の大海人皇子(後の天武天皇)に嫁した。 中大兄皇子は彼女だけでなく大田皇女、大江皇女、新田部皇女の娘4人を弟の大海人皇子に与えた。 斉明7年(661年)には、夫とともに天皇に随行し、九州まで行った。 天智元年(662年)に筑紫国の娜大津で?野讃良皇女は草壁皇子を産み、 翌年に大田皇女が大津皇子を産んだ。 天智6年(667年)以前に大田皇女が亡くなったので、?野讃良皇女が大海人皇子の妻の中でもっとも身分が高い人になった。
天智天皇10年(671年)、大海人皇子が政争を避けて吉野に隠棲したとき、草壁皇子を連れて従った。『日本書紀』などに明記はないが、大海人皇子の妻のうち、吉野まで従ったのは?野讃良皇女だけではなかったかとされる[5][注釈 2]。
大海人皇子は翌年に決起して壬申の乱を起こした。皇女は草壁皇子と忍壁皇子を連れて、夫に従い美濃国に向けた脱出の強行軍を行った。疲労のため大海人一行と別れて伊勢国桑名にとどまったが、『日本書紀』には大海人皇子と「ともに謀を定め」たとあり、乱の計画に与ったことが知られる。
壬申の乱のときに土地の豪族・尾張大隅が天皇に私宅を提供したことが『続日本紀』によって知られる。この天皇は天武天皇とされることが多いが、持統天皇にあてる説もある。
大海人皇子が乱に勝利して天武天皇2年正月に即位すると、?野讃良皇女が皇后に立てられた。
『日本書紀』によれば、天武天皇の在位中、皇后は常に天皇を助け、そばにいて政事について助言した。
679年に天武天皇と皇后、6人の皇子は、吉野の盟約を交わした。6人は草壁皇子、大津皇子、高市皇子、忍壁皇子、川島皇子、志貴皇子で、川島と志貴が天智の子、残る4人は天武の子である。天武は皇子に互いに争わずに協力すると誓わせ、彼らを抱擁した。続いて皇后も皇子らを抱擁した。
皇后は病を得たため、天武天皇は薬師寺の建立を思い立った。
681年、天皇は皇后を伴って大極殿にあり、皇子、諸王、諸臣に対して令制の編纂を始め、当時19歳の草壁皇子を皇太子にすることを知らせた。当時、実務能力がない年少者を皇太子に据えた例はなかった。皇后の強い要望があったと推測される。
685年頃から、天武天皇は病気がちになり、皇后が代わって統治者としての存在感を高めていった。686年7月に、天皇は「天下の事は大小を問わずことごとく皇后及び皇太子に報告せよ」と勅し、持統天皇・草壁皇子が共同で政務を執るようになった。
大津皇子は草壁皇子より1歳年下で、母の身分は草壁皇子と同じであった。立ち居振る舞いと言葉遣いが優れ、天武天皇に愛され、才学あり、詩賦の興りは大津より始まる、と『日本書紀』は大津皇子を描くが、草壁皇子に対しては何の賛辞も記さない。草壁皇子の血統を擁護する政権下で書かれた『日本書紀』の扱いがこうなので、諸学者のうちに2人の能力差を疑う者はいない[7]。2人の母は姉妹であって、大津皇子は早くに母を失ったのに対し、草壁皇子の母は存命で皇后に立って後ろ盾になっていたところが違っていた。草壁皇子が皇太子になった後に、大津皇子も朝政に参画したが、皇太子としての草壁皇子の地位は定まっていた。
しかし、天武天皇の死の翌10月2日に、大津皇子は謀反が発覚して自殺した。川島皇子の密告という。具体的にどのような計画があったかは史書に記されない。皇位継承を実力で争うことはこの時代までよくあった。そこで、大津皇子に皇位を求める動きか、何か不穏な言動があり、それを察知した持統天皇が即座につぶしたのではないかと解する者がいる。謀反の計画はなく、草壁皇子のライバルに対して持統天皇が先制攻撃をかけたのではないかと考える者も多い[8]。いずれにせよ、速やかな反応に持統天皇の意志を見る点は共通している。
天武天皇は、2年3ヶ月にわたり、皇族・臣下をたびたび列席させる一連の葬礼を経て葬られた。このとき皇太子が官人を率いるという形が見られ、草壁皇子を皇位継承者として印象付ける意図があったともされる[9]。
ところが、 西暦689年4月に草壁皇子が病気により他界したため、皇位継承の計画を変更しなければならなくなった。?野讃良は草壁皇子の子(つまり?野讃良の孫にあたる)軽皇子(後の文武天皇)に皇位継承を望むが、軽皇子は幼く(当時7歳)当面は皇太子に立てることもはばかられた。こうした理由から?野讃良は自ら天皇に即位することにした。
その即位の前年に、前代から編纂事業が続いていた飛鳥浄御原令を制定、施行した。同年の12月8日には、双六を禁止している[10]。
持統天皇の即位の儀式の概略は、天武天皇の葬礼とともに、『日本書紀』にかなり具体的に記されている。ただし以前の儀式が詳しく記されていないので正確なところは不明だが、盾、矛を立てた例は前にもあり、天つ神の寿詞を読み上げることと、公卿が連なり遍く拝みたてまつり、手拍つというのは初見である。また前代にみられた群臣の協議・推戴はなかった。全体に古式を踏襲したものとみなす見解もあるが[11]、新しい形式の登場に天皇の権威の上昇を見る学者が多い[12][13]。
即位の後、大赦を行い、天皇は大規模な人事交代を行い、高市皇子を太政大臣に、多治比島を右大臣に任命した。ついに一人の大臣も任命しなかった天武朝の皇親政治は、ここで修正されることになった[14][注釈 3]。
持統天皇の統治期間の大部分、高市皇子が太政大臣についていた。高市は母の身分が低かったが、壬申の乱での功績が著しく、政務にあたっても信望を集めていたと推察される[24]。公式に皇太子であったか、そうでなくとも有力候補と擬せられていたのではないかと説かれる[25]。
その高市皇子が持統天皇10年7月10日に薨去した。『懐風藻』によれば、このとき持統天皇の後をどうするかが問題になり、皇族・臣下が集まって話し合い、葛野王の発言が決め手になって697年2月に軽皇子が皇太子になった[26]。 この一連の流れを持統天皇による一種のクーデターとみなす説もある[注釈 4]。
持統天皇は8月1日に15歳の軽皇子に譲位した。文武天皇である。日本史上、存命中の天皇が譲位したのは皇極天皇に次ぐ2番目で、持統は初の太上天皇(上皇)になった。
譲位した後も、持統上皇は文武天皇と並び座して政務を執った。文武天皇時代の最大の業績は大宝律令の制定・施行だが、これにも持統天皇の意思が関わっていたと考えられる[28]。しかし、壬申の功臣に代わって藤原不比等ら中国文化に傾倒した若い人材が台頭し、持統期に影が薄かった刑部親王(忍壁皇子)が再登場したことに、変化を見る学者もいる[29]。
持統上皇は大宝元年(701年)にしばらく絶っていた吉野行きを行った。翌年には三河国まで足を伸ばす長旅に出て、壬申の乱で功労があった地方豪族をねぎらった
大宝2年(702年)の12月13日に病を発し、22日に崩御した。宝算58。1年間の殯(もがり)の後、火葬されて天武天皇陵に合葬された。天皇の火葬はこれが初の例であった。
陵(みささぎ)は、宮内庁により奈良県高市郡明日香村大字野口にある檜隈大内陵(桧隈大内陵:ひのくまのおおうちのみささぎ)に治定されている。天武天皇との合葬陵で、宮内庁上の形式は上円下方(八角)。遺跡名は「野口王墓古墳」。
大化2年に出された薄葬令により天皇としては初めて火葬された。この陵は古代の天皇陵としては珍しく、治定に間違いがないとされる。天武天皇とともに合葬され、持統天皇の遺骨は夫の棺に寄り添うように銀の骨つぼに収められていた。しかし、1235年(文暦2年)に盗掘に遭った際に骨つぼだけ奪い去られて遺骨は近くに捨てられたという。
藤原定家の『明月記』に盗掘の顛末が記されている。また、盗掘の際に作成された『阿不幾乃山陵記』に石室の様子が書かれている。『明月記』には「女帝の御骨においては、銀の筥を盗むため、路頭に棄て奉りしと言う。塵灰と言えども探しだし、拾い集めてもとに戻すべきであろう。ひどい話だ。」とあり、崩御の500年後に夫・天武天皇と引き離され打ち捨てられた持統天皇の悲惨さを物語っている。
上記とは別に、奈良県橿原市五条野町にある宮内庁の畝傍陵墓参考地()では、持統天皇と天武天皇が被葬候補者に想定されている[39]。遺跡名は丸山古墳(五条野丸山古墳)。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。